【鼻】
昔から、わたしは自分の鼻が嫌いだった。
鼻筋が低い。
横に広がる鼻腔。
少し上を向いた鼻先。
笑えば鼻の穴が目立つ気がした。
鏡を見るたび、そこだけが浮き上がる。
顔全体じゃない。鼻だけが、わたしの顔を台無しにしていると思っていた。
だから人と目を合わせられなかった。
相手の視線が鼻に集まっている気がして、話していても落ち着かない。
うなずくふりをしながら、相手の目ではなく、喉元や肩ばかり見ていた。
わたしはブスだ。
その言葉を、誰に言われたわけでもないのに、自分で自分の額に貼りつけて生きていた。
高校生のころ、クラス写真の日が嫌いだった。
笑って、と言われても笑えない。
横顔なんて最悪だった。
現像された写真を見て、わたしは家で泣いた。
「なんでこんな鼻なんだろう」
母に言うと、母は少し困った顔で笑った。
「あんた、そんなに人の鼻ばっか見て生きてるの?」
意味がわからなかった。
「見てるよ。みんな、きれいだもん」
「じゃあ今日すれ違った十人の鼻、思い出してみな」
言われて、何ひとつ思い出せなかった。
目が大きかった人。
髪が明るかった人。
声が変だった先生。
それは覚えているのに、鼻だけは誰のものも浮かばなかった。
その夜、少しだけ混乱した。
わたしは、こんなに自分の鼻を気にしているのに。
他人の鼻なんて、見てもいない。
じゃあ、みんなも――?
それでも、すぐには変われなかった。
大学に入っても、
写真では口元を隠した。
初対面の人とは斜めに立った。
好きな人ができても、近くで話すと顔を背けた。
ある日、ゼミの発表で前に立たされた。
逃げられなかった。
震える声で資料を読み、顔を上げた瞬間、十数人の視線がこちらに向いた。
終わった、と思った。
鼻を見られている。変だと思われている。笑われる。
けれど発表後、教授が言った。
「説明、すごくわかりやすかったよ」
友達は言った。
「声、通るね。聞きやすかった」
誰も、鼻の話なんてしなかった。
帰り道、駅のガラスに映る自分を見た。
いつもの顔だった。
鼻も、いつものままだった。
なのに、世界の反応だけが違っていた。
違ったんじゃない。
最初から、そうだったのだ。
みんな、わたしが思うほど、わたしの鼻に興味なんてなかった。
それから少しずつ、練習した。
コンビニで店員さんの目を見て
「ありがとうございます」と言う。
美容院で鏡越しに会話する。
職場で挨拶するとき、一秒だけ目を合わせる。
一秒が二秒になり、二秒が普通になった。
失敗もした。
目を見すぎて気まずくなったこともある。
緊張で顔が熱くなった日もある。
それでも、できた日は嬉しかった。
人と話したあと、
「鼻どうだったかな」ではなく、
「ちゃんと伝えられたな」と思える日が増えていった。
数年後、後輩の女の子がぽつりと言った。
「私、自分の顔が嫌いで……」
泣きそうな顔だった。
昔のわたしがそこにいた。
だから笑って言った。
「ねえ、今日ここに来るまでに、すれ違った人の鼻って覚えてる?」
彼女はきょとんとして、それから小さく笑った。
「……全然」
「たぶん、みんなも同じだよ」
「私もコンプレックスあってさ……」
―――
今でも、自分の鼻が大好きとは言えない。
けれど、この鼻のまま笑える。
この鼻のまま、人の目を見て話せる。
この鼻のまま、誰かを励ませる。
昔、わたしは鼻のせいで世界が狭いと思っていた。
違った。
世界を狭くしていたのは、
鼻ではなく、わたしの思い込みだった。




