歯車
まずは少し恋愛の話を。
「歯車を知っているかい?」
彼は言う。
『知ってるよ、そりゃあ』
僕は答える。
「ともすれば歯車の仕組みに関して改めて言う必要もなさそうだね」
彼は続ける。
「じゃ、別の話をしよう」
『この世界に幸せなんてあると思うか?』
僕は言う。
「ある、と言い切ることはできない」
『どうしてお前はそう言う遠回しな言い方をすることしかできないんだ』
「そうだね。じゃあちゃんと言おう。ないね」
彼は言う。
『どうしてそう思うんだ?』
「例を挙げよう」
彼は冷たい目で言う。
一組の世間に公表されたカップルがいたとしよう。
その女をまったく別の男が好きになったなら、その男は不幸だ。その少女を好きでもそれは世間からもそして当の本人からも求められないもの。
そのカップルが世間に見せつけるのをみて、男は苦しむ。
また、それを見て自分に劣等感を感じる世間の人々。
たった二人の人間によって数多くの人間が苦しむ。
その二人でさえ満たされていない。
愛がそこにあれば幸せではない。彼らはより多き愛を求める。
その愛を求めた結果、お互いがお互いを不幸の方向に向かわせる。
そしてその不幸の方向によっては、新たに幸せに向かうがゆえに、ほかの人々を不幸にする。
ことほど左様に、連鎖反応のごとく、感染症のごとく、不幸という物は連鎖していく。
そう、歯車のごとく。
「つまり、歯車っていうのはお互いの歯がお互いの歯をとかみ合わせることによって、回っている。つまりお互いを傷つけ合いながら回っているのさ」
『つまり、不幸者は不幸者同士で、お互いを傷つけているってことか』
「そういうこと」
『おもしろい意見だ。参考にするよ』
つまりこういうことだろう?
傷つくのは自由。でも自由は他人を傷つける。
誰かに『好き』と伝えるだけで満足しているのはダメだ。
その人が迷惑しているなら。
そこに僕は居ちゃダメなんだ。