7 未読のまま、春が来た
春はいつの間にか来ていた。
通学路の桜並木はついこの前まで裸の枝だったのに、今では淡い桃色の霞をかぶっている。
冬の間ずっと重かった空気が嘘みたいに軽くなっていた。
スマホはもう鳴らない。
通知音のない朝は最初こそ物足りなかったけれど、いまではそれが普通になった。
それでも、ポケットに入れたままのスマホの重さはあの頃と変わらない。
たぶん、中にまだ“あの声”の温度が残っているからだ。
新学期。
教室の窓から差し込む光が机の上に細い影を落とす。
美羽が隣の席に座ってノートを開いた。
髪を少し伸ばしたらしく、風に揺れるたびに春っぽい匂いが微かに漂った。
「ねぇ、あのアプリ……もう、使ってないんだよね」
「うん」
「消したの?」
「消えたんだ。自分から」
「へぇ……そういう終わり方もあるんだね」
美羽はそれ以上何も言わなかった。
窓の外を見つめながら、小さく笑った。
「ねえ悠人。今度の文化祭、実行委員やってみない?」
「俺が?」
「うん。灯ちゃんがいたら、絶対“やりなよ”って言いそうだけど」
「……たしかに」
ふたりで笑った。
その笑い声が、久しぶりに“現実の音”として響いた。
放課後。
部室棟の裏、静かな空き教室。
夕陽が差し込んで、埃が金色に舞っている。
俺は机の上にスマホを置いてそっと画面を撫でた。
電源を入れると、真っ白なホーム画面。
アプリのアイコンはやっぱりどこにもない。
でも、壁紙だけは変えられなかった。
灯が笑っている写真。
風に髪を押さえながら、カメラに少しピースをしている。
あの日、イルカの前で撮った写真の、少し前の一枚だ。
「……なあ、灯。
結局お前、最後に何をアップデートしたんだ?」
答えはもちろん返ってこない。
でも、言葉にすることで少しだけ楽になった。
口に出すたびに、心の中の“残響”が優しく鳴る気がする。
> 『あなたの声で、私を呼んで』
あのときの声がふっとよみがえる。
指先がわずかに震えた。
それでも、もう泣かなかった。
帰り道。
春風が制服の袖を揺らす。
踏切の向こうに沈む夕陽がオレンジ色に街を染めていた。
遠くから聞こえる自転車のベル。子どもたちの笑い声。
日常がちゃんと動いている。
ポケットの中で、スマホが一瞬だけ震えた。
「……?」
画面を開く。
通知欄には見覚えのないメッセージアプリのアイコン。
送信者不明。
メッセージは一行だけ。
> 『ありがと』
それに対してリプを飛ばす。
既読はつかない。
でも、既読なんてもういらなかった。
その一言だけで十分だった。
俺は笑った。
春の風が頬をなでていく。
空を見上げると、雲の切れ間から差す光がどこか懐かしかった。
「……おはよう、灯」
風の音が少しだけ笑った気がした。
そして、もう一度だけ通知音が鳴った。
まるで春が“既読”をつけたみたいに。




