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自分なりの考察

作者: 佐伯加賀夫
掲載日:2026/01/21

 


 私はこれを、生物本能から自然に生じた思考の結果だと考える。


 「自らを優れた存在とみなし、劣った存在を隔離し、排除することで共同体を守る」という発想は、一般には周囲の声を無視する一方的で誤った主張だと受け取られるだろう。だが、それは本当に完全な誤りなのだろうか。ふり返れば、同種でありながら他の民族を駆逐する行為は、歴史の中で現実に起きてきた。

 数万年前、私たちの祖先であるホモ・サピエンスは、生存競争の過程で複数の人類を絶滅に追い込んだ。ネアンデルタール人やデニソワ人など、異なる認知特性をもつ人類が存在し、ホモ・サピエンスは匂いといった差異を手がかりに、彼らの集団を襲撃したと考えられている。

 当時、明確な優生思想があったかどうかは別として、特徴の違いを理由に他の人類を排除し、結果として絶滅に至らせたという事実そのものは否定できない。現代の感覚で言えば、それは人種差別に極めて近い行為だ。そして、その争いの中で勝者となったのがホモ・サピエンスであり、その延長線上に今の私たちがいる。

 では、この出来事は単なる過去の歴史にすぎないのだろうか。私はそうは思わない。天然資源の枯渇、人口の増加、価値観の分断が進む現代社会において、生物本能に土台とした「排除の論理」は、形を変えて再び現れうる。かつてヒト属の間で起きた絶滅的な競争は、もはや異なる種同士の争いとしては再現されないだろう。

 だが、その構造だけが、人種、民族、宗教、国家といった仮の境界に置き換えられ、ホモ・サピエンス同士の内部で繰り返される可能性は否定できない。

 他者を理解しようとする努力よりも、違いを理由に切り捨てる思考が正当化されたとき、そこに理性は存在しない。残るのは、生存競争という名を借りた暴力だけだ。過去に私たちが「勝者」として生き残ったという事実は、後世の歴史家においても同じ選択が正しいことを保証してはくれない。

 むしろそれは、人類が自らを滅ぼしうるという危険な前例でもある。 もし、かつてヒト属間で起きた絶滅戦争が、今やホモ・サピエンス同士の争いとして再演されるのだとしたら、次に失われるのは「他者」ではなく、人類そのものかもしれない。

 この連鎖を断ち切れるかどうか、それこそが、現代に生きる私たちに突きつけられた問いなのだ。


 過去の亡霊は、違う顔をして再び現れようとしている。歴史は、決して同じ形では繰り返されない。けれど、その構図は、驚くほど似ている。私たちは問われている。過去を知っていて、なお、また繰り返すのか?と。



未来は、どうなるのだろうか?

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