1 森で目覚めた賢者
青年は風に頬を撫でられ、目を覚ます。
見慣れない空、森と街道の境。
記憶は曖昧で、思考は霞んでいた。
黒に近い焦げ茶の髪が風に散り、灰青の瞳がわずかに光を反射する。
その表情はまだ、“人の形”を探しているようだった。
感情も、名前も、役割も、どこか他人のもののように感じていた。
「俺は、確か……」
夢の断片のような言葉が浮かぶが、つながらない。
体を起こし、自分の手のひらをじっと見つめる。
自分の体なのに、うまく馴染んでいないような不思議な感覚だった。
「知らない風景、妙な違和感、やっぱり……」
考え込んでいた彼の耳に、焦った声が飛び込んできた。
「おい、あんた!なんでこんなところに!危ないよ!」
声の方を見ると、荷物を背負った少女が走ってくる。
陽光に金色を帯びた淡い髪。
日焼けした肌に、汗の光が走る。
その瞳には、恐怖より先に「助ける」という意志が灯っていた。
草を踏みしめるたび、生命の匂いが風に混ざった。
動き慣れた身のこなし――、その背後には灰色の狼たち。
ただの獣ではない。赤く光る瞳が、彼の知識にある狼との違いを明らかにしていた。
少女は青年に駆け寄ると、その手を掴み、そのまま引き起こす。
「逃げるよ!」
「うわっ!」
咄嗟に引かれた青年はうまく立ち上がれず、彼女の背負っていた袋に手をかけてしまう。
その拍子に袋が裂け、白い粉がふわりと舞い上がった。
「ああ! せっかくの小麦粉が!」
「すまない、バランスを崩して……」
「ううん、命には代えられない。それに、あんたを巻き込んだのはあたしだから!」
二人は走りながら言葉を交わす。
だが、背後から迫る魔物の気配がそれをかき消した。
青年の目は、風に舞う粉に釘付けになる。
(粒が細かい、乾燥してる、風向き……いける。たぶん…いや、賭けるしかない)
白い粉が狼たちの正面へ吸い込まれるように流れていく。
そして、少女の背に背負われた弓矢に視線を移す。
「君、名前は!」
「リテナ!」
「リテナ、今から言う通りにしてくれ! あの岩、見えるか!」
「え、ああ、あの灰色の?」
「そこに矢を撃って! できるだけ強く!」
リテナと名乗った少女は振り返る。
魔物との距離、石の位置、迷う時間はない。
走りながら弓に矢をあてがい、息を殺す。
「え、なんでそんな――」
「いいから、今だッ!」
リテナが振り向きざまに弓を放つ。
金属の矢じりが石に弾かれ、ぱちんと火花が散った。
次の瞬間、世界が白く閃く。
空気が爆ぜ、熱と風が同時に駆け抜けた。
「っ……!」
リテナは腕で顔をかばい、狼たちは悲鳴を上げて退く。
粉塵が風に流され、視界が戻ったとき――獣の姿はもうなかった。
「……な、なにが起きたの? まさかあんた魔法使い……?」
「いや、魔法なんかじゃない。小麦粉……いや、粒子の細かい粉は空気と混ざると燃えるんだ。火花があれば、一瞬で爆ぜる」
「そう、なんだ……そんなこと知らなかった」
「まあ、見た目の派手さほど威力はないし、上手くいく自信はなかったんだけどな」
リテナは呆然としたあと、息を吐いて笑った。
「……あんた、変わってるね。難しいことを言った割に一か八かだったなんて。
まあでも、本当に助かったよ。ありがとう」
ふたりの頭上を、灰色の風が通り抜ける。
焦げた粉の匂いと、風に混じる土の匂い。
リテナはしばらく空を見上げたまま、息を吐く。
「……怖かったけど、嬉しいな。生きてるって、ちゃんと感じる」
そして隣の青年を見て、少し笑った。
「それに、あんたも無事でよかった。巻き込んじゃったから」
「俺なら平気だ。君の方こそ、ずいぶん落ち着いてる」
「慣れてるだけだよ、あの魔物には何度か会ったことがあるからね。でも、本当は怖かったよ」
彼女は地面に散った粉を見て、肩をすくめた。
「村から小麦粉を売りに街へ行く途中だったんだ」
風にそよぐ金の髪が、夕陽を受けて柔らかく揺れる。
「勇者様が世界を平和にしたって、みんな言うんだけどね」
その言葉のあと、どこか寂しげな沈黙が落ちた。
青年は答えず、ただ遠くの森を見つめていた。
緊張の糸が切れたように、二人はその場に座り込んだ。
しばしの沈黙のあと、リテナが口を開く。
「さっきも名乗ったけど、私はリテナ。あんたは?」
「俺の名前は――」
青年は言いかけて、ふと記憶を巡らせる。
胸の奥に、白い光と声がよぎった。
――世界の外側。
――神を名乗る者。
それは、ほんの少し前のことだった。




