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第三章『決意』

 ――私はそんな大事なことを、忘れていたんだ。


  *  *  *  *


 長い、夢を見た。

 それはどこか、別の世界のことのようで。それでもそれは、私が描いた将来で。私はそこで、管理栄養士として働いていた。どこかの病院の、栄養科の責任者だった。

 不思議なことに、魔法の存在しない世界だった。そこでは魔法が無いことが当たり前で、私もそれを当たり前に受け入れていて。目が覚めた今も、「ああ、魔法が存在しないこともあるんだな」と寝ぼけた頭で考えていた。

「お目覚めかな?」

 私はすぐに現実に返り、アンティークな調度品で統一された店内を見回した。お客さんは今日も居ない。

「内藤さん。すみません……」

「最近テストだっただろう。疲れているんだよ。今日は気晴らしに街に出てみたら?」

「でも……」

「俺も今日はちょっと用事があってね。今から閉めようと思うんだ」

 そういうことなら、と私はありがたく休みを頂戴することに決める。

 店の奥の更衣スペースを借りて、慣れた制服に袖を通す。もうこの制服を着て、三回目の春だった。妙な夢を見たせいかどこか感慨深くなって、更衣室の姿見の鏡の前で自分を映してポーズを決めてみる。ちょっとファッション誌を気取って、ポッケに手を入れたりして。

 新入生だった頃、学校へ行く前にこうやってポーズを決めていたことを思い出す。あの頃は人の目が気になって仕方なくて、変なところがないか逐一チェックしていたっけ。

「あれ」

 ポッケの右手が何かざらざらしたものに触れた。

 何度か、洗っているためもろもろになっているそれを広げてみる。それは、一年生の頃――槍真が里見に骨折させられた騒動の際にもらった居残り証明書だった。よく今まで気づかなかったものだと自分の無頓着さに呆れると同時に、よくこの状態で保っていたなと感心した。魔法技術専門学校では、この手の証明書の類は魔法訓練などの兼ね合いもあり、一定の防水効果の期待できる用紙で作成されているからそのせいかもしれない。

 けれど、さすがにぼろぼろだった。苦笑しながら、それを開き――私は思わず視線を止めた。


 ――居残り証明書。

 そこに対象となる生徒の名前が書かれている。それは私の名前ではなく――姉さまの名前だった。


 *


 三度目の春を迎えた。例によって、桜の咲かない亜熱帯の蓮華島の春。

 風物詩が無いと、どこかしっくり来ないのはやはり私が本土の人間だからだろう。考えながら、放課後の街を歩く。おおよその施設は見慣れた。大体利用する場所は、港から学校までの大通りに集中しているので、何処に何があるのかは三年生ならば皆が知っていることだろう。

 入学当初と変わらない景色――に見える。

 けれど、最近はちょっとおかしな噂が流れている。鬼が度々、目撃される――と。槍真のお父さんの一件は除外するにしても、昨年、私が“鬼”と遭遇して以来、多くはないが度々目撃されているのだという。私は運が良いのか、あの一件以来は何とも遭遇していないが、麗奈などはまた何らか関わっているのかもしれない。けれど、私はこの一件については麗奈が言わない限りは触れないようにしていた。

 世の中ではまだ知られていないことなのだ。廉もそれを必死に隠そうとしていたし、私が変に関わると二人の描いている将来像がぶれてしまうかもしれない。それが怖かった。


「おい、やめろ」

「ンだよ? 文句あんのかよ?」

 繁華街の一角を歩いていたときだった。

 聞き覚えのある声が、何やら揉め事に介入している。

「新入生いびりは恥ずかしいぞ! お前らみたいなのがいるから、入学早々に入院になるような可哀想なヤツが出て来るんだ!」

 その声を聞いて、おそらくは二年生だろうと思われる不良が、「こ、こいつまさか……」と上擦った声をあげる。

「その、まさかだ。服部槍真。蓮華魔法技術専門学校三年二組、大城クラスだ!」

 私は慌てて、声のしている方へ走っていく。

 ゲームセンターの裏手、人気の無い小さな通りに、不良が三人ばかり見えた。それと対峙するのは背後に下級生の男の子を庇う槍真である。

 私は問題があれば、すぐにゲームセンター内の店員さんに助けを呼べるように心構えをしつつ、その動向を見守った。三年になってかなり実力をつけた槍真なら、たいてい何も問題なく突破できるだろう。魔法と忍法の融合と、本人は言っているが、どこまでが魔法でどこからか忍法なのかわからないくらいに、槍真は上手くこれらを使い分ける。

「ま、まじかよ……入学早々、里見さんにボコられて入院した服部じゃん……」

 不良三人は顔を見合わせ、小声で何やら相談し始めた。私にはその内容がはっきりと聞こえてきた。


 ――ひそひそ。それまじかよ。めっちゃかわいそうじゃん。

 ――てか、里見さんとあいつって……

 ――関わり合いにならない方がよくね?


 この間、数十秒。

 相談が終わり、不良たちは槍真に向き直る。

「……今日のところは勘弁してやる」

 言って、ぞろぞろと去っていく。

 それを腕組みして睨みつける槍真。完全にいなくなったのを確認し、ふん、と鼻を鳴らす。

「雑魚め」

 陰に隠れていた私には気づかず、不良はずらずらと通り過ぎて行った。一部始終が終わったのを確認して、私は槍真の前に姿を見せた。

「ああ、良恵ちゃん。見てくれていたのは気づいてたよ! 助け呼ぼうとしてくれてたんだろうけど、それは必要なかったね。あいつら、僕にびびってたからな」

 槍真は決して、びびられてはいなかった。むしろ、舐められていた。こいつは同情で助けられたことも気づいていないのだろうか……と、呆れる。

「あ、ありがとう……僕はこれで……」

 男の子は、そのまま逃げるように去ろうとする。

「待ってよ」

 槍真はその子の肩を掴み、低い声で呼び止めた。

「新入生がひとりで、何でこんなところに居るのかな? それから、ポケットの中のものを出したらどうかな」

 カツアゲかと思った。槍真がポケットに手を突っ込むと、妙なカプセルが出てきた。医薬品、だろうか。

 それにしては、新入生の様子がおかしい。怯えたように震えながら、唇をかみ締める。槍真ごときに尋常じゃない反応である。

「名前と学年。すべて、教えるんだ」

 槍真の様子が違っていた。普通じゃない感じがした。


 その後、槍真に引っ張られる形で向かったのは、大通りをそれたライブハウスのような建物だった。

 地下に階段が伸びており、私と槍真、それから新入生の男の子はそこを下っていく。階段を下るとすぐ、錆びた鉄製の扉があった。槍真はそれを重そうに押し開ける。

「お、槍真か」

 里見が軽く手をあげる。周囲に、何人かの男女が座っている。

 私が驚いたのは、里見のその軽い反応である。

「やあ、守!」

 槍真も軽快に笑っている。

 私の中で、二人は仲がひどく悪いものだと思っていたが、下の名前で呼び合う二人を見て、その考えを改めざるを得なかった。

「その様子だと、ついに見つけたようだな」

 里見は立ち上がり、私たちの側に近寄ってくる。

「さて、正直に吐けよ? 吐かないと、貴様の手指の爪を全部はがしてやる」

 眉間に皺を寄せたまま、里見は男の子に顔面を近づける。

「ああ、指は十本しかないけどな? 魔法なんて便利なもんがあるんだよなあ、これが。医療系魔法でもういっぺん、再生させて。その爪また剥いで。また再生させて。痛みをじっくり与え続けてやる。いずれそれに慣れたら別の手段を考えてやるよ?」

 その声を聞いて、何名か人影が動いた。知っている顔もいた。同じ学年の、八卦さん。仁美と同じ本格クラスの医療魔法の使い手である女の子だ。かなりの名門の家柄で、里見のような不良とつるんでいるとは思えない。他クラスながら密かに憧れていたのに、こんな暗い怪しげな地下室で何をやっているのだろう。

「さあ、どうすンだ? あぁん?」 

 里見の表情は喜色に彩られていた。本当にこの人はたちが悪い。手には何やら金具を持っている。見たことないけれど、爪きりのようにも見えた。もちろん、そんなはずはない。何かした拷問器具の類だろう。あるいは単なる爪切りを間違った使い方をするつもりかもしれない。

「どうすんだっつってんだろ! 答えろよォ?」

 凶悪な表情で怒鳴る。

「は、はははは話します。話します!」

 男の子は恐怖のあまり失禁してしまったようで、ほんわか尿の臭いがした。

「さて、良恵ちゃん。ちょっと上で話そう」

 槍真に引っ張られるような形で、私は地上へと出た。

「喉かわいたね」

 ちょっと離れたところに自動販売機を見つけ、槍真はどれを買おうかと悩む。私も財布を出そうとすると、「武士の八分でござる!」とかわけのわからないなりに意固地になって奢ってくれようとしたのでお言葉に甘えさせてもらった。

「じゃあ、カフェオレで」

 自動販売機から缶が落ちてくる。それを手渡される。槍真はもう一本、今度は自分の分を買う。

 手ごろな植え込みを見つけて、二人で並んでプルタブを開く。カフェオレの甘い香りが鼻についた。槍真は無言だが、しかし私には何が何かわからないままである。

「どういうことなの?」

「え?」

「いつの間に、里見と仲良くなったの?」

 槍真は何から話そうかと悩んでいる様子だったが、とりあえず、ぽつりぽつりと説明してくれた。

「こんな風に話すようになったのはここ最近なんだ。たまたま、共通の目的が見つかって。それを探しているうちに、色々とわかって。ほら、去年だったかな。僕の父さんが来たじゃん。あのとき、なんかイイ話みたいに終わってたけど、父さんさ……何か僕をつけまわすうちに色々やらかしちゃったみたいなんだよね。不法侵入とか、船にこっそり乗っていたとか。そのへんの諸々が捜査が進むにつれてわかって……それらに目を瞑るかわりに、捜査に協力しろと、警察の人が言ってきたんだよ」

「警察?」

「もう知っているかもしれないけど、里見家の人って、たくさん警察方面にいるそうなんだよね。本土だとエリートコースに進んでいる人もいるとか。で、あんまり地元に配属されることも少ないらしいんだけど、魔法を扱える人は特殊な配置が行なわれるじゃん。当然、この島の駐在さんも里見家の人なんだよ。それも、守のお兄さん」

 里見家の話は、麗奈から聞いて知っていた。

 当然、駐在さんも予想できた通りではあったけれど、それが今のところどう今回の話と結びつくのかわからない。

「そもそも何で僕に動いてもらうことになったかわからないって顔してるなー。だいじょうぶ、僕もわかってない」

 けらけら、と槍真は笑ったが、私にはなんとなく予想がついた。

 警戒されなさそうな人物なら誰でも良くて、たまたま槍真をこき使う取引材料があったので、それで白羽の矢が立ったのだと思う。

「で、何で、里見と一緒に動いてるの?」

「守も今回の件に関しては動いてたんだよ。それがバッティングする形で今回の流れになったんだけど、最初はそりゃあ、火花も散らしたさ。僕にとっては憎きライバルだ」

 勝手にライバルに昇進していた。

「だけど、手を取り合ううちにわかったのさ。こいつは悪いやつじゃない、ってね」

 槍真はそう言うと、やたらいい顔をしてみせた。ウインクしつつ、白い歯を見せるという外人がやったらかっこいいだろうけど、日本人がやってもあんまりな仕草を。

 そうして、自分の飲み干した空き缶をゴミ箱に投げ入れようとしてミスし――転がった空き缶を黒いポニーテイルの女性が拾った。

「里見さんが呼んでいますよ」

 仁美のクラスメイトの八卦さんだ。転入してきたので、私はこの子をすぐに覚えることができた。

 しかし、それもあったけれど、左目の涙ぼくろに三つのホクロが特徴的なので、どちらにしても顔はすぐに覚えただろう。服装は私と同じ、規定のブレザータイプの制服を着ていた。

「吉田さん。改めまして、八卦はちかけ えんです。中井さんから聞いています。同じ系統の魔法ですってね。卒業まで一年もないですけれど、またお互い情報とか交換できたらいいですね」

 それから、と付け加えた。

「服部さんの言うことを少々訂正します。里見さんが服部さんを二年前に襲ったのは、“エンジェル”の売人だと思ったからだそうです。まあ、その他にもちょっとした感情のすれ違いとか、そういったものもあったみたいですけど」

 そう言って、意味ありげな視線を送る。

「どちらにせよ、今はお互い和解し、ただひとつの目的のために手を取り合っています。私たちのような学生が集められたのには理由があります。それは中で説明しましょう」

 そして、呟く。

「今回の話に、後戻りはできませんよ。神宮寺さんは貴方を巻き込みたくなかったみたいですけれど、もうこれで先に進むしかなくなりました。ただ、悪い話ではありません。これは、貴方のお姉さまから始まるストーリーです」

 ふっと微笑み、踵を返す。ついて来るように、ということなのだろう。

 私はそれを聞いて、確信した。彼女の言うことが、事実であることを。


 ――今回の話に、後戻りはできませんよ。

 もう、後に引けないことを知った。これが、姉さまに繋がる一連の流れであるのならば。



 *


 ――“エンジェル”。

 学生をターゲットにした、いわば麻薬の一種。定義づけとしては“魔薬”と言われる。世間一般では出回っておらず、ここ蓮華島で三年の間に現れた奇妙なドラッグである。

 服用することで、魔法を扱う神経系統に作用し、普段よりも精巧に、強い魔法を扱えるようになる。そう。ただそれだけのもの。即効性はない。しかし、中毒性はある。

 服用し続けることで――契約者は、守護者から力を強引に奪い取ることができると言う。それは一般に、よほどの技術がないと不可能とされていることだった。個人レベルで簡単にどうこうできるものではない。

 そもそも国はその危険性を認識しているからこそ、魔法発祥以来、続けてきた研究成果をもって魔法技術専門学校を各地に設立したのである。そして、更なる安全性の確保と、魔法の発展を目指して、『M-JAPAN構想』を掲げたのである。

「それだけ聞くといいことだらけのように思うけど……実際は違うんでしょ?」

「当然な」

 尋ねると、里見は頷いた。

 地下室内の人口密度は一気に減っていた。今は、私と槍真。里見と八卦さんのみである。

 後はまた街中へ散らばったという。さっきの男の子は、里見のお兄さんに引き渡されたらしい。魔法が絡んでいるので、おそらくは特殊な施設で更生という流れになるのだと思う。

「……吉田、オマエも見たことあるだろ。最近になってやけに増えやがった。自然の流れじゃねえ」

 里見の意味深な言葉を聞いて、私はすぐにそれがあの鬼――里見たちが怪奇と呼ぶ存在のことをさしていると気づいた。

「そう、俺たちが“怪奇”と呼ぶ存在。それが、そのドラッグの被害者だよ。あいつらは元は学生が大半だ。まあ、たまに大人も居るがな。だが、ほとんどは成績の伸び悩んでいる、落ちこぼれの学生だ。不良もいれば、バカもいる。だけど、等しく、元は人間だ。鬼なんかじゃねェ。“エンジェル”の売人は、獲物にも、また警察や学園側からも目をつけられにくいように、一般の害のなさそうな学生をチョイスして選定される。金か、あるいは弱みとか、別の何かを使ってるのか。こいつもまた、落ちこぼれが選ばれる」

 私はそこで、二年前になぜ槍真が里見に殴られていたか理解した。

 あれは、“エンジェル”の売人と勘違いされていたのだ。ということは、あの当時から売買は行なわれていたことになる。

「最初はそんなにえげつないクスリでもなかったンだよ。だから、“怪奇”の類も少なかった。だが、あるときを境に増えた。研究が一気に進んだんだろうな。おそらく、かなりの研究者が来たに違いないンだが、正規の船のルートだったら、それはバれる。密航しやがったンだよ。うちの兄貴は、それを見越してある程度、警戒していた。ところが、へんな邪魔が入ってなァ。ややこしい密航者がもう一匹いたンだな、これが。般若のお面を被った、怪しいヤツがなァ?」

 槍真はそっぽを向き、変な鼻歌を始めた。よくよく聞くとそれは、忍者ハットリクンの主題歌だった。

 一年半前の、槍真の父親の騒動。あれのせいか。なおさら、槍真が今回の話から手を引けないわけである。思いっきり、こいつの家の問題だ。

 以後も、色々な話が続いたが、私はふと気づいてしまったのだ。だから、どこか上の空でしか他の話は聞けなかった。私は気づいてしまったのだ。話の流れで。

『――これは、貴方のお姉さまから始まるストーリーです』

 確かに、八卦さんはそう言った。それは即ち、姉さまも何らかの形で今回のドラッグ騒動に関わっていたことを意味する。姉さまは自殺した。そこには今回の騒動と何らかの因果関係があるに違いない。

 塞ぎ込んだように無言になった私を見て、後日また話し合おうということになり、私たちは解散した。もしかしたらそれは厄介払いのためで、私は今後もうその場に含まれないのかもしれなかった。

 翌日、私は普通に授業を受け、いつも通りに学校生活を過ごした。槍真も、麗奈も何も言って来なかった。私も何も言わなかった。ただ、いつも通りの会話をしても、お互いにどこかよそよそしかった。アルバイトは、心配してくれた内藤さんが長期の休みをくれた。

 私はただぼうっと過ごした。いつも片隅にあるのは、姉さまのことだった。

 それが一日経って、二日経っていくにつれて、ようやく決心がついた。逃げてばかりはいられない。これは、私の戦いである。姉さまを追って、ただ姉さまの想いに近づきたくて、私はこの学校へ進学した。それならば――進むべきはひとつじゃないか。

 日曜日と日にちを決め、私はアポを取った。確認するつもりだった。そして、真実を知るのだ。私自身の手で。


 待ち合わせ場所に指定されたのは、学校の屋上だった。

 ここならば、人気も少ない。目当ての人を探す。ややあって、重い鉄の扉が開いた。

「大城先生」

 私は、担任の名前を呼んだ。

「どうしたのかな。日曜日だというのに」

 その明るい笑顔を見ると、どうも調子が狂いそうになる。

「あの」

「ん?」

「先生は、私の姉さま……吉田義美を知っていますか?」

 少し考える間を置いて、先生は首を横に振った。

「……これ」

 意を決して口を開き、ポケットの中のものを差し出す。

 ぼろぼろの紙くずを見て、大城先生は不思議そうに首をかしげた。

「これ、二年前、服部君が大怪我した事件の折に、先生が私に書いてくださった居残り証明書です。証明対象である生徒の名前……なぜ、吉田義美となっているのですか? 先生は姉さまと私を、うっかり間違ったのですか?」

 大城先生は、しばらく目線をその崩れた証明書に落としていた。

「姉さまは、自殺しました。遺書も無く。その死には、あるモノが絡んでいます。ご存知ですよね?」

 駆け引きだった。慎重にひとつ、ひとつ言葉を重ねていく。

「私は例の件を知っていますよ。何なら、学校側に公表するつもりです」

 大城先生は顔をあげた。

「それ以上、言うんじゃない」

「……知りたいんです。姉さまの死に関して、私は何も知らないんです。先生なら、姉さまの自殺の本当のところを知っているでしょう? そのことを知ることができれば、私は何も公表しません」

「――言うな!」

「“エンジェル”のことも、何も公表しません! だから、本当のことを教えてくだ

――あ!」

 瞬間、私は身体の自由を奪われていた。

 大城先生が、魔法を使ったのだ。どういう系統の魔法かはわからない。私は、大城先生の表情を覗った。先生はいつもの優しい表情を完全に消していた。あまりに冷たい、見下すような目線を私に投げかける。

 声を発そうとしても、出ない。先生も無言だった。先生は私に近づき、私の腹部に向けて握りこぶしをぶつけた――そして、世界が暗転した。

 

 *


 目が覚めると、真暗闇だった。電気はない。おそらく、屋外ではないと思う。たとえ夜だとしても、月や星の輝きくらい見えそうなものだ。

 おなかが痛い。大城先生に殴られたところがずきずき痛む。癒しの魔法を唱えないといけないと、考えて、両手両足が縛られていることに気づいた。息をするのも苦しい。猿ぐつわも噛まされているらしかった。

 メディはどこだろう、と途方に暮れた。

 暗闇に眼が慣れるまで、おとなしくしていようと思って、気絶している間、夢を見ていたことを思い出した。

 幼い頃に、姉さまと遊んだ夢。両親は、私が姉さまと遊んでいると引き離した。バカがうつる、そう言った。優秀な姉と、愚鈍な妹。吉田家の、頂と底。その差はあまりにも大きかったけれど、それを感じさせないくらい――姉さまは優しかった。

 夢の中で姉さまと私は鉄棒をしていた。姉さまは逆上がりができずに、何度も何度も練習していた。また、あるときは、絵が下手だと指摘され、何度も何度も幼稚園で描き直していた。そうだ。姉さまは天才なんかじゃない。人一倍、努力家だった。そうか。姉さまは――私と、一緒だったんだ。だけど、だらだらしている私と違って、努力して努力して頑張って。学力ナンバーワンを維持し続けてきた。小学生の頃に、神童と噂された。両親が嬉しそうにする度、姉さまは頑張っていた。

 私は――そんな大事なことを、忘れていたんだ。

 涙が溢れ出した。頬を伝わり、猿ぐつわに染み込む。鼻水だって出て来る。声をあげて泣きたいのに、出てくるのはくぐもった声だけ。それでも私は泣き続けた。


「お目覚めのようだね」

 暗闇を割いて、光が差し込む。扉が開かれたらしい。

 聞き覚えのない、しゃがれた老人の声が室内に響く。

「まったく、これだから軍隊あがりは。こんな可哀想なことを平気でするのだからのう」

 くくく、と低く笑う。

「おっと、何も考えなくていい。私は悪者だ。今から、悪事をべらべらしゃべる。何せ、発表するのが好きな性分でなあ。好きにしゃべらせてくれたまえよ」

 眼が徐々に慣れてきて、室内に入ってきたのが車椅子に乗った老人であると気づいた。カラカラカラ、と車輪を回しながら老人は私の元へ近づき、口の猿ぐつわをずらした。

「さて、何から話そうかなあ。時間はたっぷりあるのだからなあ」

 私は、老人の顔を睨みつける。

「助けを求めても無駄だよ。何人か、私の操り人形がおる。そう、とっておきの魔法をかけてやった奴らがなあ。のう、魔法とは便利だなあ。くく、それも強力な魔法ともなればなあ」

「あなたは……誰?」

 老人は目を細め、微笑んだ。

「位など持たない、ただの一兵よ。関東軍防疫給水部本部のな」

「関東軍防疫給水部本部?」

「秘匿名称を、満州第七三一部隊。通称を、731部隊という。第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した――細菌戦に使用する生物兵器の研究開発機関だ」

 老人は皺の刻まれた顔をさらに深くして、嘲笑う。

「私の名前は、蓮華れんげ つかさ。日本で初めて魔法を用いた者である」

 目の前にいる男が、第二次世界大戦に参加していたという。

 とてもそのような年齢に見えなかったが、何か魔法を駆使しているのかもしれなかった。

「くく、世間一般では死んだことになっているがね……今この島にいる蓮華家の者でも私が生きていることを知るものは少ない。現在の学校長にして私の孫の蓮華典久でさえもな……。蓮華家の有力者を始め、要となる人物には始祖たる私の魔法で洗脳を施しておる。それも、普段は通常通りの行動をしているので、誰にも気づかれん……」

「じゃあ、大城先生も……?」

「あの男は少し厄介だった。経歴にもCIAとあった。魔法も使えたため、部分的にしか洗脳できなかった。あるキーワードを聞くと、私のプログラムした命令どおりの行動を行う……それもまあ、数日で解けてしまうがね。また、本人もおかしいという自覚はあったようで、いくつかの試行錯誤を繰り返し、そのキーワードを何らかの手段で割り出したようだ。誰がその魔法をかけたかまではわからなかったようだがね。そこの記憶は改竄してある」

 蓮華典は、島の影の支配者だった。警察にも行政にも、至る所に通じていた。

「さて、キミになぜここまで話したかわかるかね? キミも明日には今日のことを忘れているからだよ。そして、“エンジェル”の売人となってもらう」

「……“エンジェル”って何なの?」

「さっき言った洗脳を伝播させるものだよ。今はまだ、副作用も多く実現は難しい上に、魔法の力の弱い人間にしか効力を発揮できない」

 記憶の改竄、洗脳を伝播させる“エンジェル”……ふと、蓮華病院で廉が私の記憶を消すと言っていたことを思い出す。廉が研究していたのは“怪奇”だ。そして、“怪奇”を発生させているのは、目の前の老人の言う“エンジェル”である。

 魔法と脳は密接に絡み合っていると聞く。この老人の言うことは、嘘や狂気の類ではないと確信した。

「今はまだ、“エンジェル”は実験の段階だ。だが、それも直に終る。一年半前に、魔法省に忍び込ませていた有能な研究者が帰ってきたからなあ。くくく。この一年半で、研究は格段に進歩したよ。魔法を使えるのは国内の、しかも、選ばれた人間だ。その魔法人がすべて同じ意志のもとに動けば……大日本帝国の再建さえ可能だ。この国が世界一の大国となり、地球全土を統べることもできよう。“エンジェル”はその一端なのだよ!」

 狂ったように、蓮華典は嘲笑した。文字通り、狂気だと思った。

 車椅子をかたかた揺らし、肩を震わせて、笑い続けた。


 ガコン、と鈍い音が響いた。

 音のなった方に視線を送る。扉が、地面についている。いや、扉が蹴破られたのだ。

「たのしいか、くそジジイ。電気もつけねェでよ」

「誰だ」

「正義の味方だよ。悪役がべらべらしゃべったら、その間に沸いてくるンだよ」

 明かりをバックに、ホスト紛いの黒服男は声をあげる。

「なあにが、“エンジェル”だ。チョコボールでも集めてろっての。つづりは、普通のエンジェルとは違うんだろ? ENGE―R。並べ替えたら、RENGE。お前どこまで自分好きなんだよって話」

 里見はげらげら笑い転げると、「天使のような悪魔の笑顔、この街に溢れているよ」と一時期流行した曲を口ずさんだ。

「何故ここに来れた? 操った連中を何人も配置していたはずだ。とりわけ、大城という教師はなかなかの腕前のはず……」

「ああ、あれな? 全部、洗脳解いてまわったぜ。魔法技術は、テメエの頭の中みてぇに六十年以上前で止まっているわけじゃねえンだよ。こっちには医療の天才が二人いてなあ、こいつらが全部解決しちゃった。皮肉なことに、今回の件をジャマした一人はお前の曾孫だぜ? ギャハハ」

 廉のことで間違いない。彼ならそれが可能なように思う。あとひとりは、おそらく助手をしている、医療魔法の本格派の八卦さんだ。

 さて、と里見は目を細める。

「吉田義美も、その“エンジェル”の被害者か?」

「やっぱり姉さまも……今回のドラッグと関連があるの!?」

 蓮華典ではなく、声を発したのは私だった。里見は頷く。

「……被害者だ。初期のな」

「でも、あれは自殺だった……」

「それは結果だろう。何もなきゃ自殺もしねェ。オレとあいつはクラスメイトだったんだ。助けるチャンスはいくらでもあったはずなのに。やってることといえば、今更になって犯人探しだ。バカバカしくで反吐が出るぜ……だがな、ようやっと見つけた。あいつを死に追いやったクスリを作ったオマエをオレは許さねェ」

 里見は物凄い形相を見せた。怒り、悲しみ。それは他者に向けてのものだけではない気がした。きっと、それは自分に向けてのものでもある。これほどまでに、姉さまのことを思ってくれている人が居たなんて。

 あ……そうなのか、だからか。槍真があれだけ殴られたのも、姉さまに似た私が現れて、死んだ姉さまのことが嫌でも思い出されて、平常で居られなくなって。それで、あんなことを。

 私は、里見のことを掴みどころの無い人だと思っていた。最初はあんなに怖かったのに、時々ふいにやさしくしてくれる。どっちが本当の彼かわからなかった。だけど、今ようやくわかった。粗暴だけど、心根は優しい。それが、里見守という男なのだ。

「まあ、そういうことだったんだよ。だったら、僕も……協力しなきゃって思ったんだよ。友達である、良恵に関係することだもんね」

 言って、室内へと入ってきたのは槍真だった。軽く、笑う。それは決して軽薄な笑みではない。重たいものを、軽くしようと。この場の濁りをどこかへ追い出そうとする、槍真の優しさだった。

「私は違いますけど」

 次いで、医療の天才――八卦さんが姿を現した。

「今はここに居ない協力者の人もそれぞれ別々の心情で動いていますよ。利害で動いている人もいるでしょう。けれど、みんな……」

 そこで、微笑む。目元の黒い三つボクロが下がる。

「おおむね同じような気持ちです。人が困っていたら助けたくなる。私なんて、医療の道に進む者ですから、その典型例です。それに……私は今、蓮華病院の廉先生の診療助手をやっているので、先生からの頼みでもあります」

 蓮華 廉――私の目の前の車椅子の老人の曾孫である。

「なんだと……政界にも入れぬ、権力も手に出来ぬ、蓮華家のあのオチコボレが私のジャマをするだと……?」

「ここに居ないので代わって申し上げますけれど、廉さんはオチコボレなんかじゃありませんわ。蓮華家とは違う道を選んだだけで、とても優れた研究者です――その点はあなたに似たのかしらね」

 ポチ、と電気をつける。

「麗奈……」

 麗奈はポニーテールをかきあげる仕草をし、そして私に向けて微笑んだ。

「街一番、情報屋の集まるバーのマスターの内藤さんが、廉のところへ持ち込んでくれた情報と、廉の持つ蓮華家の内情を照らし合わせ、整合性が取れました。まさか、こんな近場に潜んでいるとは思ってもいませんでしたわ。学園の敷地内とはね――」

 麗奈は蓮華典と私のもとへ歩み寄り、車椅子の老人に廻し蹴りを叩き込んだ。容赦のない、一撃。

 愛するフィアンセの曽祖父が苦悶に呻いているのには目もくれず、床に倒れている私を起こし、手足を縛っていたロープを外し、中途半端に残っていた猿ぐつわを取り除いてくれた。

「お姉さまのこと、お辛いでしょうに。知ることも忍びないのではと思ってあえて全て黙っておりました。……けれど、今この場に貴方がいること。成り行きもありましょうが、良恵さんの意思と捉えてもよろしいのでしょうか?」

 麗奈は静かに問いかけながら、どこかから回収したカバンを肩にかけてくれる。私の、愛用のカバンだ。ずっしり書物の重みもある。

「私は……」

 言葉に詰まる。みんな固唾を飲んで見守っている。

 胸の中でいくつも問いを重ねて来た。昔は、姉さまに関することを聞くのも知るのも辛かった。怖かった。腰に提げた愛用のカバンに手を添える。メディが微かにカバンの中で反応した。応援、してくれているのだろう。

「私はすべてを知る覚悟でここに居ます」

 言った。言ってしまった。

 しかし、後悔はない。もう逃げない。

「蓮華典さん。あなたをどうこうするつもりはありません。ただ、真実が知りたいのです。吉田義美という少女を知っていますか? 享年十八歳。今の私と同い年になります」

 私は部屋の隅に転がる車椅子を起こし、蓮華典をそこに座らせる。

 痛みも引いていたようで、ただ静かに私を見つめている。

「知らぬなあ。でもまあ、おおかた、その他大勢の生徒と同じだろう。自殺したことだけは違うだろうがなあ」

「どういうこと?」

「魔法の力を操りやすくなるという効能が、当初の“エンジェル”に備わっていた大きなものだった。これは、“魔法を使えるようになる”という強い暗示が働くためだ。洗脳の第一歩だな。おおかた、オチコボレの生徒だったのだろう、キミの姉は」

 里見が静かに歩み寄り、車椅子の蓮華典の胸倉を掴んで立たせる。

「……知った口、叩くんじゃねェよ。あいつは、“エンジェル”の中毒性に勝っただろうが。普通なら、自殺なんて選べないくらいドップリ浸かっちまうところを、あいつは戦って、あんな形でも勝ったンじゃねえか。それをけなすんじゃねェよ。どれほど優秀なンだよ、テメエは?」

「間違っていないだろう。“エンジェル”に手を出し、副作用で身体に異常をきたし始めたのが怖くなって、オチコボレが死へと逃げた……それだけのこと――」


 ――耳をつんざく轟音が響きわたった。

 瓦礫が飛ぶ。粉々に砕けた壁の石材がいくつも飛んできた。私は瞬時に対応しきれず、顔を庇うように両手で覆った。

 しかし、いつまで経っても衝撃はなかった。恐る恐る手を下ろすと、里見が目前に立っていた。黒スーツの肩や背中、至るところが粉塵で白くなっている。

「ぼさっとしてンなよ、吉田」

 振り返った額に、血が滲んでいる。

 唖然としている私に向かって、里見はカバンを指差した。

「自分の身くらい、その中のもんで守りやがれ」

 そして、半壊した建物の外を睨みつける。

 外は夕暮れが近いのか、幾分暗くなっていた。私は果たしてどの程度ここで眠っていたのだろう。いや、今はそんなことはどうでもいい。

「おお、ようやく来たか。しかし、手荒すぎる。私まで巻き込むところだったぞ。とはいえ、こうしてケガがないのだから、お前の計算どおりではあろう」

 外の人影に向けて、蓮華典は手を差し伸ばした。

「さあ、我が分身よ。ここへ」

 ゆっくりと、それは歩いてくる。白衣を着て、まるで研究者のような出で立ちであった。

「廉……?」

 入り口に程近い麗奈が思わず、その名前を口にする。それくらい、廉と“彼”は酷似していた。

「こいつは私の細胞から作り出したクローンだ。そこに、記憶の書き換えを魔法で施した後――私の魔法を継承した」

 魔法を継承――そんなことができるのか?

「……理論的には可能ですよ。ただ、全ての能力とはいきません。魔法の源は生命のそれと似通っています。もし、すべてを引き継いでしまうと、死にますね。確実に」

 八卦さんは渋い表情を作った。

 それほどまでに危険な業なのだろう。それをこの車椅子の老人の身でやってのけたのだ。

「ご覧のとおり、私はいつ死んでもおかしくないからなあ。部分的な能力を残して、すべてはこやつに託したのだよ」

 隣に立った青年の状態の自分自身を見て、蓮華典はぼろぼろの歯を見せて笑った。

「ああ、わかったぜ。なんで、優秀な研究者とやらが正規のルートでここに来なかったか。お前の若い頃にそっくりだったのと、蓮華家のモノが見れば、明らかにおかしいって気づくからだろ。なるほどなあ、自分自身のクローンを作ってやがったのな……」

 里見に対して、青年は無言だった。

「さて」と老人は言う。「最後の継承をしよう。もう逃げ場はないし、今の状態じゃこの人数には勝ち目はないだろう。私の全てをお前にくれてやる」

 さあ、と老人の蓮華典が言う。

「私を殺せ。ひゃはは、時期は早くなったが、これからはお前が“蓮華典”と成り代わるのだ! ひゃは、ひゃははは!」

 青年の蓮華典は、無言で頷く。その眼はあまりに冷たかった。これが、本来の若かりし蓮華典の姿なのだろう。

 蓮華典は白衣を翻し、腰の辺りに隠していたナイフを取り出し、一瞬にして老人の蓮華典の首元を掻き切った。老人のけたたましく笑い声は、ごぽごぽという異音に変わった。とっさに、私はカバンの中から医薬品集を出そうとしたが、八卦さんの方が早かった。手早く駆け寄り、しかし、瞬時に動きを止めた。

「……手遅れです。魔法を使えば、現在の医学では解決できない問題でもクリアできることは確かにありますが、これはもう……手遅れです」

 二度、「手遅れです」と八卦さんは繰り返した。

 この状態を見れば、誰がどう見ても手遅れに見える。けれど、それでも一応、医療人として彼女は動いたのだ。私はそれより遅れた。この差が、私と医療の距離を如実に示しているように見えた。

 ふと、この事態を引き起こした張本人があまりにも静かなことに気づき、私は新たに“蓮華典”となった白衣の男を見た。“蓮華典”はただ静かにそこに立っていた。無言で血濡れのナイフを持って、ずっと佇んでいる。様子がおかしかった。時々、不気味な唸り声をあげている。

「これは……“怪奇”に取り憑かれたモノの気配……」

 麗奈が口元を覆う。ちょっとでも自分の婚約者に似ている男が、変貌する様を目にしたのだ。

 “蓮華典”は突然白衣を脱ぎ捨て、着ていた洋服を破き始めた。白い肌が見える。そこを走る血管――いや、筋肉の筋か――あるいはその双方。ありとあらゆるところが、人にあらざるものへと変貌していく。毛細血管が肥大する。筋肉が異常に発達し、あらぬ頻度に膨張する。肘からは骨だろうか――白いものが鋭利にとがって露出していた。

「こんな、こんなのって、鬼、じゃないか……」

 鬼――いや、“怪奇”を見たことの無い槍真が驚きの声を漏らす。

 犬歯を発達させ、衣類はみな破れて、青白く変色した硬化した肌が露出していた。体躯も一回りどころか二回りは肥大化している。手足の爪は鋭く尖り、硬度を増していてまるで鋭利な刃物のようであった。

 その黄色く濁った瞳を、そいつは外へと向けた。そして、そちらに右手をかざす――放たれるは光の一撃。

「危ない!」

 槍真は、巻物から“守護者”の忍者を呼び出し――瞬時に詠唱を発する。

『――科学忍法、火の鳥!』

 それは、彼の父親の言っていたのと同じフレーズであった。

 槍真の右手から発せられた赤い炎が不死鳥のような形となり、蓮華典だったモノが放った光の刃とぶつかって小さな爆発を生じさせる。

 槍真に邪魔をされたことで、“そいつ”は激昂した。吼える。

 地を蹴り、その巨躯に似合わない速さで槍真に飛び掛る。槍真は新たな魔法を詠唱する間もなく、巨大な両手に鷲掴みにされ壁に投げつけられた。ゴキ、と骨の折れる鈍い音が響き、槍真は地面に倒れた。私は慌ててそこへ走ろうとして、里見に止められる。

「バカヤロウ、あんな鬼みてェな野郎に向かって突っ走るんじゃねェ。あいつはもはやタダの“怪奇”じゃねェんだ。ありゃあ、正真正銘の……」


 ――正真正銘の“鬼”だ。


 里見はしっかりそう言い切った。そして、すばやく周囲を観察する。私もその目の動きを追った。

 私と里見がいるところと、槍真のいる位置との間に“鬼”が居る。槍真たちに近いのは麗奈と八卦さんだった。私たちの視線に気づき、八卦さんは力強く頷いた。麗奈もいつでも詠唱を唱えられるように聖書を片手に持っている。そこからは守護者の天使も顔を出している。

「おい、吉田」

 小声で里見が囁く。

「今からオレがあいつをひきつけるからな、お前はもし可能なら、オレに回復の魔法を何かくれ。何なら、ロキソニンでも何でもいい。痛み止めが一時的に効いたら構わねえ」

 里見は私の顔を覗き見る。

「吉田姉妹なら、それができるんだろ」

 力強く、言い聞かせる。それは巨大な敵に立ち向かう自分を奮い立たせているかのごとく。

 そして、里見は木刀を肩に当てながら立ち上がった。

「よォ、でくの坊。こっち見ろよ」

 槍真を睨んでいた“鬼”が里見に意識を向ける。

 振り返ると同時に、背後まで近づいていた里見が、その変貌した顔面に木刀を叩き込んだ。当然、ただの一撃ではない。魔法の力を纏わせたものである。

 そして、すぐに間合いを取るべく後方へ跳ぶ。

「にしてもよォ……槍真は入学当初ぶっ飛ばされて、今回もまたこんなんで。まったく変わってねェのな」

 吹き飛ばされた状態の槍真を一瞥する。

「だが、科学忍法――かっこよかったぜェ」

 里見は口元を緩める。

「オレもやってみっかなァ!」

 言うと、“鬼”に向けて木刀を振るう。空を切る音が響き、木刀の切っ先から炎の鳥が飛び出す。半壊して空が見えている室内を旋回し、上空へと飛び立った。その姿を“鬼”は目で追っている。どうやら、魔法や身体能力は強化されても、その分の知力が低下する様だった。

 注意がそがれている。

「今だ、八卦ッ! お前の魔法と、廉の医術に任せた!」

 八卦さんが槍真の元へ走り出す。そして、その小柄な肩に槍真の腕をかけさせ、ぐったりした彼を外へと運ぼうとするが、女の子ひとりの力では心もとない。麗奈はふたりと、私を交互に見やる。

「神宮寺家のッ、お前も一緒に行ってやれッ!」

 “鬼”が気づいた。私と麗奈の視線が絡み合う――私は大丈夫だよ。目で伝える。麗奈は頷き、八卦さんに肩を貸し、二人で外へ向かった。

 その二人を追いかけようとする“鬼”に里見は火の鳥を降下させ、頭頂部からぶつけた。絶叫をあげ、巨躯が跳ねた。頭髪を失い、頭皮焦がしながら“鬼”は恨めしげな彷徨をあげ、里見に突進する。丸太のような腕が里見の腹部に振るわれる。まるで人形のように里見は吹き飛んだ。

 内臓を損傷したのか、口元からどす黒い血を吐き、里見は地面に臥した。

「さ、里見!?」

 慌ててそこへ駆け寄ろうとするが、“鬼”に行く手を阻まれてしまった。低い唸り声をあげて、“鬼”が歩み寄ってくる。里見はぴくりとも動かない。生きているのだろうか。あれほどの魔法の使い手でも、物理的ダメージには逆らえない。

 私は里見が言っていたことを思い出す。私の役割を。いつでも取り出せるようにしていた本と、メディを呼び出し、瞬時に詠唱する。簡単な、有名な医薬品くらいならばすぐに唱えられるくらいに私は成長した。里見に向けて、痛み止めの魔法と、私の技量ではそれが限界である回復魔法を送った。距離が離れていても、三年生になった私であればそれができた。

 けれど、その隙が仇となり、私は“鬼”の両手に鷲掴みにされた。腹部が圧迫される。あえて、“鬼”はすぐに私を潰そうとしない。私の苦しむ様子を見て、狂気の笑みを湛えていた。医薬品集が足元に落ちる。魔法はもう唱えられない。もうだめか。結局、私はここまでなんだ。何にも勝てない。何とも戦えない。ああ、ああ。意識が薄れていく。暗転する。終わり。世界の終わり。いや、これは私の世界の終わりだ。

「吉田! 大丈夫か!」

 大城先生の声がする。

【……良恵。しっかりして】

 うっすらと、姉さまが目前に見える気がした。お迎えに来てくれたの、姉さま――

【あなたは大丈夫、今のあなたなら本がなくても魔法を使えるでしょう。あなたはそれほどまでに成長したわ】

 姉さま――。

【エピネフリン入りキシロカインは、指、趾、陰茎の麻酔には用いてはならない。血管が収縮しすぎて、壊死する危険があるの。何をすべきか、わかるわね?】

 瞬間、朦朧としていた意識が舞い戻った。

 私は脳内に浮かんだ、ひとつの魔法を短く詠唱する。

『エピネフリン、キシロカイン!』

 麻酔に使用されるそれを、私は複合魔法として唱えた。それを、“鬼”の指に向かって放つ。

 即効で、事象としてそれは発現した。私を握り締めていた“鬼”の指先が緩み、私は地面に落ちていく。その瞬間を、大城先生は見逃さなかった、短く叫ぶと、右手をかざしただけで“鬼”の半身が吹き飛んだ。その衝撃で空気が揺らぎ、風となる。私の身体は吹き飛ばされ――たが、それを里見がキャッチした。

「よォ、吉田。お前の魔法、効いたぜ。ばっちり全快だ。マジ死んだと思ったのに、ありえねェ」

 里見はそのまま私を抱えて走る。

「大城センセェよォ! 久々だな! あとのクソ始末は任せたぜ!」

 叫びながら、しかも私を抱えながら走るほどに、里見は回復していた。私の魔法よりも、彼の回復力に驚きを隠せない。

「里見君、きみは相変わらず口が悪いね! だが、後は任せなさい。生徒を守るのが――教師の役目だからッ!」

 そこからしばし走り、安全圏と思われる屋外で里見は私を下ろした。

 遠目に大城先生と“鬼”の闘いを眺める。すでに半身を失っていても、“鬼”は這いずって、魔法を足元に放った反動で跳ね、大城先生に飛び掛る。それを素早い身のこなしでかわし、大城先生は魔法を放つ。氷結の魔法なのだろう。落ちた先の地面と、氷で一体化してしまい、身動きが取れなくなった“鬼”に廻し蹴りを叩き込む。氷と化した身体が煌きながら霧散する。

 ありえない。人間の動きに見えないほど、大城先生は凄かった。そういえば、老人の方の蓮華典が言っていた。軍隊あがり、と。確か、CIAだった。ただでさえ鍛錬されている身体に、強力な魔法の使い手ときた。もはやこの時点においては一方的にすら見える状況で、闘いは幕を閉じた。

「……センセ、あいかわらず強ェね」

 大城先生に全て持っていかれた形で、里見は嘆息する。

 きっと、大城先生は油断していたのだろう。洗脳を受けたときは、やむをえない事情があったのだろう。常人ならば、そこから洗脳されている自分に気づくことはまずない。しかし、大城先生はそれに早くに気づき、トリガーとなるキーワードを絞り込み、そこに生徒である私が介入できないよう、姉さまのことを知らないフリしたのだ。そこからきっと、“エンジェル”の話題になることを案じたのだ。

「姉さまも、里見も……大城先生のクラスだったんだね」

 里見はそっぽを向いて、ばつが悪そうに頷いた。

「だから、私のことを知っていたんだね」

 それなら。

「それなら、そうと言ってくれたらよかったのに――」

 言えない事情があったことも理解している。今なら、すべてわかる。だけど、やっぱり、心が追いつかないのだ。

「みんな、ずるいよ」

 私は里見の胸に顔をうずめ、涙を隠した。

 里見はそんな私の背中に手を回し、ぶっきらぼうに、「悪かったな」と呟いた。

「う、う……」

 押し殺していた声が漏れる。ああ、だめだ。私はこの島に来てから泣いてばかりだ。それでも、やっぱり涙は止まらなかった。どこからか、姉さまがそれを見て笑っているような錯覚を起こした。

 あのとき、“鬼”に握りつぶされそうになった私を救った声は、姉さまのものだったと思う。確かにそう感じた。あの暖かさは、姉さまのものだ。


 ――姉さま。ありがとう。

 ――私は姉さまのおかげで、こうして生きています。


 姉さまを自殺に追い込んだドラッグは、こうして、蓮華魔法技術専門学校奥の旧校舎と共に吹き飛んだ。

 残ったドラッグは適切に処分され、売人にされた生徒も今は蓮華病院で適切なケアを受けている。今回の一件について、学園側は多方面に根回しを行なった。真実の隠蔽である。本件は、ただの快楽性のある魔薬をめぐる事件として片付けられた。主犯格は、魔法事故で亡くなったと報道された。それは、老人の蓮華典ではない。彼は数十年前に死亡したことになっており、明るみに出ると蓮華家にとって不都合だからである。なので、魔法省を退職した元職員の男性が矢面に立った。名前は印象に残らないものだったが、まさしく、蓮華典のクローンの架空の戸籍のことである。ただし、一般報道された写真は別人のものになっていた。

 得てして、真実とは歪められるものなのかもしれない。それは時に憎むべきものかもしれないが、本件に関しては私はこれでよかったと思っている。魔薬を知らず知らずのうちに売買させられていた罪もない生徒たち。また、魔薬の犠牲になって亡くなった生徒たち。後者に関してはすでに、事故による行方不明とされていて、今更明るみに出したところで、報われない。前者にいたっては未来ある若者たちだ。ここで、身に覚えの無い魔薬の売買をさせられていたことが知られると、彼らは冷たい扱いを受けるだろう。魔法に絡む犯罪は、通常の犯罪よりも重く罰せられる。そのあたりのこと全て考慮すると、やはり本件は世に公開されない方が良いのだ。


 蓮華典は――戦争の遺物は、こうして、闇の中へと消えていった。

 蓮華島に、蓮華魔法技術専門学校はしばらくは混乱していたが、また元の日常に戻っていく。魔法のある、日常に。私ももう進路について決めなければならない時期に差し迫っていた。胸のうちではすでに決まっている。後はそれをどう行動に移すかだ。

 残りの学園生活の中で、私はそれを見つけなければならない。それはとても困難なように思えたが、それでも私にはたくさんの味方がいる。学校の中にも、学校の外にも。

 少なくとも、私はひとりではない。こんなにもたくさんの人たちに見守られているのだから、私はやれる。やってやる。心に灯った勇気の炎をいずれ来たるべきときまで、私は燃やし続ける覚悟を決めた。

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