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#リプが届かない彼女。  作者: 臂りき
第7章 #リプが届かない彼氏。
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5 風の記録 ― the record of breath


 期末前の朝、風はやわらかかった。

 電車のドアが開くたび、ホームの空気が車内へ流れ込み、

 人々は無意識にひと息ずつ交換している。

 誰も気づかないけれど、それはきっと立派な挨拶だ。


 教室の黒板脇、ナギサがノートPCを立ち上げた。

「発表します。“風の記録(breath record)”プロジェクト」

 クラスの数名が「また理科室の怪しいやつ?」と笑う。

 ナギサは平然と頷いた。

「そう。怪しいけど、たぶん役に立つ。

 仕組みは簡単。

 ——世界中の“0.7秒の間”を、文字にせず保存する」

「文字にしないの?」と誰かが聞く。

「書く代わりに息で置くの。

 音でも動画でもない、空白のファイルとして」

 ナギサの指が動き、視線が僕に集まる。

「ユウトが最初の管理人。コードは私、広報はイト」

 休み時間、廊下でイトが肩を並べた。

「いい顔してる」

「夜更かしでむくんでるんだと思う」

「違う。軽くなってる」

 笑い合って、僕らは階段を降りる。

 窓の外、校庭の風が跳ねた。

 ピ……コン。

 ECHOアプリはもう動かないのに、合図はまだ届く。


  *

 放課後。理科準備室を借りて、簡易の“風置き場”を作った。

 プラ板と導線で組んだフレームの中心に、小さな透明カプセル。

 ナギサがボタンを押すと、内部の粒子がふわりと浮く。

「これが記録棚。

 ここに“届かないリプ”を置いていってもらう」

 参加希望の数名が集まってくる。

 詩を書いている子、吹奏楽の子、帰宅部。

 誰もが言えなかったひとことを胸ポケットに持っている。

「ルールは三つ」ナギサが指を三本立てる。

「宛先を書かない。

 言葉にしない。

 0.7秒を守る」

 イトが補足する。

「そして最後に、持たないで届ける」

 その言葉に、準備室の空気が少しだけ温かくなった。


 はじめはぎこちなかった。

 カプセルの前で、皆うまく黙れない。

 僕も同じだ。

 息を置く、という動詞に、まだ体が慣れない。

 けれど、二人目、三人目と続くうちに、

 粒子の踊りがゆっくり揃い, それぞれの“今日”が色を変えた。

「……ねえ、これ、音がしないのに泣ける」

 吹奏楽の子が目尻を拭き、笑う。

 イトは頷いた。

「沈黙の楽譜なんだと思う」

 ナギサが端末を覗く。

「世界地図、点が増えてる。みんなの“間”が座標を増やしてる」

 画面の上で、見えない経路が光っていく。

 オレンジ、群青、薄い翡翠。

 言葉のかわりに温度が線を引いた。


  *

 その夜。

 僕は土手へ行き、胸ポケットにしまっていた最後のメモを開いた。

 宛先のないメモ。

 何度も書こうとして、やめた言葉。

 ——それを、書かないまま置く。

 吸って、吐く。0.7秒。

 風がひとつ、頷いた。


 > (沈黙のファイル:#00001 “ありがとう”)

 > (沈黙のファイル:#00002 “ごめん”)

 > (沈黙のファイル:#00003 “またね”)


  *

 翌週、プロジェクトは学校の外へ広がった。

 商店街の軒先、古本屋のレジ横、バス停の掲示板。

 小さな“風置き場”が点々と設置され、

 誰も説明しないまま、誰もが使い方を理解した。

 人は、言えないことの置き場所をずっと探していたのだ。


 メディアが嗅ぎつけた。

 取材の申し込みに、ナギサは肩をすくめる。

「記事にしないでください。

 説明した瞬間、これは説明になってしまう」

 記者は困った顔をして帰り、

 代わりに翌日、差出人不明の空白の封筒が届いた。

 中には真っ白のカード。

 0.7秒分の沈黙が、確かに入っていた。


  *

 ある日、イトがスタジオの端末を持ってやってきた。

「見て。ミコトのログが自動でコピーされ始めてる」

 画面の中で、古い粒子の波が新しい棚に滑り込む。

「彼女の“沈黙”が、公共の棚へ移ってる」

 僕は息を呑む。

「——ありがとう、ミコト」

 言ったのは声だったけれど、

 置いたのは間だった。


 その日の放課後、

 校内放送が不意に空白になった。

 音楽とアナウンスのあいだ、きっかり0.7秒。

 誰も指摘しない。

 なのに廊下の空気が、ふっとやさしくなる。

「これ、良いバグ」ナギサが笑う。「仕様にしよう」


 翌日から、昼休みの放送には必ず一拍の沈黙が挿入された。

 それはすぐに商店街にも広がり、

 自動ドアが閉まる一拍前、風鈴が鳴らない一拍、

 世界はどこもかしこも、少しだけやさしく遅れた。


  *

 プロジェクト開始から一か月。

 “風置き場”のログは千を越え、

 地図上の座標は国境をすいすい渡り、

 知らない都市の風が僕たちの胸を撫でる。

 届かないリプは、もう“失敗”ではなくなっていた。

 それは、残すためのやり方に変わったのだ。


 夜、三人で丘に登った。

 街の灯りが、心拍のように明滅する。

 ナギサがそっと息を合わせ、

 イトが手のひらを風へ向ける。

 僕はポケットから、最初の日に握りしめていた古いイヤホン型カプセルを出した。

「終わりにして、始めよう」

 そう言って、草の上に置く。

 持たないで、届ける。

 合図のように、風が三度、やさしく吹いた。


 ピ……コン。

 ピ……コン。

 ピ……コン。


 ECHOの名はどこにもなく、

 アプリは何も記録しない。

 それでも、世界は覚えている。

 0.7秒の自由と、言えない優しさの置き場所を。


 帰り道、土手の落書きの下に

 新しい文字が増えていた。

 > after silence

 > after breath, there is always us.

 > after us, please keep the wind.

 僕は笑って、声ではなく間で返事をした。

 吸って、吐く。

 世界のどこかで、誰かが同じテンポで頷いた気がする。


  *

 翌朝、教室のドアが開く一拍前に、

 知らない誰かの沈黙が流れ込んだ。

 それは、たぶん“届かないリプ”。

 僕らは席につき、黒板の前で一拍だけ黙り、

 正しい返信を置いた。

 風が合図を残す。

 世界の温度が、微かに上がる。


 これでいい。

 これが、いい。

 ——“風の記録”は、今日も更新中だ。


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