我らの宿敵
〈雷霧〉とは、この大陸の西方からこの世界を侵食し続ける脅威のことをいう。
俺は、実際にその〈雷霧〉に直面したことはないが、この大陸に住む人類のほぼ全てがいつか自分たちに襲いかかる驚異だと認識している。
それほど、危険で身近な現象なのだ。
一言で言えば、遠方から見れば、はっきりと全体と大きさが視認できる濃霧であり、一歩でも中に踏み込めば前方十メートル以上は何も見通せなくなる。しかも、それが黒に近い灰色であるため、外部からはほとんど煙に見える。
もっとも、中に入ることはたやすいが、その中を進むことは困難極まりない。
なぜなら、〈雷霧〉の名称の由来であるところの雷が、内部で頻繁に荒れ狂っているからである。
それは〈雷霧〉の外部が雲ひとつない晴天であっても変わらない。
〈雷霧〉そのものが、ある種のかみなり雲であるかのように奇妙な現象であるといえた。
雷は中を進むのに対し、人も獣も問わず、無差別に降りかかる。
一度でも落雷すればそれだけで通常の人間なら感電死する。
侵入者はほんの数十歩進んだだけで、最初の雷撃の洗礼を受け、たとえそれで致命傷を負わずとも、また少し前へ行けば同じ被害を受け、それが絶命するまで続く。
断りをいれずに立ち入る全てのものを迎撃する魔の罠のようなものなのである。
そのため、雷を避けるための工夫をしなければまず逃れることができない地獄といえよう。
しかし、何よりも中を踏破することを許さないのは、実は荒れ狂う雷などではない。
さらに実質的な脅威だった。
もっとも恐ろしいのは〈雷霧〉の中に巣食う異形の巨人たちなのである。
現在のところ、二種類の巨人が確認されており、どちらも二メートルから四メートルほどの身長をもち、顔貌は人に酷似している。
風貌そのものは、人で言う涙袋が尋常ではないほどに腫れあがり、耳がなく、頭頂から全身にかけて一切の毛が生えていないという違いがあることが確認されている。
しかし、この二種はその膂力といい、生命力といい、確実に人類とは別種の生き物だと思われている。
ほとんどの個体が、腹に大穴を開けられても、数日は生きて普通に行動し、傷の具合によっては回復までしてしまうほどの強靭さを備えているからである。
二種の巨人には、一目でわかる特徴があり、それぞれが人類によって分類されている。
一つは、異様なまでに長い腕をもつ、〈手長〉と呼ばれる種類。
身長は比較的低めで、二メートルほどのものが多いが、何よりもその腕の長さがバランスとして異常である。
常に自分の身長と同じ長さの腕を持っているのである。
そして、どのような文明の作り出した産物なのか、明らかに自然のものではない広刃の雑な造りの大剣を所持しているのだ。
この大剣には鋭い刃と呼べるものはなく、まったくのなまくらであるのだが、〈手長〉の強靭な腕力と遠心力を持って振り回されることから、家畜の牛や馬ならばたやすく両断されてしまう凶器である。
もう一つは、バランスで言えば、胴体の三倍近い長さの両脚を持つ〈脚長〉と呼ばれる種類である。
こちらは異常なほどに弦の張った長弓を常に構え、高い位置から獲物めがけ矢を放ってくる。
もともと巨人たちの膂力は強く、人間でもっとも弓勢の強いものを遥かに凌駕する風のような射撃はデタラメのように見えて正確である。
一射で二人が貫かれたことがあるとする報告もある。
この弓も、間違いなく何かの文明が作り出したものであるが、今現在、二つの種族に文化的素養があるとは確認されていない。
しかし、巨人たちは同種族で争うことは決してなく、その牙はそれ以外のすべての生物に向けられるだけである。
人にとってのみならず、生きとし生けるもの、すべての怨敵とも呼べるものたちであった。
以上、大まかに言うと、この二種類の巨人たちが〈雷霧〉の中に巣食っており、中に飛び込んだものを無差別に襲われるということが最大の脅威であるといえる。
◇
しかし、数は多くないが、魔物の襲来という自然災害が起きるこの世界においても、それが〈手長〉もしくは〈脚長〉であるということはそうはない。
なぜなら、やつらはほとんど〈雷霧〉という自分たちの巣から出てくることがないからだ。
だから、実際にその二種類の巨人と戦ったことがあるどころか、目撃したことがあるものですら数少ない。
俺が知っている限り、今現在のところ、西方鎮守聖士女騎士団の正式な騎士が七名、直接の指揮を執っていて、〈雷霧〉消滅後の残党狩りという形で関わった中央の主力兵団、そして、俺の前で従兵を引き連れて走るオオタネア・ザン将軍ぐらいのものだろう。
〈雷霧〉の外における実際の戦闘力という点は不明である。
俺たちは、騎士アラナに先導してもらい、詰所から直接、魔物に襲われたという場所へめがけて進んでいた。
ユニコーンと馬たちは疾駆という形容にふさわしく風のような速度で街道を進んでゆく。
「……タナ、もう少し背筋を伸ばせ。そうしないと武器が振れない」
「そうは言っても……」
「初めての騎乗だから……。ただの馬と違って、ユニコーンだからこそお従姉ちゃんのことを尊重してくれているけど、普通だったらバカにされて全然言うことを聞いてくれないんだよ」
「……そ、そうだよね。馬って下手な乗り手を見下すと手がつけられなくなる、から」
俺のすぐ後ろには、タナとミィナ、そしてクゥがそれぞれの相方といえるユニコーンとともに駆けている。
元々、ハイレベルの乗り手である二人はともかくタナがなんとか着いてこれているのは、彼女の相方であるイェルが抜群の紳士っぷりを発揮して様々に奉仕しているからだ。
自分自身でも、馬体を揺らせすぎないように慎重に慎重に速度の上げ下げを行い、曲がるときの遠心力が最小になるように大回りをしたりして、なおかつ、魔力を微妙に放出してタナの士気が落ちないように興奮させたりと大活躍しているが、それ以外にも、〈念話〉で併走する仲間たちに指示をだしたりもしている。
初めての乗り手を迎えてやや緊張気味のベーとエリは、そんな仲間のお節介気味な指示を無視したりせず、丁寧に踏歩を合わせ、随伴を続ける。
ミィナたちが予想よりも上手に騎乗できているのは、別に彼女たちが優れているだけではなく、そういったいじましいユニコーンの努力があるのだ。
ちなみに、この三体のユニコーンはまだ比較的真面目な性格なので助かっているが、もう少しダメな奴になると、乗り手の少女にいいところを見せようとしていらんトラブルを引き起こしたりして、後で乗り手が叱責されるハメになったりする。
《ど、どうすればいいのですか、イェル殿。我は初めての処女に緊張して結界すら張れそうにありません!》
《まて、エリ。結界など張ってどうする?》
《みなの話では、自分の乗り手が決まったら結界を張って、イチャイチャするのが普通だということですが!》
《……それは虚言である。間に受けるな》
《な、なんだと! 我は、我が乗り手の処女とともに音速の世界へ旅立つつもりであったのだが、それはいかんのか?》
《ベーはお頭が悪いのだな。乗り手の処女が迷惑するから、常識というものを勉強したまえ》
……みたいな会話をしている。
まあ、まだマシな方だ。
とにかく、意外な早さで騎乗を習熟していくタナと、ある程度なら自在に走れるようになった二人は、あと少しすればかなりモノになるだろうと判断できた。
そこで、俺はもう一つの懸念事項について、将軍に尋ねた。
「……詰所に逃げてきた連中はどうでした?」
「街道の脇に小さな村落がある。農業と街道の通行客の宿泊や物資のやりとりで生計を立てている村だ。そこが、襲われたらしい。魔物は〈手長〉が二体。他は確認されていないそうだ」
「……ここは一番近い〈雷霧〉からも千里以上は離れている。そこを巣にしている〈手長〉が出没するには遠すぎやしませんか?」
「先行して聞き取りを行ったアラナの話では、確かに〈手長〉だと」
「……しかも、こっちに向かっているんですよね。〈雷霧〉への切り札たる西方鎮守聖士女騎士団の領地へと」
「おまえも少しは頭が回るようになったな。嬉しいぞ、私は。ここに来た時のおまえの頭の悪さといったら只事ではなかったからな」
「……うるせえよ。じゃあ、その話はもういいや。それで、この戦力でなんとかなるのか。〈手長〉というか魔物をやるには、百人規模の兵士が必要だと聞いているぞ。こっちは素人の俺と新米含めて六騎だ。足りなすぎるだろう」
「……それは問題ない。一匹なら、私一人で仕留められる」
「もう一匹は?」
「アラナとおまえでなんとかなる。……はずだ」
俺は天を仰いだ。
計算に含まれているのかよ。
じゃあ仕方ない、やるしかないな。
「わかったよ。やりますって」
俺が剽げた仕草をすると、オオタネアは珍しく消えそうで儚い笑みを浮かべた。
いつもの濃い人格が現れまくったような虎の如き呵呵大笑とは違う、昔、何度か見たことのある笑みを。
「おまえが来てくれたここ数日は、とても良かったよ」
「ん、どういうことですか」
「……今までの騎士団の雰囲気というのは、かなり悪くてな。今回の新米どもだってすぐにいつもの調子になるだろうと諦めていたのに、まだ皆が希望を持っていて明るいままだ。まるで、一期の騎士たちがいたときのように」
その時、アーまでが疾走を続けながら〈念話〉を発する。
一言だけでも言わずにはいられなかったのだろう。
《その強き処女の言うとおりだな。今は処女たちの騎士団の様子が、初めて我らと契約を結んだ時のように晴れやかだ。いつもの処女たちは、闇に立ち向かうための恐怖に震え、自分たちが死ににいくことを悟っているからか暗く沈んでいるばかりだった。我の前の乗り手もいつも苦しそうに泣いていた。我らはそれが辛かった。我らの乗り手に希望を与えられなかったのだから》
「……〈ユニコーンの少年騎士〉。それが教導騎士となってくれたことで、どれだけの希望になったか、〈聖獣の森〉の中にいたおまえにはまだピンとこないのだろうな。おそらく、もうすぐにわかると思うぞ。新米の働きを見ることで」
ぱからっぱからっという蹄の音が会話をかき消そうとする。
台詞は風に流されていずこへかと去る。
だが、心に届いたその想いは俺に残った。
俺の存在が希望になるというのか?
まだよくわからない。
ただ、後ろでギャーギャー言っている三人宿舎に残った騎士たちが、これからもあの明るい陽気さを保ち続けていけるとしたら、それはきっと喜ばしいことなのだろう。
「わかったよ。俺もやることをやるよ」
将軍と……アーに答えた。
両方共無言だった。
その時―――
「……あともうちょっとで、目的地に着きます。〈手長〉が進撃しているというのなら、そろそろ遭遇します。陣形をとってください」
先陣をきる騎士アラナが叫んだ。
だが、その目と鼻の先に大きな影が姿を見せる。
明らかに人のものでない、その長駆。
そいつが長く黒いムチのようなものを横に振るった。
次の瞬間、騎士アラナの長身が騎馬の上から横に吹き飛ばされ、長い滞空時間とともに繁茂している草むらに突っ込んでいった。
がさっと黒々とした藪が音を立てる。
俺たちは彼女のことから一旦目を離して、それよりも眼前の脅威に備えた。
そびえ立つ二匹の巨人。
手はその体長にも匹敵する長さを備え、構えきれないような鉄塊のごとき刃のこぼれた長剣を持つ。
一切の毛というものが生えていない生々しい全身には、夥しい血の痕がこびり付いていた。
それが人のものか、他の生物のものはわからない。
こいつらはすべての生命あるものを憎む習性を抱いた怪物だからだ。
〈手長〉。
俺たち西方鎮守聖士女騎士団の最大の的であり、怨敵でもある怪物。
期せずしてこいつらに初めて立ち向かうことになったのは、俺と三人の新米たちということになった。