7 祈りと風の地図
市場の中心で、叫び声と怒号が渦を巻いていた。
神官たちは「祈り不足」を責め、
川沿いの住民は「迷信だ」と反論し、
今にも誰かが手を出しそうなほど空気は張り詰めていた。
ケンサクはその間に、ゆっくりと前へ踏み出した。
「……ちょっといいですか」
かき消されそうな声だったが、
不思議と周囲は聞き取っていた。
ケンサクは続ける。
「原因を決めつける前に」
市場のざわめきが、少しだけ静まる。
「まず“被害に遭った人の顔”……
それから、“被害のあった場所”を見ましょう。
決めるのは、そのあとです」
その言葉は怒りに燃えていた空気にひんやりと落ち、
周囲の視線がケンサクに向く。
不安と苛立ちが混ざっていた住民たちの表情が、
一瞬だけだが、迷いに変わる。
通りがかった少年に声をかける。
「悪い、棒切れ貸してくれ」
「う、うん!」
借りた棒で、ケンサクは地面に大きく街の簡易地図を描きはじめた。
「まず、ここが市場。
そして、ここが川沿いの地区」
輪郭ができると、ケンサクは住民たちをぐるりと見渡した。
「市場の肉屋と、このゴミ捨て場の臭いが、川から吹く風に乗って——
一直線に川沿いの家へ流れています」
ケンサクは棒で線を描く。
「壊された家の壁は全部“風下側”。魔物は匂いを追っているだけです」
神官たちの顔が強張る。
「とくに最近は大型魔物が勇者たちに討伐されて減った分、
中型や小型の魔物が増えている。
ゴミを漁ったり、“匂いに反応するタイプ”が、ね」
住民たちのざわつきが弱まっていく。
ケンサクは、被害の出た家を棒で示す。
「……じゃあ、やっぱり祈りは関係ないってことか?」
誰かが呟く。
ケンサクは首を振った。
「祈りを否定するつもりはありません」
静かに、しかしはっきりと言う。
「ただ、“祈りで防げないものもある”というだけです」
神官たちが言葉を失う。
住民たちは互いに顔を見合わせ、
怒りの刺々しい空気は次第にほどけていった。
ケンサクはさらに続ける。
「祈りを大切にする人がいるのも分かる。
安心をくれることもあるだろうし……」
そう言いながら、リテナの言葉を思い出した。
『勇者様たちや、勇者様を支える人たちが退治してくれてるから、
最近の街道はすごく安全なの』
祈りも、勇者も、完全に無価値じゃない。
ケンサクはゆっくり住民たちを見回した。
「勇者に感謝して祈る人たちがいてもいい。
それは“間違い”じゃない。
ただ……原因を誰かの心のせいにするのは、違う」
川沿いの住民も、神官たちも、
静かに話を聞いていた。
ケンサクは最後に、地面に描かれた地図を指差す。
「今回の問題は、たまたま祈りではなく、
構造の問題だったというだけです」
沈黙が落ちる。
そして——
「……たしかに」
「風の流れ……そういうことか」
「じゃあ改善できるじゃん……!」
住民たちの納得の声があちこちで上がりはじめた。
神官は唇を震わせたが、反論の言葉は出てこない。
怒りは消え、
代わりに街をどうするかという声が生まれ始める。
ケンサクは、そっと息をついた。
そして静かに思った。
(これで……ひとまず平和になるといいけど)
“祈り”も
“現実”も、
どちらも切り捨てることなく。
ただ正しい原因を見つけただけだった。
住民たちの怒号は次第に消え、
代わりにざわざわとした安堵の声が市場に揺れ始めた。
「なるほど……風向きと……匂いか……」
「川沿いの家ばかり被害が出る理由、やっと分かった……」
「祈りがどうだって騒いで悪かった……これからは気をつけるよ」
「本当に……助かったよ、賢者……様?」
人々が深々と頭を下げてくる。
ケンサクは、気恥ずかしさと違和感が混ざったような顔で苦笑した。
(……やはり賢者というのは珍しいのか、みんな不思議そうにしているな)
緊張がほぐれた途端、どっと疲労が押し寄せ、肩が落ちる。
「棒、返さないと……」
市場の片隅で先ほどの少年を見つけ、ケンサクは駆け寄った。
「さっきは助かった。これ、ありがとう」
差し出された棒切れを見て、少年は目を丸くした。
「え、そんな……こんなもん、返さなくてもよかったのに……
律儀なんですね、賢者……? 様?」
ケンサクはそこでようやく違和感に気づく。
「……あのさ、“賢者?”ってなんでみんな不思議そうにするんだ?」
少年は気まずそうに笑った。
「あ、あの……すみません。勝手に覗いちゃって……
でも頭の上に《賢者(笑)》って書いてあったので、どういう意味かと……」
ケンサクは固まった。
(……ホタル、あいつ)
あれは冗談だと思っていたが、
どうやら本当に上書きされていたらしい。
しかもこの世界の人は「(笑)」のニュアンスを知らないので、
ただ「よく分からない奇妙な肩書き」として広まっている。
「……ありがとう。棒、ほんとに助かった」
小声で礼を言い、ケンサクはそのまま走り出した。
ホタルを探すために。
「賢者……」
少年がぽつりと呟いたが、
その小さな声は、ケンサクには届かなかった。
その頃。
川沿いの通り。
少し湿った空気をくぐり抜けるように、ホタルがひとり、ふらふらと浮いていた。
「リテナ、なんだか……あっちの水……苦そうだ!
よし、逆方向に行こう!!」
ホタルは意味不明な理屈で満足げに光り、
川とは反対側へ“ぷいっ”と飛び去ろうとしていた。
リテナが慌てて追いかける。
「ホ、ホタル様!? 待って、どこ行くの!?」
そして——
ケンサクがこの場所へ辿り着くまで、あと少しだった。




