序章『魔法』
本作品はフィクションです。実際の、地球とは関係ありません。そのため、一部に史実と異なる事実が含まれております。
『吉田良恵と魔法』
1945年 第二次世界大戦終結
1946年 日本国憲法公布
1950年 朝鮮戦争勃発、警察予備隊発足
1951年 サンフランシスコ講和条約・旧日米安全保障条約締結
1966年 日本国政府内に魔法省設立
無限にある平行世界の、とある可能性のひとつ。
――かつて、世界にはなかったそれを、人は魔法と名づけた。
* * * *
風が吹いていた。塩分を含んだそれが、白いフード服に纏わりつく。四月を目前にしても、甲板はまだ寒い。少し厚めに着てきたのは正解だった。
東京湾を出てどのくらい経ったのだろう。二時間にはなるまい。あえて、時計は見なかった。見ると、これから先の気が遠くなる船旅を乗り越える自信がない。私は広い水の絨毯の上にいた。東京も遠くなれば、海はまだ見るに耐える。青い海に、白い飛沫がはじける。魔法を使わない時代遅れの襤褸船が走ると、そこは白線が通った。
はくせん、と口にしてみる。脳裏に真先に過ぎった漢字が「白癬」であることに気づき、私は笑った。ああやはり、医者の子はどこまで行っても医者の子なのだと。
実家で分かれてきた誰かに噂されているような気がして、くしゃみが出た。寒さのせい。そう言い聞かせて、フードのポケットに手を入れた。固い艶やかな表紙が手に触れた。
姉さま。潮の臭いは、やっぱり臭いです。それでも貴方もそこで学び、そこで何かを感じたのですか。
潮風が目に染みた。一瞬の、黙祷だった。静けさが、寒さを助長する。春は、まだ遠いのだ。
* * * *
制服は思いのほか、可愛かった。
私の通うことになった学校では、制服に原則制限はない。しかし、推奨するものは男女ともに二パターンずつ規定のものが用意されていた。女子はブレザーとセーラー服、男子もブレザーと学ラン。また、派手すぎなければ、学生服に近い形態のものであれば許されるらしい。
私は目立つのがイヤなので、僅差で着ている人が多いかなと予想したブレザーを選んだ。
赤いチェックのスカートにブレザー、これが思いのほかかわいい。女子の好みをよくわかっているな、と思う。私はあてがわれた部屋の中で姿見鏡を眺め、くるりと一回転してみた。スカートの裾が翻る。少し短い、と恥ずかしくなった。最近はこんなものだと聞く。孤立した世界であまり目立つと、更に孤立してしまう。そうなったら目も当てられないから、と、上級生のファッションを真似してみたのだった。
けれど、それでもまあ、これは十五歳にはまだ早すぎる。ショートヘアの黒髪の、たいして化粧気もない自分の顔を見て、ため息をついた。もっと大人っぽかったら似合うかもしれないのに、と誰も居ない部屋で、ひとり顔を赤くした。
蓮華の花の校章を胸元につけ、廊下に出ると、同じくして扉を出ようとしていた人と目が合った。隣の部屋の住人である。
「あ、おはようさん。昨日、来たコやんなあ?」
人懐っこい笑顔で話しかけてきた。
「私、中井な、中井 仁美。よろしくな」
独特のイントネーションが彼女が関西人であると教えていた。けれども、関西といっても広い。一口に大阪人とみなすのはちょっと違う気がした。
「私は、吉田 良恵です。東京に住んでいました」
「東京モンか。私は大阪人やけど、東京モン相手でも許したるわ。あははは」
何が面白いのか、一人で笑っている仁美を見た。
笑う度に前髪が揺れた。短くカットされた髪は、少し茶色く染めていて活発な性格をより印象づけた。
「ま、私は京都も混ざっとるから雑種なんやけどな」
「あ、私もです。生まれは、長野ですから」
「そうなんやー! めっちゃええやん。雪とかキレイやし、ボードできるし最高やん」
否が応でも雪の話題になる。その度、私は凍えるような冬を思い出す。昔、北海道生まれの人気アーティストが歌っていたフレーズが頭に浮かんだ。
――いつか二人で行きたいよ。雪が積もる頃に。
いやいや、それは拷問以外の何物でもない、と思って、言う。
「そんないいものじゃないですよ。雪が積もりすぎたらドア開かなくなるときもありますし、凍死者も毎年出ますしね」
まあ、北海道のアーティストが感じていた寒さに比べれば、甘えと言うべきかもしれない。けれども、私は長野の冬が嫌いで、たまらなかった。何より私は、実家の古臭い慣習に捉われた、淀んだ空気がどうしようもなく嫌いだったのだ。
「あ、急がんと。入学式はじまるで! 行こう」
と、私の手をとった。その温もりが、今の私には辛かった。それでも私は、この暖かさに慣れていかないといけない。だって私は、生きているのだから。姉さまとは違って。
『第二十三回 蓮華魔法技術専門学校入学式』
そう書かれた垂れ幕の下で、頭の頂を寒そうにした年配の男性が演説している。
内容は一応は聞いていたが、同じことの繰り返しが多いような気がした。偉い人というのは、得てしてそういうものであるらしかった。
蓮華 典久。ここの学校長であり、そうは見えないが魔法を扱う名門の家の出である。
「諸君らはまだ若い。それと同様に魔法という文化も若いのである。魔法が我々の前に現れたのは、第二次世界大戦が終った後の高度成長期の最中であった。魔法を扱える人間、扱えない人間。そういう格差が生まれ始めたのもこの頃である。魔法を扱えない人々は科学を追及し、魔法に匹敵する利便性を手にした。だが、我々であるところの魔法人は、その科学も扱えてしまう。格差は自然と生まれてしまうものである。しかし、我々のこの力は自身のために用いるものではなく、日本という国ひいては世界の更なる発展のために用いるべきであり――」
長かった。ここのくだりを聞いたのも、聞いている限り三回目である。
周囲を見渡すと、私と同じ服装を着た女子やセーラー服を着た女子、それから、紫紺のブレザーや学ランを着た男子たちが暇そうな顔で学校長の話に耳を傾けていた。厳密には、傾けているふりをしているに過ぎないといったところか。
立ちくらみを起こしそうだった。それこそ、『魔法』を使って、楽になりたかった。しかし、入学式中は人が一箇所に集中するから危険であるという理由で書物の類は一時徴収されていた。私たちにとって、書籍はただの紙ではない。魔法を具現化するための、一種のツールなのである。
先ほどから、学校長は再三繰り返していた。
「時に強すぎる力は誤れば身を滅ぼす。それが自分だけならまだしも他者まで巻き込んでしまってはそれはもう、人災である。現に法律でも、業務上過失致死に問われる。故に、我々のような魔法人は正しく扱う術を用いなければならない」
だからこそ、蓮華魔法技術専門学校を始めとする、多くの魔法技術専門学校は街から離れた海上や山奥にひっそりと建てられている。これは、未熟な私たちが魔法事故を起こすのを防ぐためである。
「魔法というものはお酒と同じで、自分の限界量を知って付き合っていかないといけない。過ぎたるは、身を滅ぼす。学校生活で、諸君らは自らの限界をまずは覚えて欲しい。我々も細心の注意を払うつもりではある。しかし、時に亡くなった生徒を私は何人も見てきた。だが、ちゃんと真面目にしていればそれは大丈夫だろう。であるから、諸君らは真面目に学業に励むように。以上!」
以上、を合図に講堂はざわめき始めた。
以後は、一年間のプログラム内容が発表され、クラス分けが発表された。クラスが決まったので、生徒は分散する。講堂の出口で、クラスと名前を告げ、本を返してもらった。医薬品集、とそこには書かれていた。私の、大切な一冊だ。
抱きかかえるようにして、講堂を後にする。クラスに馴染めるか不安だった。一旦、外に出て屋根つきのテラスを抜け、学舎に向かった。具体的な教室の位置はざっくり地図で確認したが、実は私は目の前の女の子の後を追いかけていた。
さっき、私と同じクラスボードを見ていたのをしっかり覚えている。黒のロングがよく似合う、大人しそうな綺麗な子だった。服装はブレザーで、丈はやや他の子よりも長めにはいていた。性格は、私とよく合うかもしれないな、と少し期待した。
考え事をしながら歩いていると、階段に差し掛かっていた前の子が一段踏み損ねて体勢を崩した。慌てて私は走ったが距離と体力の双方を考慮しても絶対に間に合わない。それでも走った。万が一こそ、私のこの力は役に立つ。
「大丈夫!?」
転んだ女の子に、慌てて駆け寄る。一瞬驚いた表情を見せたが、「大丈夫ですわ」と微笑んでみせた。
安堵し、身体を観察する。
「どこ打ったの?」
「お尻、ですわ……。でも、足が……」
「待ってて」
頭部外傷なし、お尻は大丈夫だろうから、異常は足のみ。骨折の疑いなし。靭帯損傷の可能性なし。捻挫、である。
挫いている様子であった。私は手に持った医薬品集をめくり始める。最も簡単なところ。鎮痛緩和。間違いない。この名称、この詠唱で。でもどれがいいのかわからない。
この子にはこれがいいよ、と声が聞こえた。本に腰掛けるようにして羽の生えた精霊がひとり。白く透き通るような体毛に覆われた、見目麗しい女性の姿をかたどる、私の相方だった。
「力を貸して。メディ」
私が魔法を扱う為に必要な、私と契約を結んだ『守護者』。小さな守り手は、慈愛に満ちた表情を見せ、本に溶け込むように消えていった。そうして、私は唱える。
『――フェルナビオン!』
解熱鎮痛。捻挫には最適であると思った。
見る見るうちに緩和されていく患部を見て、黒髪の少女は目を丸くした。誰も他者の魔法の内容なんて知るはずもないのだから。
お互いにしばし、言葉を失う。
先に手の内を見せてしまうのはもしかして良くなかったかも、と私はちょっと不安になった。
「あ、ありがとうございます。驚いてしまい、御礼が遅れましたわ」
「驚いた?」
「ええ、医療系魔法の使い手。身近な方に一人いたものですから。貴方でお会いしたのは二人目ですわ」
けれど、彼女は微笑んでくれた。
「申し遅れました。私の名前は、麗奈。神宮寺 麗奈と申します。以後よろしくお見知りおきを」
「あ……わ、私は吉田良恵です。よろしく」
あまりに素敵な名前を聞いて、名乗るのが恥ずかしくなった。今時こんな名前もないだろうに。
「すてきな名前……」
「え」
けれども、彼女は言ってくれた。
「その能力も素敵。だれかを癒すことができるなんて、良恵さんはきっと心優しい人なのでしょう」
そうとも、彼女は言ってくれた。
「あら、もう歩けますわ。またお会いしましょうね」
麗奈は小走りに階段を駆け上っていった。また転ぶよ、と言葉をかけることもできなかった。
私は何とか笑顔を返すのでいっぱいだった。麗奈に悪気なんて、あるはずもないのだ。それくらい、子供だってわかる。けれども、心がついていかない。胸が張り裂けそうになる。
私の癒しの魔法は、本当に癒したいものを癒せない。本当に癒したい人はもう、この世界には居ないのだから当然だ。
姉さま。貴方はなぜ、死んでしまったのでしょう。
手にした本に問いかけても答えはなかった。本の中のメディもそれはわからないと言っていた。
かつて、姉さまが手にした本を持って、姉さまが通っていた学校までやってきた。そうすれば、また姉に会えるような気がしたから。ちょっとでも、姉さまの気持ちを理解することができる気がしたから。
吉田義美――享年、十八歳。卒業を目前にした、あまりに早すぎる死だった。
* * * *
一年二組、と書いてあるのを確認して、まだそんなに古くは無い扉を開いた。漫画ならここで扉に挟まれた黒板消しなどが落ちてくるところだろうけれど、悲しいかな。私たちはもう十五なのだ。そんな幼稚な悪戯をして喜んでいられるほど、幸せは間近にはない。大人でもなく、子どもでもない微妙な成長期の少年少女。それが、私たちだった。
しかし、現実は時に予想の斜めをいくのだということを、私はこの瞬間初めて実体験した。
頭の上に軽い衝撃が走り、目の前を白塵が舞う。チョークの匂いを認識したところで笑い声に遮られた。
「あはははは、よっしゃ……って、あ、あれ?」
男の子の声だった。
「せ、先生じゃない?」
男の子は私を見て、驚愕の声をあげた。
クラス中が笑い声に包まれる。頬が火照っているのがわかった。悪戯好きな男の子のトラップに引っかかったという、自分の置かれている状況を理解すると悔しいのと惨めなのと双方の気持ちが溢れてきて、気づけば、涙を浮かべていた。
「ご、ごごごめん! 先生にちょっと悪戯しようとして――あ!」
駆け出した私は最後まで聞かなかった。
教室を出たところで大人の男の人とぶつかりそうになり、それを身をよじってかわす。顔は見なかった。
「きみ!」
背後から声がかかったが、聞いてなんかいられなかった。タイル張りの廊下を走り、足は自然と上の階へ向かっていた。
屋上の扉を開け、青々とした空が視界に飛び込んできて、私は初めて足を止めた。
何で初日からこんな目に合わなければいけないのだろう。魔法を学ぶという崇高な場において、真面目に学ぶ気のない人間が来たことへの仕打ちだろうか。
テレビに出ていた、魔法省の2005年の『M-Japan構想』を思い出す。
平たく言えば、今から三十年以内に魔法のあり方を確立させるという考え。今はまだ魔法を扱える人間は一握りである。優れた魔法人となれば、砂粒ほど。優れた魔法人を多く育成することで、教育できる者を増やし、徐々に使用価値のある魔法を扱える人間を増やしていこうという計画である。今はまだ埋もれていても、潜在的に魔法を扱える人間も多い。そういったものを掘り起こし、全国民が直接的または間接的に魔法のメリットを享受できる社会を実現し、それによって産業分野での国際競争力の強化や経済構造の改革、国民生活の利便化などを成功させることを目的に、国家が中心となって魔法技術の普及に取り組んでいこうとする構想である。
とりわけ、なぜか魔法は日本の文化である。上手く活用することで世界最先端の国家となることを目標としており、そのためにも魔法インフラの整備や国家制度の確立などを謳っている。
国は、望んでいるのだ。そして、「魔法を使える人間は、それをより優れたものに昇華させる義務がある」と謳っている。「義務」とは言うものの、努力義務であり個人の裁量に委ねられているのが現実であるが、社会は、大人は、これからどんどん成長する可能性のある子どもたちに魔法の将来を託し、勝手な期待を押し付けているのだ。勝手な、期待を。
「勝手な、期待……」
唇を割って出た言葉は、青空の向こうへ消えていった。
屋上からは、学校の周囲が展望できた。学校の門から大通りが港まで伸びており、それを木の幹のようにして、末端へ道が伸びている。施設はおおむね大通りに面して建てられているようだ。見る限り、カラオケ、ゲームセンターなど娯楽施設も多々ある。屋上から眺めてみると、それはれっきとした一つの街であった。小さな家々も、街のいたるところにあり、場所によっては血縁のものなら入居できる家族寮のようなものもあるらしい。民間の業者もこういった人口島を隙間産業として入り込んでいると聞く。もう、それは街であると思えた。
さすがに、賭博などの違法施設はないと聞くが、これだけの規模なら何があってもおかしくはないような気がした。
「姉さまは、この町ではどこが好きだったのかな」
独り言ではない。けれど、それに気づかなかったのか反応がなかったので、私は彼女の名前を呼ぶ。
「ねえ、メディ」
肩掛けにした鞄から本を取り出し、適当なページを開く。
白い体毛に覆われた小さな妖精が背中の羽根を器用に操作しながら、私の肩へ飛び乗った。
【義美は、あのあたりの小さな喫茶店がお気に入りだったわ。近くに本屋があって、あの子はそこで買った小説を読んでいたの】
メディが小さくかわいらしい指で示してくれたが、ミニチュアになった街の一画なんてここから判別のしようもなかった。
それでも。姉さまは、あそこにいて、呼吸をしていた。そう思うと、少し涙がこぼれた。姉さまのことを考えると、あまりに胸が痛む。最初は姉さまと同じ部屋に寮を取ろうとしたけれど、それは止めたほうがいいと思った。きっと、私は平静ではいられないだろうし、メディにしてもそれはきっと辛いことだろうから。
私は姉さまと三つ離れている。私がいま使っている寮は、姉さまの代が使っていた寮だった。だから、姉さまと同じ部屋を希望することもできた。けれど、それはやめなさい、と心の中の私自身が言った。私と姉さまは、絶対的に違う存在なのだから。
医者である両親は、私たち姉妹にも同じ道を歩むことを強いた。姉さまは賢く、何をやらせても一流だった。私は落ちこぼれで、唯一できることといえば、料理。私は栄養士になりたかった。それでも、両親はそれを許そうとしなかった。
好きでもないことを学ぶ上に、落ちこぼれの私。当然、両親の期待に添えそうもないことはわかっていた。だが、姉さまは違う。生きていれば彼女はきっと医者になれた。そして、たくさんの人たちを救うことができたはずなのに。
それなのに、彼女は自らの命を絶ってしまったのだ。
メディにもわからない、という。両親は魔法を使えない古い人間だったから、メディのことは見えない。両親が直接、この小さな愛すべき隣人を責めることはなかったが、かわりに私が責められた。死ぬのはお前の方がよかった、そこまで言われた。
だけど――。
「いまはちがう。私は、ここにいる」
両親は受け入れた。姉のいない世界を。
末期がん患者の精神状態と似ているかもしれない。何かの間違いだという「否定」から入り、なぜあの子がという「怒り」へと変わる。そして、死んだのが妹の方だったらと「取引」と呼ばれるステップを経て、何もしたくないという無言の「抑うつ」状態へと変わる。そうして最後に、彼女の死を「受容」し、妹である私にすべてを託した。即ち、魔法の力を借りた医学という新しい分野を期待したのだ。
だけど、私は両親の言うことに従ったふりをして、その実、違うことを考えている。姉さまと同じ学校に行けば、姉さまがどうして死にたいと考えたのかわかると思ったから、ただそれだけの動機でここにやって来た。だって。そうしないと、私が先へ進めない気がしたから。私はまだ、がんのステップの「否定」、「怒り」、「抑うつ」、「取引」、「受容」の最後まで辿りつけていないのである。
あるいは、やはり私は両親の言いなりなのかもしれない。なんだかんだ言っても、逆らうのが怖くて、いまだ自分の胸のうちを伝えたこともない。結局、私は敷かれたレールの上を走り続けているに過ぎない。
「ねえ、メディ。姉さまは、あなたとどんな話をしたの?」
メディは答えなかった。彼女もまた、私と同じ暗い闇の底にいるのかもしれなかった。
私の気持ちとは反対に、青い空はどこまでも明るく、全てを受け入れるように広がっていた。
「どうしたのかな」
空を見上げていると、背中に声がかかった。渋い、大人の男の人の声。
「まあ、どうしたもこうしたもなく、僕にはすべて事情がわかってはいるのだけどね。クラスの子に聞いたから」
振り向くと、眼鏡をかけた青年が立っていた。青年である。生徒にしては年が高く、先生にしては若い。浅黒い肌に、彫りの深い顔立ちをしていた。そこに、インテリ眼鏡をかけており、それが一種のアクセントとなっていた。
「君の担任の、大城 慶太だ。一年二組を預かる。おっと、僕の自己紹介よりも今は……ほら」
そう言うと、ひとりの男の子を私の前に立たせた。男の子はばつの悪そうな顔で、唇を尖らせている。
「ほら、謝りたいんだろう。僕がいると謝りにくいなら、ここを離れるから。落ち着いたら、二人とも教室に戻ってくるんだよ」
言い残して、大城先生は階下への扉を開いた。扉の金属音がして、静寂があたりを支配する。聴こえるのは、学校を囲む木々の声だけだった。
これは何というか、気まずい。黒板消しのことなんてすっかり忘れていたのだ。私の中ではすでに頭の隅っこに追いやっていた、すでに過去のことである。それを今更こう改まれると、気恥ずかしさの方が勝る。
ずっと立ったままだった、男の子が近づいてくる。一瞬どきっとした。
「うわー、すっごい綺麗な景色だなー」
そう思ったのも束の間のこと。男の子は単に、屋上からの景色に感動して、それを眺めに来ただけだった。
「……なんてね。ごめんね。謝るタイミングわからなかったんだ。さっきはあんなことしてごめんなさい。担任の先生をネタにして、クラスのぎくしゃくした空気を緩和したいな、ってそう思ったんだけど……まさかまだ来ていない子がいたなんて思わなくて。本当にごめんなさい」
男の子は振り返り、頭を垂れた。色素の薄い、少し茶色がかった髪が揺れる。染めているわけではなさそうだ。
印象は、悪くなかった。心の中のもやもやが全て消えていく、そんな感覚さえあった。
「あ、こちらこそ、びっくりして逃げたりしてごめんなさい。私は吉田良恵。あなたは?」
「あ、ごめん。僕は服部 槍真。三重県から来たよ」
三重県。そして、はっとり。私はそこから、一つの単語を導き出した。
「え、忍者?」
「え、え、ええええええ!? そ、そそそそんなことないよ!? これっぽっちもないよ!」
槍真は何故か異様に驚いて、ざざざざっという擬音を出しそうな勢いで私から離れた。
「な、なにその反応?」
「いやいやいや! なんでもない! なんでもないでござる!」
そうして、さらに後ずさり、胸ポケットから何かが転げ出た。地面に落ちた円筒状のそれは、ころころと転がり私の足元まで来た。私の足に当たった衝撃で紐が解け中身があらわになる。素材は古く、なにやら読めないくらい達筆の字で何かびっしりと書かれていた。
「これ……」
拾おうとすると、瞬時にして私の手元からそれを引ったくる。
「ならんでござる!」
いつの間に?
先ほどまで私と数メートルは離れた位置に立っていたはずの彼が、今目前にいる。
「……ご、ござる?」
それよりも何よりも語尾が気にかかって仕方がなかった。
「え、いや、あははは。いやだなあ、そんな忍者だなんて、これっぽっちもそんなことないよ。あはははは」
「いや、私もそもそも、そんなことは全く信じていないけど……」
この二十一世紀のご時世に、忍者だなんて。時代劇でしかお目にかかる機会がないのに、信じる方が馬鹿げている。冗談で名乗るにしても、小学生でも恥ずかしがるだろう。何なら、私は「松尾芭蕉は実は忍者だった」という説も信じていない。それに、昔のアニメの「科学忍者隊ガッチャマン」にしてもそうだ。再放送を一度だけ観たことがあるけれど、私はあいつらも忍者だとは信じられない。「科学忍法火の鳥だ!」と言った直後にやったことが単なる体当たりだったのだから、信じようがない。
「そ、そそそうだよね、信じるやつなんていないよね、あは、あはははは!」
しかし、私はその巻物を見てしまった。
巻物から出ている、守護者と思しきそれは、まさしく忍者そのものであった。
目元だけを残し、あとは頭のてっぺんから足の先までを黒い衣装に身を包んでおり、手には何故かいつでも私に撃てるように手裏剣を構えている。これじゃ疑うことなく、紛れもなく本物の――
「……忍者?」
口にすると同時に、槍真が叫んだ。
「ち、違うって言ってんじゃん! もう、先に教室帰ってるね! またね! どろんでござる!」
どろんでござる、というよくわからない台詞と共に、白い煙が巻き上がる。それが消えた後に残っていたのは、私だけであった。
その後、教室へ戻り、大城先生に改めてみんなに紹介された。もちろん、服部槍真はすでに席に戻っていた。
「そんなわけで、吉田良恵ちゃんだ。どこぞの馬鹿のお陰で、辛い思いをしたみたいだから、みんな励ましてやってくれよ」
大城先生の冗談で皆が笑い、口々に槍真を罵った。
「女の子にあんなことするなんて、最低ー、信じられない!」
「ほんとほんと!」
みんな、机の上に本を置いていた。人それぞれ、色んなものを持ってきている。
しかし、槍真だけはそれを大事そうに懐に忍ばせ、誰にも見せないようにしているらしかった。とはいえ、巻物は結構大きいので丸見えに近い形であるので、それが一層、槍真の馬鹿っぽさに拍車をかけていた。
「ていうか、名前が服部って、お前は忍者かよって感じね」
その言葉に槍真が身を振るわせ、脂汗のようなものが頬を伝い落ちているのがわかった。きっと、彼には彼なりの事情があるというものだろう。いよいよ可愛そうだと感じた私は、見かねてフォローをしようとしたが、大城先生の言葉の方が効果的だった。
「さて。みんなは今日からこの島で生活することになる。寮は大きなものがあり、あとは団地やアパートなど、みんな色々なところに住んでいるとは思うが、ここにはここのルールがあるんだ。それをまずは説明させてもらいたい」
男子も女子も口々に、ルールがあることについて文句を言っていたが、大城先生の「これが終わったら今日は解散だ」という言葉を聞いて、騒然とした空気は一瞬にして静まった。
「まず、ここは東京の都心から遥か離れた小笠原諸島に位置していることは皆も知るとおりだけど、この距離というのは問題でね。いざという緊急事態には本土からの救援も時間がかかる。なので、緊急時のマニュアルは部屋に帰ってからでいい。熟読しておくように。特に、大規模火災があったときなど、避難場所に注意しないと、下手したら死ぬからね。一応は港だが、無理な場合は校庭でもいいので、避難すること」
そう言って、大城先生は早口で緊急時の対応マニュアルを述べたが、頭がついていかなかったので、後でいただいた冊子に目を通そうと思った。
「あと、必ず知っておかないといけないことは、医療について。ここは離島だけど、魔法技術専門学校があるということで、学校前に病院がある。病床も一応ある、れっきとした病院なんだ。しかし、みんなも知っているように近年は医師不足もあり、こんな辺鄙なところに来ようという医師は少なく、また専門の科もない。重病のときは本土へ戻って入院、という形になる。その場合、緊急性によっては、ドクターヘリが学校内の校庭へ下りる。そのときはサイレンで呼びかけるので、必ず校庭を空けるように」
そのあと、皆は口々に「すごい、コードブルーじゃん」と、知ったドラマの名前を挙げていた。
「魔法に付随する症例は、僕たち教師は心得ているつもりだ。学内にも医務室はある。なので、まあそこまで不安がって日々を送ることはないね。そして、最後に!」
一々やかましく騒ぐ生徒に、めりはりをつけるように大城先生は声を大きくした。
「胸元につけている校章、それは絶対に無くさずはずさないこと。私服のときはまあ、義務付けないけれど学校で魔法の訓練をするときは必須だ」
そうして、大城先生は説明し始めたら長くなるものを、なるべく簡素化して述べてくれた。
校章のシステム。これは単なるバッジではない。
「この校章は、つけている人が魔法を一定以上使用すると警告音を鳴らしてくれる。生徒のバイオリズムを読み取って、身体に一定以上の疲労が見受けられると反応する機能だよ。警告音が鳴ったら先生らが駆け付けるようになってるから気をつけてね」
自宅ではつけなくていい、というのは、お風呂のときなどもあるからだろうし、魔法を日常では使いすぎることもないからかもしれない。
私たちは何だかんだ、本土でも魔法と隣り合わせで生きてきた。日常生活での線引き程度はできるというもので、そのあたりは先生たちも信頼はしてくれているらしい。
「一応は以上で、何か質問ある? どうせ、ないよね。百聞は一見にしかず、見たほうが早いしね。あ、薬とか日常品とか、要り用のものはたいてい、商店街で手に入るので心配ないと思う。一応、今わたした冊子に主要施設は書いてあるので、これも読んでみてね。今日、早く終わるのは、一日で島のことを知ってもらいたいというのが学校側の思いだ。離島というのは、みんなが今まで生活してきたものとはだいぶ違う。少しずつ慣れていってほしい」
まあ慣れる頃にみんなは卒業していくのだけどね、と先生は少し哀しそうに微笑んだ。
そうして、その日のホームルームはお開きとなった。
大城先生が出て行って、冊子と睨めっこしていると、槍真がやって来た。
「良恵ちゃん。今からひとりで周るの?」
「え、うん。まあ……」
「どこから行くの?」
「えっと、ドラッグストアかな?」
「そっかー、確かにクスリは大事だもんなー」
まず、ドラッグストアは行っておきたい。化粧品や医薬品、それらは見ておきたい。私は何でもかんでも魔法で治せる、というわけではない。とりわけ、自分への魔法はかけられるものと、かけられないものがある。そのあたりの区切りは、まだ私もはっきり全てを理解しているわけではない。いざというときのために、医薬品の品揃えは見て、家にも置いておきたかった。
それから何より、
「あと、女の子は生理用品か」
かっと顔が赤くなるのがわかった。どこまでデリカシーがない男なのだろう。この服部槍真という男は。
憤りのあまり口を開こうとしたら、それを遮るようにひとりの女性が現れた。
「いくらなんでも、女性に対する口の聞き方が成ってないんじゃなくって? 服部槍真君」
神宮寺麗奈。あの、足を挫いた子だ。
「あ、そうか! そうだった、かたじけないでござる!」
槍真はそう言うと、両手を合わせた。それを見た麗奈は「ござるって……」とちょっと引き気味の様子だった。
「え、いや、これはその……ござるとか、僕、忍者だなんてこと、ぜんぜんないから、これっぽっちもないから! ほんと、そんなんじゃないし!」
「な、何です? その焦った様子は……逆に怪しいですわよ」
「いやいや、ほんと! 怪しくない、怪しくないから! おっと、日々の自己鍛錬の時間でござった! 拙者これにて、失敬!」
言うや否や、槍真は「シュタタタタ!」などと言いながら、奇妙な横走りをして去っていった。それも、異様なくらいの速さで。
「なん……だったのかしら」
「なんなんだろうね」
呆気にとられる麗奈に私は合わせておいた。人が秘密にしようとしていることを、わざわざ明かすこともない。
「まあ、それより改めて。神宮寺麗奈です。麗奈と呼んでくださいまし。まさか、同じクラスだっとはね、良恵さん。仲良くしてくださいね」
「こちらこそ、よろしくね。タメで話してくれていいよ」
言うと、麗奈は神妙な顔つきをして、悩みこんだ。
「ですが……癖みたいなもの、ですの」
「あ、そうなんだ? じゃあ、そのままで」
「ありがとうございます。助かりますわ」
麗奈は嬉しそうに微笑んだ。
「良恵さん。これからお友達として仲良くしてくださいまし。今日は一緒に、町を回りませんこと? 私、実はここの島の出身ですの」
私は二つ返事で頷いた。地元の子もいるとは思っていたが、人口数から考えて確率的にはかなり低いはず。私はそんな奇跡に喜んだ。
何より、島に来て初めての友だちができたことが嬉しかった。
* * * *
学校の門を潜り、学外に出ると、大通りがずっと目に見えなくなるまで伸びていた。
私たちはまず、大城先生に言われた病院を見に行ってみた。「蓮華病院」と書かれている。法人名は書かれてはいないが、おそらくは学校と経営者は一緒だろう。受付もちらっと見た。患者数は離島のため、あまり居ないようでがらんとしていた。でも、それがいいのだ。病院に来る人でいっぱいになるような世の中じゃ、困る。みんな、健康の方がいいに決まっている。
「ここの病院は院長先生がびっくりするような人なのよ」
と、麗奈は笑っていた。詳しくは聞けないまま、麗奈は次々と案内してくれる。
ちょっと引き返して、総合ショッピング施設、そしてドラッグストアを見た。ドラッグストアではコスメ関連も充実していたが、学校は化粧していくと怒られるだろうから、休日用だなと思った。私は化粧はしないのだけど、噂によると、この年でももう皆すごくメイクが上手であるようだった。私も休みの日くらいはやってみないと、皆から置いていかれるかもという不安があったが、麗奈がそれを見て眉をひそめていた。
「私たちくらいの年の子は、ナチュラルが一番なのよ。こういう、流行に左右されるような一部の安っぽい人間にはなりたくないわ」
それを聞いて安心した。やっぱり、そういう子が大半なんだな、と自分の無知を恥じた。
ドラッグストアを出て、大通りを歩く。小さな店が色々あった。文房具、定食屋などは昔からあるような、親しみやすい雰囲気をかもし出していた。図書館。カラオケにゲームセンター。色々ある。さすがに、未成年が主流のため、飲み屋やバーみたいなものは表立ってはないが、島には大人も存在する。もともと、この島は小さな漁村だったのだ。海の男と酒は隣り合わせと聞くし、そういった界隈も島には存在するらしかった。
「おしゃれな喫茶店があるのよ。良恵さん。ちょっと寄っていかない?」
商店街から一本それた筋に、そのアンティークな基調の喫茶店はあった。
店の名前は『night a star』と書かれていた。直訳すると「夜空の星」か、喫茶店なのに面白い名前だなと思った。
扉を開けると、カランカランという心地よい音が響く。店内は少し薄暗いが、店の外観と同様に、落ち着いた良い感じを醸し出していた。
「いらっしゃいませ。あいている席にどうぞ」
顔も上げずにカップを磨いている。寡黙そうなマスターだった。二十代後半か三十代前半の、大人の男性。細身で、タキシードを着込んでおり、整えられた髪がより一層、大人の渋さを醸し出していた。一言で表すと、かっこいい。槍真とはまったく違うタイプだった。
「良恵さん。コーヒーは大丈夫?」
「え、あ、はい」
マスターに少し見とれており、麗奈さんに思わず敬語で返してしまう。
「この店の一番のおすすめをふたつくださいな」
麗奈はそんな頼み方をした。
承知しました、とマスターは顔を上げ、そして、私の顔を見て動きを止めた。
「義美、ちゃん……?」
姉を知る最初の人だった。屋上からメディが教えてくれた喫茶店と、ここが結びつく。そうか、あれはここだったんだ。
「姉さまを知ってるんですか?」
男はさっと顔を背けてしまい、そのままただコーヒーを準備する音だけが店内に響いていた。麗奈は何やら察したらしく、黙っている。食器がカチャカチャと音を立てる。湯気がのぼり、香ばしい匂いがした。
「どうぞ」
男がカウンタに差し出したのは、けれども、カフェオレだった。
「……あれ、ここは、そういうお店でしたか?」
言いたいことはよくわかる。きっと、麗奈も本格コーヒーを期待していたのだろう。
麗奈は眉をひそめていたが、私は、待って、と制した。
「……姉さまはコーヒーが飲めなくて、でもカフェオレが好きで好きで。よく、ミスドでも飲んでいました。これは、姉さまにとっての“一番”でした」
カフェオレを一口いただく。麗奈も黙ってそれに倣ってくれた。
もちろん、ミスドなんかのそれとは違って、格段に良いものだった。けど私には、小さな頃に姉さまと一緒に飲んだミスドのカフェオレと重なって、涙が止まらなくなって。
カフェオレをソーサーに置いて、手で目を覆う。そうしないと、どこまでも零れ続けそうだった。涙を流し続けて死ぬ人間なんて居ないけれど、今の私だと死んでしまうかもしれない。
「姉さま……」
呟く。
私の鞄の隙間から、メディが飛び出す。そうして、店内を飛び回り、最後に私の肩にそっと乗った。私はその温もりに触れ、少し落ち着きを取り戻したことを自覚したけれど、それでもまだ足りない。姉さまを思い出すと、世界が悲しみしかないような、そんな絶望にさえ囚われる。
私はしばしすすり泣いた。麗奈が無言でそっと抱きしめてくれる。
「悲しいときは、泣いていいのです」
事情も深く飲み込めていないだろうに、きっと会って初日で迷惑だろうに、それでも彼女は優しく私を抱きしめた。
そのぬくもりが、ひどくあたたかい。私は麗奈に抱きつき、いよいよもって大泣きした。東京では、長野では、両親の前では見せられなかった、涙だった。
幾分か経ち、落ち着いた頃にはカフェオレは冷めてしまっていた。
「すみませんでした……」
私は麗奈と、そしてマスターに謝る。
「いや、いいんだ。そうか、妹さんか……よく、似ている」
マスターは目を細める。目尻や鼻筋の整った、綺麗な顔立ちの男性だった。
「はい、吉田良恵といいます」
「私は神宮寺麗奈と申します。何度かここに来たことがありますわ。良恵さんのお友達です」
「神宮寺さんは知っているよ。島じゃ名家で有名だからな。けど、ちゃんと話したことはなかったな。俺は、内藤義康。見てのとおり、喫茶店のマスターをしている。義美ちゃんは……その、ここの常連だったんだ」
内藤さんは言葉を詰まらせてそう言うと、少し遠くを見つめるような目をした。その目に、寂しげな感情が浮かんでいる。姉さまのこと、想ってくれているんだ。
「……まあ、今日のところはあまり話さないほうがいい。メディも、ほら。辛そうだ」
メディ、と内藤さんは私の守護者のことを知っていた。いや、内藤さんが知っているのは、姉さまの守護者としてのメディということになる。
「落ち着いたらまた来るといい。また、あたたかい飲みものでも出すよ」
このままだと、メディが消えてしまいそうなくらい苦しそうだったので、私は席を立った。麗奈も一緒に立ち上がる。
「あ、麗奈……ごめん」
いいのよ、と彼女は微笑んだ。
私たち二人は内藤さんにお礼を言って、店を後にした。扉が閉まる瞬間、コーヒーの豆の匂いが、ふわっと香った。
* * * *
その後、商店街を色々と歩いて回った。麗奈は、あえて私の姉さまの件には触れなかった。
「主要施設は確認できましたわね。あとは、アミューズメント施設でも見ていきましょうか」
聞かない、優しさ。触れない、優しさ。それが、思いやりなのだと思う。
「ゲームセンター、があるんですよ。私たちが小さかった頃にはもうちょっと規模は小さかったのですけどね。本当にこの島は少年少女に飽きがこないよう考えられて、めまぐるしくその姿を変えていますわ」
お嬢様然としている麗奈であるが、今日一日いっしょに周っている時に聞いた限りでは、やはりお嬢様だった。
この島の旧家の跡取りであり、一人娘であるとか。詳しくは突っ込んでは聞けなかった。私は自分のこともそんなに話せていないのだから、こちらから根掘り葉掘り質問するのもフェアではないだろう。
「良いことを思いつきましたわ。プリクラでも撮りませんこと?」
思い切ったように、麗奈は意気込む。
彼女はお嬢様らしいと思いきや、妙に世間慣れしている様子もあり、親からあまり自由を許されなかった私の方がよほど世間に疎かった。
「良恵さんとの、出会いの記念に。いいでしょう?」
微笑む麗奈を見て、私も笑顔で頷いた。
私たちは仲良く通りを歩いた。揃いの制服が、なんだか嬉しかった。
ゲームセンターは大通りに面していて、遠くからでもその外観からすぐわかった。中に入ると、ゲームセンターというレベルのものではなく、ボウリングや卓球、カラオケといった、様々なアミューズメントの複合施設であるようだった。店内は相当広く、また遊び場も少ないせいか、学生で溢れかえっていた。
その中をすいすいと人混みを縫うように歩いていく、麗奈。私はいつしか彼女に遅れを取り始め、やがて完全に見失ってしまった。
慌てて、彼女が消えていった先を目指そうとして、男とぶつかった。
「っ痛ぇな……」
目つきの悪い、髪を金髪に染めた男だった。かなり、強面である。
「す、すみません! 急いでいたもので……」
私は慌てて謝るが、男は私の手首を掴む。
「お、見ない顔じゃん。新入生? 俺らが町の中、案内してやるよ」
金髪はリーダー格だったらしく、テレビゲーム機のような箱型の機械のコーナーからぞろぞろと三人、別の男が出て来た。
「お、なかなかイけてるじゃん。どっから来たの?」
「肌白いねぇー」
三人が何人とも、「不良」というレッテルを自ら好んで貼り付けているような外見をしていた。
確かに、蓮魔(※蓮華魔法技術専門学校の略称)では、外見に関する身だしなみの規制はない。制服さえ着ていれば、個人の裁量に任されている現状である。しかし、男達は制服を着ていなかった。つまり、今日は入学式なので、それに参加しない学生。二年か三年かはわからないが、上級生であるらしかった。
「とりあえず、まあここじゃ何だから来いよ。へっへっへ」
男はそう言うと、強引に私の手を引っ張り、裏口から外へと向かう。
助けを求めようと店内を見るが、誰も目を合わせようとしてくれない。ゲームの電子音や大きな音で流れるビージーエムのせいで誰も気づいてくれないのかもしれなかった。
「は、離してください!」
裏口から裏通りへ連れて行かれ、私はようやく掴んでいた手を振り解くことに成功した。単に逃げ場が無い袋小路だから手を外してくれた、というだけの話かもしれない。
男達は無言でにやにやと下卑た笑みを浮かべている。不気味だった。怖い、と心から思った。
私は本をすぐ取り出せるように構えてはいるが、今のところ、私とメディには戦う術が無い。対する男達は、手に一応、何らかの本を持っている。四対一。どう足掻いても、叶うはずがないと知り、絶望にかられる。
「さあて。新入生ちゃんには、いろいろと教えてやんなきゃなあ? へへへ」
鼻ピアスにニット帽の男が、手を伸ばしてくる。
やめて、と叫びたいのに、恐怖で声が出ない。そんな私を見て、男達はまたゲラゲラ嘲笑う。
誰か通りかかって欲しい。けれども、こんな裏路地に誰かが現れるはずも無い――そう考えた瞬間だった。
「おいオィ、お前ら。オレを差し置いて何楽しんでんだよ、あん?」
男達がその声を聞いて、動きを一斉に止めた。その表情には驚きと恐怖が入り混じっていた。
「大体、オレのシマで何勝手なことやってんの? お前らシタッパが無許可で勝手こいてんじゃねぇぞオィコラ」
私は声の主を仰ぎ見た。
黒いスーツのような服を着崩した、一見ホスト崩れのようなファッションに身を固めた、長身の男。髪は手入れしているわけではなく、無造作に放置しているようで、しきりに手で掻き毟っていた。
「さ、里見さん……自分ら、勝手なマネして、その、あの……」
「そのあのじゃあ、わかんねェんだよ。何が言いたいのかはっきりしろボケ」
里見と呼ばれた男はそう言うと、背中から何かを一閃した。木刀、だった。
ピアス男は顔面を殴打され、派手に吹き飛んだ。その一撃だけで。それは、魔法の力ではないようだった。男は本を手に持ってはいなかった。ただ、木刀だけを振るった。
「あとそれからお前。初日で絡まれんなよ、ややこしい」
木刀の先を私に突きつけて、静かに言う。
「あ、え、その……」
「え、その、じゃあ、わかんねェんだよボケ。フン……まあ、吉田だから仕方ねェな、吉田じゃな」
里見はそう言って、肩を震わせ笑った。
「おう、雑魚ども。忠告しとっけど、このシマでやっていいこととダメなことがある。まず、この里見様に楯突くことは許さねェ。それから、里見様の知らないとこで何かやられんのも許さねェ。理由は面白くないからだ。わかったかボケ」
私を囲むチンピラどもに、鋭い眼光を叩きつける。
チンピラは必死に顎をかくかくと縦に振り、全速力でその場を逃げ去った。
あとに残ったのは、私と里見――。
「おう吉田。お前もとっとと消えな」
里見はなぜか、私の名前を知っている。疑問に感じた私が、それを聞こうとすると――
「キエェー!」
奇声とともに、空から誰かが降ってきた。
「忍法・着地の術!」
叫び、着地したのは、服部槍真。
「あ? 何が忍法だアホ。単に飛び降りてきただけだろ」
里見が見下したように槍真を見下ろす。槍真は、着地の衝撃で足が少し痺れているらしく、無言で何か痛みを堪えている。里見の言うように、アホだった。
「うるさいうるさいうるさい!」
槍真が叫び、懐からなにやら取り出す。手裏剣だった。
それを目にも留まらない速さで投げたのだろう。里見が木刀ですべて、はじき落す。一連の動きが、私にはまったく見えなかった。結果として認識できたのは、地面に落ちた手裏剣の存在のみである。
「なかなか、やるな。この不良め……」
槍真は言うと、地面を蹴る。
一瞬で間合いを詰め、腰から小刀のようなものを取り出し、里見に切りつける。同時に、その左手が巻物を掴んでいることに私は気づいた。
『火遁の術――』
火柱が槍真の左手から上がり、それが里見を襲う――が、里見はこれも木刀を振るうだけで消してみせた。風圧だけで、である。
「へえー、なかなか面白いじゃん、お前」
里見が目尻を下げ、しかし冷たく言い放つ。
「だが生意気だ。オレに楯突くやつは面白くねェ」
槍真が次の術を編もうとしているうちに、里見は槍真の腹部に蹴りを入れ、お腹を抱えてうずくまった背中に木刀を叩き込んだ。
そして、更に蹴りを一発。地面に転がる槍真から巻物を奪い取り、遠くに放り投げる。そして、蹴りを繰り返す。あまりに一方的に、過ぎた。
「やめて!」
「あ? やめねぇよ。こいつから仕掛けてきたんだろが」
「だって、あなたは私を助けてくれたでしょ? 槍真は友達なの、だからお願い」
里見は一瞬、私の顔を見て思案し、ばつの悪そうな顔をした。気まずさをかき消そうとしたのか、「やっぱやめねェ」と今度は木刀を槍真の頭部に目掛けて叩き込もうとするそぶりを見せた。
木刀が槍真の頭部に向かっていくのが、いやにゆっくりに感じる。こんな風にスローモーションで流れるのはドラマかアニメの中だけだと思っていた。
槍真も先ほどのダメージが大きいのだろう、身動きが取れないまま、木刀の軌跡をただ見つめていた。
その時だった。
『――“あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう”』
早口の詠唱が聴こえた。今日一日で聞き慣れた、新しき友の声。
路地裏に姿を現した声の主は、見間違うこと無い、神宮寺麗奈であった。手には古びた革製の書物を持っている。それが、彼女の“本”なのだろう。
『――“マタイによる福音書、第七章二節”』
言い終えると同時に、彼女の本から眩いばかりの光と、天使が飛び出した。
光は、雷だった。
「なるほどねェ」
里見は一瞥して鼻を鳴らした。余裕である。しかし、足元の怪我をしている者にはそれを回避することは難しいかもしれない。槍真にも当たってしまう、と不安を感じ目をやると、槍真はすでにそこには居なかった。里見の足元に転がっているのは、なぜか丸太である。変わり身の術、というやつかもしれない。槍真はいつの間にか、距離を置いたところで巻物を手にしていた。
そして、裁きの雷が落ちた――里見の数メートルの先に。
「今のはわざと外したのです。次はありませんよ」
麗奈は鋭く里見を睨みつける。
「おそらくこれは不幸な誤解でしょう。良恵さんは、あなたを悪く思っているような感じは無いのですから。ここはお互いが水に流し、引く……それではいけませんか? ねえ、里見さん」
どういう経緯か、麗奈は里見を知っているらしかった。
槍真はその目にまだ闘争心を燃やしていたが、今の言葉を聞いて、「え? そうなの?」と呆気にとられていた。里見の方は、面白く無さそうな顔をしていたが、渋々と木刀を背中の鞘に戻した。木刀に鞘、と疑問に思ったが、どうやらあまり観察していなかったのは私の方であるらしく、それは竹光のようなものであるらしかった。
「チッ、拍子抜けした。女相手にゃ本気は出せねェしな。お前ら、すぐ泣くしよ」
言いながら、槍真を睨みつける。
「命拾いしたな、ガキ。あとそれから、神宮寺だっけ? あんま覚えてねェけどよ。お前の魔法は噂に聞くぜェ、めちゃくちゃ威力でかすぎるっつーじゃん。やっぱ神のご加護ってやつ? ヒャハハ、まじパねェ、ひゃははは!」
ひとしきり笑った後、私の顔に視線を移した。そうして、近づいてくる。凶悪そうな顔が目前に迫り、私はぎゅっと目を閉じた。
「オレの名は里見守。このへんで下手な騒動起こすと、今度こそ殺すからな。覚えとけボケ」
言い残して去っていった。
結局、どういう男なのか、姉さまを知っているのか、聞けず終いだった。ただ、見た目どおりの悪い人では無さそうな、そういう雰囲気があった。
「ほんと、粗暴な殿方……」
麗奈はその行方をずっと睨みつけていた。
騒動の元が去って、「ふう、疲れたあ」と槍真が地面に座り込む。路地裏の地面は煙草や痰など、汚らしいものであったがそんなことを気にする余裕もないくらい、槍真の傷は酷かった。
「傷……」
私が駆け寄ろうとすると、メディが本から飛び出て、槍真の周囲を飛び回る。
「この子は……?」
「メディ。私の守護者なの」
メディは一通りバイタルチェックすると、私の元へ戻ってきて報告してくれた。
骨折が認められるので、私の魔法では治癒できない範囲だと。悲しいけれど、そうなってしまうと医者の出番である。現状、ここから学校前の病院まで移動してもたかだか知れている。下手に私が介入するよりも、医療のプロに全て診せた方が良い、そう判断する。
「病院に行きましょう」
私と麗奈は、槍真に肩を貸す。
「男なのにかっこわるいなあ、あははは」
もともと、誤解からこうなったこと自体そもそも間抜けではあるが、助けてくれようとした好意が嬉しかった。私はあえて何も突っ込まず、ありがとう、とだけ伝えた。
槍真は頬を火照らせ、少し複雑そうな表情を見せ、すぐに痛みに顔をしかめた。
「いたたた」
立ち上がった拍子に患部に衝撃が走ったのだろう。
気遣おうとする私よりも早く、麗奈が叱咤した。
「男の子が何ですか。情けない。恥を知ることですよ」
「は、はい……すみません」
なぜか敬語で謝る槍真を無理矢理に歩かせ、病院へと足を進める。
しかし、と思い返す。麗奈の「聖書」を利用した魔法は確かに強力だと思う。なのに、あの里見という男は全く驚いた様子もなく、かなり、戦い慣れている印象があった。何より、あの場において、槍真と麗奈を相手に、里見は一度も魔法を使おうとしなかった。本すら見せていない。もしかしたら、継承者かもしれない。
何よりも、私の顔を見たときに目の奥に過ぎった感情。あれは、“知っている”目だった。きっと、彼もまた、姉を知る人間に違いないけれど、少なくとも、あまり関わり合いにはなりたくない人種であった。
考え始めればきりがないけれど、今はひとまず槍真を安静な場所へ運んであげよう。
思考を完結させ、私たちは病院へと向かった。蓮華病院へと。
* * * *
院内は、薄緑を基調とした色で揃えられていた。
壁紙は、白を下地に新緑を思わせる緑のストライプが入っており、床は春の蓬を彷彿させる優しい色をしている。すべて、院長の拘りである、と受付の事務員の女性は笑った。人好きのする、いい笑顔だった。
私と麗奈は、待合室で、槍真の処置が終るのを待っていた。この病院は、二人の常勤医師で回っているとのことで、現在処置に当たっているのが今日が当番日だという院長である。どんな人なのか、顔はまだ見ていないのでわからないけれども、離島の医師を好んで引き受けるような人だから腕は確かであるらしい。
もともと、この蓮華島には病院はなかった。
小さな、ご高齢のおじいちゃん先生がひとりでやっている診療所があるだけだったと麗奈は言っていた。その方は今はお亡くなりになられたが、この病院の初代院長として奮闘なさったことだろう。
蓮華魔法技術専門学校の設立がなされたのが一九八○年。学校の設置と同時に島の住人が真先に求めたのが、「医療の確保」。今まで小さかった診療所の規模を拡大すべく、病床を備えた病院の設立を求めたのである。様々な思惑と、時代の流れの狭間で、何とかそれでも、蓮華島は病院を得た。それは、蓮華島だけではなく、近隣の島々すべての患者を一挙を担う受け皿として、何よりも求められていたものだった。
「二人、しかいないのね……」
「何がですの?」
思わず呟いた言葉を、麗奈は聞き逃さず、質問してくる。
「え、いや、お医者さん。このへんの島すべての患者さんを受け入れてるのに、常勤が二人しかいないんだって」
私の視線の先に気づいた麗奈は、壁にかかった、病院の沿革に視線を送った。
「優秀なのですよ。とりわけアメリカからやってこられた、院長先生がね」
麗奈は院長先生、と強調した。それほどまでに優秀な人なのだろう。
「あと、そこに携わるほかの医療従事者もですわ。だからやっていけるのですわ。この病院は、島のみんなの希望ですわ」
そう言って微笑む。麗奈がああ言うのだから、腕は間違いないだろう。地元の人に愛される人ほど、確かなものはいない。きっと、院長先生は、素敵な殿方だろうと思った。
さっき、麗奈はアメリカと口にした。欧米などで最先端の医療を学んできたのかもしれない。ふと、私は、病院沿革の隣に、病院概要の掲示物もあるのに気づいた。そこには、病床数などの病院の基本データが書かれていて、管理者の欄に院長の名もあった。そこだけは自筆なのか、手書きでサインがなされている。達筆な、英字で。
「サラ、ヤマモト……?」
それは、女性の名前だった。
「ええ、女医さんですの。私たちも診てもらうときに気兼ねせずに済みますわ」
麗奈はそう言って微笑む。そのとき、扉の開く音が聴こえた。槍真の処置が終ったのだろう。
私はそちらに視線を向け、揃って固まった。麗奈は笑顔のままである。麗奈は私の反応を楽しんでいる様子でもある。しかし、私が驚いたところで、誰もそれを責められないだろう。
「まあ、大事をとって入院ですね。お若いですからすぐ治るでしょう。しかし、この島に来てから色々と経験してきましたけども、入学初日で入院した子は初めてですよ」
その人は、槍真を諭すように言う。
「子、って……」
思わず、言ってしまう。たぶん、この世界の誰もがそれは感じることだろう。
「サラ・ヤマモト。蓮華病院の院長です。よろしくお願いします」
頭を下げた金髪の女性は、むしろ、少女と言うべきかもしれなかった。
「あ、言いたいことはわかりますけど、一応、成年ですよー。医師法第二章第三条に、未成年者、成年被後見人又は被保佐人には、免許を与えない、とあります。サラはちゃあんと医師免許も持っていますから」
そう言って、「年齢は秘密です」と微笑む。そのあどけない笑顔はどう見ても、私たちと同年代のそれだった。名前からしてハーフだろうから、海外の医学部に居たのか。けれども、海外の医学部は、通常の大学を出た後にしか入れないというシステムになっている。加えて、日本に来た際に予備試験を受け、研修を経なければ医者にはなれない。通常の経路でいくと、どう考えても日本で医師免許を取るよりも時間がかかってしまう。
ましてや、槍真の症例を診れたことからも、彼女は単なる新卒の医師ではない。外科系の知識を有する、専門医だ。専門医になるには更に年がかさむ。
「サラは、飛び級ですから」
あっけらかんと返すが、外見は十八歳程度である。人種の差なども考慮しても、二十代前半というのが妥当なところだと思う。
「いくつなのかは私にもわかりませんわ」
こういった年齢の推測のしようがない麗奈には私以上に想像もつかないだろう。
医学部を進路に見据えている――いや、させられている私でも、ちょっと俄かに信じ難い快挙を、目の前の先生は幾つも成し遂げてきたことになる。先生と呼ぶには、あまりに若すぎる気はしたが、それでも立派な医師なのだ。
「ふふふ。よく若く見られるんですよ。サラの自慢です」
「そ、それはそれは……や、ヤマモト先生は日本語がお上手で……」
もはや、私は自分が何を言っているのか理解できていなかった。前後の流れがめちゃくちゃだ。
「サラのことは、サラって呼んでください。ファーストネームの方がしっくりきますので」
そう言って、にっこりと眩しい笑顔を見せた。かわいらしい、お人形のような笑顔だった。
一人称が自分自身のサラなのも幼さに拍車をかけているのだろう。
「そんなわけで、僕、入院しますんでよろしくぅ!」
処置室の中から声が聞こえたので室内を覗いてみると、足をギプスで固定された槍真が鼻息を露に親指を立てている。
「いやあ、入学早々残念だなっ。サラ先生にもご迷惑おかけしちゃうなっ。いやいや、まいったなこりゃっ。あっはっはっは!」
なぜか異様に嬉しそうだった。
「まあ、主治医は私じゃないですけどね」
「え、それって男?」
「はい。腕は確かな頼れるドクターですから、安心してくださいね」
「え……」
「ちょっと、厳しくて怖い人ですけど、患者様のことを思えばこそですから」
「え、ええ……」
槍真は項垂れ、わかりやすいほど落ち込んでいた。
「さて、じゃあ、連絡先ですが、保護者様は?」
「えっと、父子家庭です」
「お父様は今どちらに?」
「刑務所です」
その場の雰囲気を凍りつかせるのには十分なほど、いきなりヘビーな発言だった。サラ先生も聞いてはいけないことを聞いてしまった、と思ったのだろう。その人形のように整った口をぽかんと開けたまま、唖然としていた。
「えっと、親戚の方なんかは……」
なんとか、調子を取り戻したサラ先生が尋ねる。
「みんな同じ職場なのですが、日本各地に飛んでいるのでなかなか連絡が取れなくて」
「ご多忙な方々なんですね」
「いや、最近は仕事がなくなってきたんですよー。戦国時代から江戸時代にかけてなんかはね、たくさんあったみたいなんですけどねー。忍者なんて言っても、今は観光で出し物して食べていくくらいしか……あ!」
しまった、みたいな顔で槍真は両手で口を押さえ、左右に大きく首を振った。
「あ、えっと、親戚はあれです。えっと、何だろ、えーと、ちょっと陰気なフリーター? みたいな、そういう感じの人たちです」
サラ先生は怪訝な顔をする。
「でもさっき、忍者とか言って……」
「わー、わー!」
「ちょっと、服部君? ……あら? 呼んでみて気づいたけど、あはは。そんなタイトルのジャパンの漫画がありましたよね。えっと、忍者はっと……」
「あー、あー!」
ばたばた暴れる槍真を見て、ひとまず元気そうだと判断した私と麗奈は、大城先生に報告しに学校に戻ることにした。詳しくはまた後日にでも経過を聞くことにしよう。
* * * *
学校に戻って、経過を報告していたら、すっかり夜遅くになってしまった。
麗奈は実家が街外れにあるため、学校で分かれた。
「女子寮だと規則もうるさいから、これを持っていくといいよ」
帰り際に大城先生がくれたのは、学校に夜間まで用事があって居残りをしていたことの証明書だった。魔法が日常の学校なので、訓練の時などに破けたりしないように少し厚く作られている。これが免罪符となり、女子寮に帰ったときに寮母さんに怒られないで済むとのことだった。
女子寮は学校の敷地内でも一番奥の安全区域にある。さほど危険はないが、麗奈に関しては、今日のこともあったので、大城先生が自宅まで送り届けることになった。初日から災難に巻き込んでしまって、非常に申し訳なく思う。明日また謝らないといけないな、と思う。
学舎から女子寮までは近い。あっという間に到着し、当然のごとく扉も施錠されていたので呼び鈴を鳴らすと寮母さんが出て来た。
少しふくよか体系から温厚そうな雰囲気だったが、黒縁の老眼鏡に少しきつい印象を受けた。大城先生の心配そうな顔とあわさって、思わず身構えた。
「ああ、吉田さんですね。私は寮監をやっている佐中です。大城先生から連絡を受けています」
連絡までしてくれていたらしい。結局、居残り証明書は使わずに済んでしまったので、ポケットの奥に突っ込んでおいた。
二階へあがり、自分の部屋へと向かい、部屋のカギを開ける。その音で気づいた隣の部屋の住人が顔を出した。中井仁美である。
「あ、やっほー。遅くまでお疲れさん、どないしたん?」
底抜けに明るいその声を聞いて、私は今日一日で張り詰めていた気持ちが一気に緩み、なぜか思わずぼろぼろと涙を溢してしまった。
「ちょ、泣くなや! あー、もう、ひとまずこっちおいで!」
手を引っ張られ、仁美の部屋に入る。
室内はまだ整理がついていない状態でダンボール箱がいくつも積んだままになっていた。それでも、寝られるように布団だけはベッドに敷いてある。
「すまんな、汚い部屋で」
「ううん、私の部屋も同じ状態だし」
「来て早々、入学式やったもんなー、学校長の話は長いしなあ」
そんな、日常的な会話がなぜか心に染みた。
私はクラスのことや、街であったこと。色々と話した。仁美も同じように、今日一日のことを話してくれた。
「私のクラスはなあ、変なんおってな。自分の持っとる本の名前もわからへんとか言うとんねんで。あほやろ? あとなあ、本すら持ってへんヤツとかなあ。まあ、私も人のこと言えたクチやないねんけど……」
仁美は色々と語ってくれた。
話を聞いていると、どうやら、彼女は“本格派”の方の魔法であるらしかった。本という媒体を単なる守護者の宿と捉えず、それすら崇高な魔法具へと昇華させる。本という道具を極限までその利便性や機能性を追及し、守護者の能力を最大限に発揮できる環境を構築させる。それはまさしく、魔法のプロだった。
魔法を使うという一点のみを目指す彼女達と違って、私は医療という分野があって、そこに魔法があれば便利だろうなという程度の、そのレベルの魔法使いである。
どうやらこれは、入学して初めて知ったことだが、クラスを分ける基準となっているらしかった。入学前に聞き取りシートというものを書かされたが、あれはそのためのものだったのか。そんなことを考えていると、ふと、頭に槍真の顔がよぎる。彼は一体なにを書いたのだろう。必死に忍者ではないことをアピールしている槍真が思い浮かんで、うっかり笑みを溢してしまう。
「なんやの?」
「え、いや、その。本って。色々あるんだね」
「そうやねんなー! あんたの本は? どんなん?」
私は、肩掛けカバンの中の医薬品集を取り出した。
それを見て、仁美は大袈裟に感心した。
「話には聞いてるけど、市販のでもいけるんやなあ」
「うん、私は魔法を医療に役立てないといけないから」
そういう道が、私の生きていく先には伸びている。ずっと、ずっと遠くまで。
「やっぱ、魔法って奥深いなあー」
「仁美のは?」
「私のはな」不適に微笑み、「じゃじゃーん」
盛大に口で効果音を言ってみせながら取り出したのは、革張りの本だった。どこか古びていて、飴色の表紙がアンティークさを醸し出している。なぜか、昼間に行った喫茶店のことが頭に浮かんだ。こういう、厳かな、落ち着いた雰囲気があそこにはあった。
「これはなあ、『死者の掟の象徴』やで!」
「れ、れとろ、ろりこん?」
「ちゃうわ! それやと単なるヘンタイ親父やんけっ」
「ね、ねくろ、ふぁみこん?」
「ネクロノミコンや!」
私たちは顔を見合わせ、くすくす、と笑いあった。
「しかし、ハットリ君やっけ? 入学早々、入院するなんてホンマ伝説やなあ」
「ほんとほんと」
「名前からして、なんやマンガみたいな感じやし面白いやっちゃな。忍者ハットリくんって、お前は忍者かっちゅーねん」
「あははは。ほんとに変なの!」
私たちは笑いあった。そこはかとなく関西の風を感じさせながら、仁美は優しく接してくれた。
私がうっかり泣いてしまったのは、この、暖かさのせいだったのかもしれない。今まで、実家や親戚からこんな扱いを受けたこともなければ、小学校や中学校では魔法が使える少数派だったために自然と浮いてしまっていた。
一緒の境遇だった姉さまは死んでしまった。ただ死んだのではない。姉さまは自分の手で終わらせてしまったのだ。
以来、一人でいることが心地よいのだと自分自身に信じ込ませようとしていたのかもしれない。まだ気持ちは晴れないけれど、それでもこの島にいれば何かが変わるような気がしてくる。
その夜、消灯時間が来るまで、私たちはずっと語り合った。
桜も舞わない、梅雨もない。そんな島で、私は確かに再び息を吹き返したのだった。