水底に沈む音
魚が十匹ぐらいいたので、大きなタライの水の中に放してやったが、泳ぎもしないで沈んでいった。仕方なしに一匹づつ捕まえて、胴体を拭いてやる。うろこが取れれるという心配もないし、そういうわけで、一匹一匹水の中から床に敷いた新聞紙の上に置いたら生気が蘇る。
次は大根を洗って食卓に並べよう。一本しかないので大事にしなければ。かれこれ何十年ものの大根だろうか。色は悪くても腐るものではないし、逆に味が出ている。洗えばやはり生気が蘇った。
次は矢羽を水に浸す。人や獣を射抜くこともなかった。なぜなら羽だけしか残っていなかったから。これからも何ものも射ることのない素敵な矢だ。
次は床の上に敷かれた新聞紙の上に大量にある、それらを眺めて、ため息をついたり、ひとつひとつ手に取りながら眺め、冷たい手触りを感じては汚れをふき取る。幾年月のほこりかわからない。始めはこれでもかと力を抜かず馬鹿みたいにつやが出てくる。それでも続けているとそれらは汚くなる。やりすぎというわけだ。その不毛な所作を変更して、実際は次第に面倒臭くなって適当に作業を進める。言い方が悪いので、適度にしているということにしておこう。
これだけのものも眺め、半分あきれながら、半ばやる気を出しながら、汚れをふき取る。取り出してはタライに残り湯を入れ、まだ浸けていないそれらを再び入れておく。タライ十杯分いやもっとあったかもしれないが、数の多さはどうでもよい。大小様々、色彩もそれぞれ、透けているものもある。
それでもシツウブッショウ?らしいが……。世界には同じもなんてひとつもないという言伝はどれにも魂があるらしいことを述べているもので、邪険に扱うとどうなるというのか?
そのことを突き詰めていくと子供の頃に聞いたフレーズ「もったいないばあさんが出てくるぞ!」という戒めに通底する、もしくは派生していくものらしく、どうでもいいので要約すると「物は大事に使え」という誰が言い始めたかわからない生活の知恵だろう。
今日洗ったものは夕食時、食卓に並べると映えるものだ。漂白剤を入れて丁寧に洗った。魚や大根の箸置きも大事だ。往時の祖父時代に思いを馳せる。すぐに覚める。昔を振り返ったとしても過去のこと。大量にある皿を割れないように新聞紙やらで保護してナイロン袋に入れ、戸棚に隠したり、箱に入れて隠して、言い方が悪いので片付けて見栄えをよくし、全部収納したらほっとした。
朝やり始め、思いの他時間がかかってしまった。妙に静まった空気が廊下を満たす。正面の玄関から押し寄せるもの蒼い闇。静かに張り詰めた空間に心地よい緊張を感じた。奥の部屋も真っ暗、明かりは居間の戸から漏れるものだけ。そのひとときを名残り惜しみながら、廊下の後片付けだと身を屈め、新聞紙を整理し始める。
それが終わったらタライの水を捨て閉まって終了だ。
食器類はすべて洗った充実感に息をついたとき……、タライの方から透明な音が水に沈み込む。
……皿が一枚だけ残っていた。