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「君を愛することはない」と言われたので「奇遇ですね、私もです」と握手したら、旦那様が三日で折れました

作者: あおみどり
掲載日:2026/10/14

「君を愛することはない。だから——」


 初夜の寝室で、旦那様はそう言った。


 氷の公爵、と呼ばれている人だ。背が高くて、顔がきれいで、表情がない。燭台の明かりの中で見ると、本当に氷の彫像みたいだった。


 ——え、本当に?


 私は寝台の端から跳ね起きて、旦那様の手を両手で握った。


「奇遇ですね、私もです! 助かります!」


「……は」


「本当に助かります。正直、どうやってお願いしようかと思っていたんです。王命ですし、こちらから言い出すわけにもいかなくて」


 握った手を、ぶんぶんと上下に振る。大きな手だった。少し冷たい。


「だから……」


「はい、だから白い結婚ですね。わかります。お部屋は別、干渉はなし。ですよね?」


「いや、私が言いたかったのは——」


「大丈夫です、ちゃんとわきまえます。旦那様のお邪魔はいたしません。私、こう見えて一人遊びは得意なんです」


「待ってくれ。そうではなく」


「あ、お部屋の場所ですか? 東の端で構いません。日当たりは気にしません。物置でも平気です」


「物置には、住ませない」


「お優しい!」


 旦那様の口が少しだけ開いて、また閉じた。


 握手したままの手が固まっている。振っても振り返してこない。氷の公爵は、手まで凍っているらしい。


「……そうか」


 旦那様はそっと手を引き抜いて、一歩下がった。もう一歩下がって、扉にかかとをぶつけた。


「では。……おやすみ」


「おやすみなさいませ! 良い白い結婚を!」


 扉が閉まる。足音が遠ざかる。途中で一度止まって、また遠ざかる。


 私は寝台に大の字に倒れて、天蓋を見上げた。


 白い結婚。愛されない妻。世間ではかわいそうな言葉らしい。でも私にとっては違う。


 姉を見てきたからだ。


 二つ上の姉は、十五の頃から恋をしては泣き、恋をしては怒り、恋をしては手紙を暖炉に放り込んできた。夜中に私の部屋に来て朝まで泣く。翌週には別の人の話で笑っている。そのたびに私は寝不足になった。


 恋は疲れる。それが、私の知っている恋のすべてだった。


 この結婚には、それがない。あるのは広い屋敷と、知らない書庫と、誰にも起こされない朝だ。


「最高……」


 私は枕に顔を埋めた。


 それにしても、と思う。


 「だから」の続きは、何だったのだろう。


 ——まあ、いいか。寝よう。




 翌朝、私は昼前まで寝た。


 誰にも起こされなかった。素晴らしい。


 寝ぐせのついた頭で起き上がり、持参した帳面を開く。表紙には大きく『白い結婚でやりたいことリスト』と書いてある。嫁ぐ前の晩に、一晩かけて書いたものだ。


 一、誰にも起こされずに朝寝坊する。


 私はその行に、ぴっと線を引いた。


「奥様、おはようございます。……もうお昼ですけれど」


 侍女頭のマルトが、くすくす笑いながら洗面器を運んできた。四十がらみの、ふっくらした人だ。昨日の式では、ずっと私の裾を直してくれていた。


「おはようございます、マルト。見てください、一つ目が消えました」


「まあ。何のリストですの?」


「白い結婚でやりたいことリストです」


 マルトの手が止まった。洗面器の水が、ちゃぷんと揺れた。


「……白い、結婚で」


「はい。昨夜、旦那様が『愛することはない』とおっしゃってくださったので。次は書庫です。このお屋敷の書庫、国で二番目に広いって聞いて、ずっと楽しみにしていたんです」


 マルトは何か言いかけて、やめた。それから笑いをこらえるような顔で「ご案内いたしますわ」と言った。


 書庫は、聞いていた以上だった。


 天井まで本、本、本。梯子がいくつも。窓辺には読書用の長椅子。


「ここに住みたい……」


「お住まいでございますよ、奥様」


「そうでした!」


「マルト、あの梯子、のぼってもいいですか?」


「お気をつけくださいませ。先代の奥様は、いちばん上の段で一晩お過ごしになったことがございます」


「一晩?」


「降り方を忘れた、とおっしゃって」


「……下から二段目までにしておきます」


 降りられる高さまでしか、のぼらない。それが長生きの秘訣だ。


 私が長椅子に飛び込んだところで、書庫の扉が開いた。


 旦那様だった。


 目が合う。旦那様は入り口で止まった。


「……本か」


「本です」


「そうか」


 旦那様は棚から一冊抜き出して、表紙を見て、戻して、出ていった。


 一回目。


 次は庭でお茶をした。リストの次の行だ。薔薇の生け垣の向こうを、旦那様が通りかかった。


「……茶か」


「お茶です。旦那様も、一杯いかがですか?」


「いや。……仕事がある」


 二回目。


 その次は廊下だった。何となく振り返ると、三歩後ろに旦那様がいた。階段でも、やっぱり三歩後ろにいた。厨房の前でも会った。料理長に焼き菓子の作り方を聞いていたら、旦那様が廊下の向こうから歩いてきて、私を見て、なぜか引き返していった。


 それから、また書庫。


「……忘れ物をした」


「何をですか?」


 旦那様は棚を見回して、一番近くにあった本を取った。『家畜の病とその予防』だった。


「これだ」


「……熱心ですね」


 最後は夜。部屋へ戻る廊下で、旦那様が壁の絵を眺めていた。私が通り過ぎるまで、ずっと同じ絵だった。


 私は帳面の余白に、正の字を一つと、もう二本書き込んだ。それから、夜着を抱えて通りかかったマルトを呼び止めた。


「マルト。旦那様って、お屋敷の中を歩き回るのがご趣味なんですか?」


 マルトが足を止めた。後ろから来た執事のアンリが、穏やかな声で答えた。


「左様でございます、奥様。ごく最近始まったご趣味でございます」


「最近」


「ここ一日ほどで」


 それは本当に最近だ。


 ——旦那様は今日も偶然、だいたい私の三歩後ろにいた。七回も。




 部屋に戻ると、卓の上に小さな箱があった。


 白い紙箱に、水色のリボン。開けると、粉砂糖をまとった丸い焼き菓子が六つ、行儀よく並んでいた。箱の底には町の菓子店の焼き印がある。


 差出人の札は、どこにもない。


「マルト!」


 廊下に顔を出して呼ぶと、マルトがすぐに戻ってきてくれた。


「お菓子が置いてありました。これ、マルトですよね? ありがとうございます!」


「えっ。あ、いえ、それは……」


「隠さなくていいんです。初日で緊張しているだろうって、気を遣ってくださったんでしょう? わかります。マルトはそういう人です」


「奥様、あの、私はそういう人ではありますけれど、その箱は……」


 マルトの目が右に泳いで、左に泳いで、天井で止まった。


「その箱は?」


「……おいしく召し上がってくださいませ」


 答えになっていない。でも、照れているのだと思った。


 マルトと入れ違いに、アンリが寝る前のお茶を運んできた。念のため、聞いてみる。


「アンリ、このお菓子、マルトですよね?」


「はて」


 アンリは白い眉を少しだけ上げた。


「わたくしは何も存じません。存じませんが、奥様。もしお気に召したのでしたら、空いた箱に一筆残しておかれるとよろしいかと。差出人がどなたであれ、きっと喜びます」


「なるほど」


 焼き菓子は、さくっとほどけて、バターの香りがした。六つあったはずが、気づいたら箱の底に粉砂糖しか残っていなかった。


 私は素直に一筆書いた。


『とてもおいしかったです。ありがとうございます。わがままを言っていいなら、レモンのものも食べてみたいです』


 翌朝その箱は、卓の上から消えていた。マルトが片づけてくれたのだろう。


 ——わがまま、書きすぎたかな。




 二日目の夕方。


 書庫の長椅子でうとうとしていたら、旦那様が来た。今日はこれで五回目だ。


「夕食を、一緒にとらないか」


 旦那様は入り口に立ったまま、硬い声で言った。両手は背中で組んでいる。


「家の体面として。……使用人の手前もある。夫婦が別々に食事をしていては、示しが」


「まあ」


 私は起き上がって、にっこり笑った。


「白い結婚ですもの、お気遣いなく!」


「……」


「旦那様がおっしゃってくださったことです。私、ちゃんと守りますから。体面のために無理なさらなくて大丈夫ですよ。使用人のみなさんには、私から説明しておきます。『旦那様は私を愛していないので、ご飯は別です』って」


「いや、それは——説明しなくていい」


「そうですか?」


「しなくて、いい」


 旦那様の耳が赤くなっていた。


 書庫は少し寒い。冷えたのかもしれない。


「旦那様、お耳が赤いです。暖炉に火を入れてもらいましょうか」


「……いい。失礼する」


 旦那様は踵を返して、扉の枠に肩をぶつけて、出ていった。


 廊下の角で、アンリとマルトが顔を見合わせていた。二人そろって、ものすごく何か言いたそうな顔だった。


 その夜、私は自分の部屋でひとりで夕食をとった。料理長の鴨のローストは絶品で、おかわりは二回で止めた。えらい。


 食器を下げに来たマルトが、声をひそめた。


「奥様。旦那様、食堂に二人分の席を用意させたままでしたのよ」


「まあ。どなたか、お客様が?」


「いいえ。おひとりで召し上がって、それから……向かいの空いたお皿を、小一時間ほど眺めておいででした」


「お皿を」


「お皿を、でございます」


 ——白い結婚を言い出したの、旦那様ですよね?




 寝る支度をしながら、マルトが私の髪を梳いてくれた。


「奥様は、本当に白い結婚がお嫌じゃないんですのね」


「嫌どころか、夢みたいです」


「普通のお嬢様は、泣かれるものですけれど」


「恋って、疲れるんです。うちの姉は、恋をするたびに私の部屋に来て、私の枕で泣くんです。自分の枕じゃなくて、私の枕で」


「まあ」


「朝になると、すっきりした顔で帰っていくんです。翌週には別の方の話をしています。私の枕だけが、ずっと湿っていました」


 マルトが吹き出しかけて、櫛を止めた。


「ですから私、決めていたんです。結婚しても恋はしないって。枕は乾いているのが一番です」


「枕は乾いているのが一番」


「家訓にしたいくらいです」


 マルトは笑って、それから少しだけ真面目な顔をした。


「……旦那様のことは、どう思われます?」


「旦那様?」


 私は考えた。二日で十二回すれ違って、本を取り違えて、扉に二回ぶつかった人。


「よくわからない方です。でも」


「でも?」


「本当はお優しい方なんでしょうね。だって『愛することはない』って、最初にちゃんと言ってくださったんですもの。黙っていることもできたのに。私に期待させないように、って」


 そのとき、扉が叩かれた。


 アンリが銀の盆を持って入ってきた。盆には温めた牛乳と、小さな箱がのっている。見覚えのある水色のリボン。


「失礼いたします、奥様。こちら、お部屋の扉の前に……ええ、いつの間にか置いてございました」


「扉の前に? さっきまで、何もなかったのに」


「左様でございますね。不思議なこともあるものでございます」


 開けると、レモンのタルトだった。


「マルト! 本当に用意してくださったんですね!」


「奥様、ですから、それは……」


 マルトがアンリを見た。アンリが小さく咳払いをした。


「奥様。初夜の旦那様のお言葉、あれには続きがございました」


「『だから』の続きですか? アンリ、ご存じなんですか?」


「一字一句、存じております。式の前の晩、旦那様がわたくしを相手に練習なさいましたので。十四回ほど」


 十四回練習して、一行目で握手された人がいる。


「では、続きは」


「わたくしの口から申し上げることではございません。十四回も練習なさったものを、執事が先に言ってしまっては、さすがに旦那様がお気の毒でございます」


「……それは、そうですね」


「旦那様は、言葉が足りないお方でございます。足りるのは、五年に一度くらいでございます」


「五年に一度」


「前回は、五年前でございました」


 アンリは真顔のまま一礼した。


 私は牛乳のカップを卓に置いた。


 十四回。あの硬い声で、十四回。言いにくいことを、それでもちゃんと言おうとしてくれたのだ。それを私は握手で遮って、「良い白い結婚を!」と見送ったのか。


「旦那様、やっぱりお優しい方なんですね」


 私が言った、その瞬間だった。


 扉の向こうで、ごん、と何かがぶつかる音がした。


 アンリが、静かに目を閉じた。


「……柱でございましょう」


 ——廊下の真ん中に、柱はない。




 三日目の朝、アンリが部屋まで呼びに来た。


「旦那様が、食堂でお待ちでございます」


「私をですか?」


「左様でございます。お話があると。……昨夜から、ずっとお待ちです」


「昨夜から」


「お休みにはなられたかと。たぶん」


「たぶん」


「食堂の椅子の上で、でございますが」


「それは、お休みとは言わないのでは」


「わたくしも、そう申し上げました」


 食堂の長い卓の端に、旦那様が座っていた。目の下にうっすら隈がある。向かいの席には、もう湯気の立つスープが置いてあった。


「おはようございます、旦那様」


「……おはよう」


 私が座ると、旦那様は一枚の紙を卓に置いて、こちらへ滑らせた。


 びっしりと文字が書いてある。そのほとんどに、線が引いてあった。書いて、消して、また書いて、また消して。一晩ぶんの線だった。


 消されずに残っているのは、一番下の一行だけだった。


『撤回させてくれ』


 ——私も嫁ぐ前の晩、一晩かけてリストを書いた。でも、こんなには消さなかった。


「旦那様。消してあるところ、少し読めます。『菓子は』……」


「読まなくていい」


「『菓子は今後も』……」


「読まなくて、いい。頼む」


 旦那様は、その一行を声に出して読んだ。


「撤回させてくれ」


「はい?」


「あれは、撤回する。初夜に言ったことだ。愛することはない、というのは……撤回、したい」


 食堂の入り口で、マルトが盆を落としかけた。アンリが横から受け止めた。


 私はスプーンを置いた。


「旦那様。それは、契約違反では?」


「契約」


「白い結婚の契約です。旦那様が言い出して、私が握手しました。握手は契約の証です。祖父がそう申しておりました」


「……握手は、君が一方的に」


「一方的でも、握手は握手です」


 旦那様はぐっと詰まった。卓の上の紙を、意味もなく半分に折った。もう一度折った。小さくなった『撤回させてくれ』を、指先で押さえている。


「では、交渉したい。……交渉させて、ください」


 敬語が混じった。氷の公爵が、朝食の席で敬語を混ぜている。


 私は少し考えた。白い結婚は最高だ。それは今も変わらない。でも昨夜、十四回の練習のことを聞いてしまった。この人が空いた皿を小一時間眺めていたことも、知ってしまった。


 ここでばっさり断ったら、今夜は枕が乾いていても眠れない気がした。


「では、条件を出します」


「聞こう」


「毎晩、私の部屋にお菓子を置いてくださる方がいます。その方が誰か当てられたら、考えます」


 ちなみに答えはマルトだ。たぶん。最初に『愛することはない』と言った人が、毎晩お菓子を置いていくのは筋が通らない。我ながら公平な賭けだと思った。


 旦那様は、一拍も置かなかった。


「私だ」


「……はい?」


「私だ。菓子を置いていたのは、私だ」


 私は首をかしげた。だって、筋が通らない。


「旦那様。それは、愛することはない方のなさることでは……」


「だから、撤回したいと言っている」


 ——あ。筋が、通ってしまった。


「旦那様でございます、奥様」


 入り口から、マルトが言った。ものすごくほっとした声だった。


「……本当に?」


 私は旦那様を見た。旦那様は、テーブルクロスの一点を見つめていた。


「……一日目。君が料理長に、焼き菓子の話を聞いていただろう。町の店のものなら、好きかもしれないと思った」


「それで、どうやって」


「馬で行った。店じまいのところを、開けてもらった。……詫びに倍払った」


「レモンのタルトは」


「一軒目には、無かった」


 旦那様の声が、少し小さくなった。


「二軒目にあると聞いた。夜明け前に馬を出して、並んだ」


「並んだ」


「朝一番の窯が出るまで。……店の前で」


 アンリが入り口で、静かに付け加えた。


「町では今、公爵閣下が菓子店の行列に並んでおられたと、たいそうな評判でございます」


 ——氷の公爵が、行列の最後尾にいたらしい。




 私は、スプーンを持ったまま考えた。


 一日に七回の偶然。忘れ物の『家畜の病とその予防』。廊下でずっと眺めていた同じ絵。夜明け前の馬。行列。


 もしかして。あれ、全部。


 頬が、じわっと熱くなった。暖炉のせいではない。たぶん。


「旦那様。あの、すれ違ったのって」


「偶然だ」


「一日に七回も?」


「……九回だ。君が気づかなかった分が、二回ある」


 増えた。


「近づくつもりはなかった」


 旦那様は、テーブルクロスから目を上げないまま言った。


「愛することはないと言った以上、近づけば君の負担になる。だから、遠くから見ているだけにしようと……決めて、いたのだが」


「三歩後ろは、遠くではないと思います」


「…………そうか」


 旦那様は、深く息を吐いた。それから、ようやく顔を上げた。


「初夜に」


「はい」


「十四回、練習したと聞いただろう」


「アンリから、聞きました」


「アンリが、君の役をやった」


 入り口で、アンリが小さく頷いた。


「君は泣くか、怒るか、黙って背を向けるか、だった。十四回とも、そのどれかだった。どの君にも言えるように、練習した」


「何を、ですか」


 旦那様は、テーブルクロスの上で指を組んだ。それから、三日遅れの続きを言った。


「だから、君は自由に生きていい」


 硬い声だった。たぶん、十四回練習した声だ。


「この家に縛られなくていい。実家に帰りたければ、いつ帰ってもいい。……王命で、君には断る道がなかった。そのうえ夫に愛まで求められたら、君の息をつく場所がなくなる。それだけは、背負わせたくなかった」


 私は、卓の下で自分の指を握った。


 自由に生きていい。十四回練習されて、三日遅れで、やっと届いた。


「……握手する君は、一回もいなかった」


「すみません」


「謝らなくていい。それから君は、最後に言った。『良い白い結婚を』と」


「……言いました。元気よく」


「元気よくだった」


 旦那様は、少しだけ目を伏せた。


「自分で言い出した白い結婚を、言われた本人に、祝われた。そんな人間がいるとは思わなかった」


 そこで、旦那様は言葉を切った。ナプキンを持ち上げて、顔の下半分を隠した。拭くためではないと思う。


「廊下で、足が止まった。……あの一言で、私は、もう、だめだった」


 ——初夜に、途中で一度止まった足音。あれは、それだったのか。


 食堂の入り口で、マルトがハンカチを噛んでいた。アンリが目頭を押さえていた。料理長まで、厨房から顔を出していた。


 全員で見るのはやめてほしい。


「マルト。ハンカチ、噛まないでください」


「噛んでおりません、奥様。これは、その、歯で支えているだけでございます」


 それを噛むと言う。


 私は胸に手を当てた。心臓がうるさい。姉が夜中に私の部屋へ持ち込んでいたのとは、別の種類のうるささだった。


 白い結婚は、最高だった。


 それは本当だ。今も本当だ。


 だけど、と思う。夜明け前に馬を走らせて、行列に並んで、三歩後ろを何度も歩いてくれた人がいる白い結婚は——たぶん、もう、あまり白くない。


「わかりました」


 私は背筋を伸ばした。


「旦那様の『愛することはない』は、撤回ですね」


「……いいのか」


「はい。ただし」


 旦那様が息を止めた。


「私の『私もです』は……保留にします」


「保留」


「保留です。だって、まだ三日目ですもの。ちゃんと考えたいんです。枕を濡らさない方法で」


 旦那様は、しばらく黙っていた。それから、ほんの少しだけ口の端を動かした。氷の公爵が笑うのを、私は初めて見た。


「保留でいい。……十分だ」


 その「十分だ」があんまり嬉しそうだったので、私はなんだか落ち着かなくなった。落ち着かないので、右手を卓の上に出した。


「では、保留の契約です。握手は契約の証ですから」


 旦那様は、私の手を見た。初夜と同じ手だ。今度は両手で掴みにいかないで、置いたまま待った。


「今度は、一方的ではありませんよ」


 大きな手が、そっと重なった。それから、ちゃんと握り返してきた。


 初夜は振っても振り返してこなかった手だ。少し冷たかったはずの手が、今朝は熱い。


 いや。熱いのは、私の手のほうかもしれない。


 保留の期限は、自分でも決めていなかった。


 ——決めていないのに、なぜか短くなりそうな気がする。




 四日目。


 私はリストの続きを消しに、庭へ出た。今日は四番目、「ひとりで馬に乗る」だ。


 厩舎までの小道を歩いていると、隣に足音が並んだ。


 旦那様だった。


 三歩後ろではない。隣だ。腕が触れそうな距離を、まっすぐ前を向いて歩いている。


「旦那様。今日もお屋敷の見回りですか?」


「……散歩だ」


「ご趣味の」


「そうだ」


「リストの次は、ひとりで馬に乗る、なんですけれど」


「知っている。アンリから聞いた」


 筒抜けだった。


「ひとりで、ですよ」


「わかっている。私は乗らない」


「では?」


「……隣を、歩くだけだ。馬の」


 それはもう、ひとりで乗るとは言わないのでは。


「旦那様、それは見守りというのでは」


「散歩だ」


「馬の隣を?」


「馬の隣を散歩するのが、趣味だ」


「さっきより、ご趣味が細かくなりました」


 振り返ると、生け垣の向こうに頭が並んでいた。マルトと、アンリと、料理長だった。目が合うと、一斉に引っ込んだ。引っ込んだあとも、マルトの帽子のリボンだけが揺れていた。


 旦那様は、そちらを見もしなかった。慣れているらしい。


「……ひとつ、聞いてもいいか」


「どうぞ」


「保留の、期限は」


「決めていません」


「決めてほしい。でないと、毎朝聞きに行ってしまう」


「散歩のついでに、ですか」


「散歩のついでにだ」


 毎朝は困る。朝寝坊はリストの一番目なのだ。


 私は少し考えた。それから、隣の肩をちらりと見た。さっきから、ずっとそこにある。


 ちょうどいい期限を、思いついた。


「では、旦那様が私の三歩後ろを歩かなくなったら、にします」


「わかった」


 旦那様は、ものすごく真面目な顔で頷いた。


「直す。明日から、毎朝歩数を数える」


「毎朝」


「散歩のついでにだ」


 旦那様は前を向いたまま、真剣な顔で付け足した。


「……今、何歩だ」


 私は、隣を見上げた。


「旦那様。さっきから、ゼロ歩です」


 旦那様が足を止めた。自分の靴と、私の靴を見た。それから耳まで赤くなった。


 生け垣の向こうで、マルトの帽子のリボンが、ちぎれそうなほど揺れていた。


 ——知っていて決めました、とは、もう少しだけ黙っておく。

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