嵐の夜に
これはホラーですね。
8 嵐の夜に
バスは重たげに車輪を鈍らせると静かに止まりました。信号が赤だったのでございました。フロントガラスに赤い雨粒が覆っております。ワイパーで拭き取ってもしつこくこびりつくように粘性があるのはシチュエーションのせいで怯えが生じていたのでございましょう。窓外はその信号の明かり以外、鬱蒼と茂った闇で雨音しか聞こえません。車内も節電のためか、暗くしておりました。
何分田舎道を行く最終バスで山の麓のバス停で止まると五六人の客が一斉に下りると、私が最後の乗客となります。そのまま私の住む集落までにバス停はあっても止まることなどございません。私はいつもは後ろの方に座っているのですが、今日に限ってはあまりに雨が激しくどことなく肌寒いので、運転席の左側の最前列に座りました。
天気予報によると大気が不安定なのは聞いておりまして、傘は持参しておいたのですが、この分ではバスを降りてから傘は役に立ちそうにもありません。ひどい土砂降りの日で、いつもは最終のバスであってももう少し外は明るいのですが、今日はどことなく闇が影っているとでも申しましょうか、霧もかかっているようで視界はようございません。稲光が時折、窓外を白く染めまして、妙に寒気がするものです。そのたびに私はびっくりするのでございます。
運転手は年配の普通の男性で独り言を呟いておりまして、それが妙にしゃがれたもので会話しようとする気にもなりませんでした。
「おかしいな。いやだねー」
そんなことを呟いているのです。私は何を疑問に思っているのかと思いましたが、黙ってバスが動き出すのを待っていました。そんな沈黙のせいか、やはりシチュエーションのためか、バスは止まったままで時間が長く感じられます。
「おかしいな」
運転手はやはり言うので、私も沈黙に耐えかねてつい聞いてみました。
「何がそんなにおかしいのですか?」
「いやねえー。ここもうこの時間は信号が点滅に変わるはずなんだけど」
前を向いたまましわがれた声で言うのです。
そういえばそうでございます。いつも黄色の点滅に変わり、バスがここで止まるはずがございません。
「確かに信号も変わりませんね。どうしたんでしょうね」
「ひどい嵐だから故障したのですかね」
運転手はそう言うとなぜかビクッとして身を硬くしました。前方を向いたまま視線の先を凝視しております。何度か稲光が空を占め、雷鳴もすぐに轟きます。どうやら雷様はバスの真上にいるようでございました。人智を超える存在には畏敬の念を抱いて止みませんが、このときばかりははやく雷様が立ち去ってくれることを私は願いました。運転手は緊張しているようで顔が強張っているのがはっきりと伺えました。私も体温が低下していくような恐れを抱いておりました。
その理由は前方を見て納得した次第でございます。稲光で視界が開けるのですが、信号の先にバス停がありまして誰かが立って降ります。昼間でもこのバス停で人を乗せたことは私の記憶ではございません。まして、この嵐の夜に乗る人なぞあるはずがございません。俯いております。傘も差さず、びしょ濡れのまま稲光のたびに頭を少しずつ上げるのがわかります。私は恐ろしゅうてございません。このまま目を合わせたくございません。運転手は冷や汗を掻いてうめき声ともとれる言葉を呟いておりますが、もはや雷鳴や雨音で聞こえません。
あの日以来、雨の降る日にバスに乗ることはございません。その後どうしたかというと急に信号が黄色の点滅に変わりまして、バスは発進したのでございます。あのまま顔を合わせていたらどうなっていたかはわかりません。運転手は職務放棄でもちろんバス停には止まりませんでした。急発進したときは心臓が止まりそうなほど驚きましたが、それは許せるものでございます。後日、運転手は他の乗客と話しておりました。私はあの日のことには触れたくございませんでしたので、黙ってバスの後部座席で座って聞いておりました。もともと幽霊の噂はございました。
その会話を聞いていて、ちょっと違うことを運転手は申しておりました。
嵐の夜、誰も乗客が乗っていないバスを運転していたと。
その時刻は点滅になるはずの信号が赤になっていたと。
会社から交通法規は守れと言われていたので、不気味に思っても我慢して止まったと。そしたら運転席の左側の方から女性の声がしたと。
怖くて脇を見れなかったと。
そして、運転手は話を締めくくるように言ったのでございました。
「たまに最終のバスを担当するだけどね……夜山の麓で客を下ろすと、最終のバス停まで誰もその時間乗る人は居ないんだよね。そのはずなのに後部座席に女性が乗っている気配があるんだよね。ミラーで確認すると確かにいる。最終のバス停に着くと消えているのだけどね」
運転手はそういいながらミラーでこちらを見ています。