障害
「何を怒っているのですか?」
アハトという男は、どうしてこんなことが言えるのか。
ネイラという個人を愚弄するようなことをしながら、何の罪悪感も覚えていないのである。
フラの男性は、女性に愛情深いものだと思っていた。
少なくとも、侍女として都で垣間見たフラの公爵とその弟は、形こそ違え彼女の主人に優しかった。
女性を利用する素振りなど、微塵も感じなかった。
「英雄の身内を娶りたいとお思いなら、祖母をご紹介しますわ。正真正銘、英雄の妻だった者で、今は未亡人ですよ」
怒りの余り、大事な祖母を引っ張り出して、アハトにあてこする。
今頃実家で、祖母はくしゃみのひとつもしているかもしれない。
「は?」
「そうそう、祖父母にはフラに兄弟がおり、子孫もおります。血縁には違いありませんから、どうぞそちらでお探しになられたらよろしいかと思います」
アハトが、何とも理解出来ない声と表情をしたことに更に腹を立て、ネイラの言葉はつぶてのように小さく速く飛び出し続けた。
「あ……ああ、なるほど」
不思議そうな顔が、少しずつ柔らかく崩れ、ついにはアハトは小さく笑い始める。
何がおかしいのか。
すっかり頭に血が昇ったネイラは、その怒りの勢いでソファから立ち上がり部屋を出て行くつもりだった。
だが、それより早く、彼は言ってしまったのだ。
「あなたが誰の孫であろうと、私は求婚するつもりでしたよ」
ネイラの動きを、簡単にピンで止めてしまうような一言だった。
ソファから浮かしかけた腰が、中途半端な体勢のまま固まる。
ぎぎぎと、何とか身体を引きあげて、ネイラは立ち上がることに成功したが、しばらく時間が必要だった。
その間中、アハトは彼女のことを見ていた。
視線は分かっていながらも、振り払うことも出来ず、ようやく高くなった視線で彼を見下ろす。
「信じられません」
彼女は、きっぱりと答えた。
今日、出会ったばかりなのだ。
たとえ、同じ人種の混血であり、親近感がわくところがあったとしても、これまで何の積み重ねもない人を、どうして手放しで信じられるのか。
ロアアールでは飛び交わない言葉を、まっすぐに投げつけられたので大きく心が揺さぶられたが、相手はフラ育ちなのだ。
歯の浮くようなフラの公爵の言葉を、ネイラは都で聞いた。
いい人が、多くの女性をほめる言葉を使うのと同じように、悪い人もまた、それを使うことが出来る。
見分ける術など、ネイラにどうしてあろうか。
「父が、母と出会った時のことを、私は子どもの頃から耳にタコが出来るほど聞かされてきました」
彼女の拒絶など何のその。
アハトは、ネイラの位置よりももっと高いところを一度見て、昔を思い出す目になった。
「軍に野菜を納めにきていた母を見て、父は一目で恋に落ち、その場で求婚しました……母は、勿論断りました。きっと、今のあなたのように断ったんでしょうね」
視線は、ネイラに戻ってくる。
断られたことなど、微塵も痛いと思っていない顔で──いや、断られることなど、前座の一つくらいにしか思っていないに違いない顔だ。
「父は、まったく諦めきれなかったので、ロアアールの軍人に彼女の家を聞き出し、すぐさま駆けつけると、母の両親を口説き倒しました」
にこり。
アハトは、言葉が言い終わる前に、ゆっくりと立ち上がった。
視線の高さが、逆転する。
この人は、何を言っているのだろうか。
非常に得体の知れない力を感じて、ネイラは一歩後ろに後ずさろうとした。
しかし、ソファから立ち上がったばかりの彼女は、下がることなど出来るはずもない。
足がひっかかり、よろけてソファに逆戻りしてしまう。
二人の間のテーブルを迂回して、アハトが近づいてくるのを、ソファに貼りついたまま見ていた。
「あなたがここを出られた後、あなたのお母様とお祖母様にお会いして来ました。お父様は、残念ながら前線に出られておいでだったので、戻られたら正式にもう一度ご挨拶に伺いますよ」
ネイラに、影が落ちる。
ソファの背もたれに手をかけて、覆いかぶさるようにアハトが自分に近づいてくるのだ。
何から考えていいのか、ネイラはまるで分からなくなってしまった。
近づいてくる彼にも驚いているし、家族に既に挨拶をしたなどという話も出るし。
一体、どこから対処したらいいのか分からずに、頭が真っ白になってしまったのだ。
固まったネイラを前に、彼はふっと微笑んで膝を折った。
そうすると、ほぼ同じほどの視線の高さになる。
ネイラに落ちていた暗い影もなくなると、心なしか彼の顔が優しく見えた。
「改めて、貴女に求婚します。私の妻になってはいただけませんか?」
少しだけほっとした彼女の心に、言葉が滑り込む。
「お、お断りします」
しかし、ネイラはこの男に、とてもついていける気がしなかった。
短い間に、多くの仕事をこなせる有能な男なのだろうが、彼女と思考の方向性が違いすぎて、何一つ理解出来る気がしなかったのだ。
それに、ネイラには結婚出来ない理由もあった。
この男と結婚するということは、フラに行かねばならない。
そんな事を、彼女が引き受けられるはずがなかった。
「私の妻になっていただけませんか?」
なのに。
アハトは、ネイラの断りを右から左に流し、改めて求婚をやり直したのである。
「お断りします……」
「私の妻になりませんか?」
言葉が、少し強い音に変わった。
いまにも、手を取られそうな気がして、ネイラは尚更余計にソファに背中を押しつける。
「わ、私はフラには行けません。ウィニーお嬢様に一生お仕えすると心に決めております」
普通の断りだと、決して引き下がる気配がないことに気づき、ネイラはついに大御所を持ちだした。
なのに。
なのに、だ。
アハトは、ふふと笑うではないか。
「そんなことは……障害でも何でもないんですよ」
息苦しい。
距離は詰まっていないというのに、彼の静かな一言一言が、ネイラの喉元に迫ってくる気がした。
「私の主であるスタファ様は、ロアアールに婿に入られるべく画策中です。その時に、私もこちらへご一緒すればいいだけのことでしょう」
そして。
アハトは簡単に──爆弾を落としたのだった。