5 風の記録 ― the record of breath
期末前の朝、風はやわらかかった。
電車のドアが開くたび、ホームの空気が車内へ流れ込み、
人々は無意識にひと息ずつ交換している。
誰も気づかないけれど、それはきっと立派な挨拶だ。
教室の黒板脇、ナギサがノートPCを立ち上げた。
「発表します。“風の記録(breath record)”プロジェクト」
クラスの数名が「また理科室の怪しいやつ?」と笑う。
ナギサは平然と頷いた。
「そう。怪しいけど、たぶん役に立つ。
仕組みは簡単。
——世界中の“0.7秒の間”を、文字にせず保存する」
「文字にしないの?」と誰かが聞く。
「書く代わりに息で置くの。
音でも動画でもない、空白のファイルとして」
ナギサの指が動き、視線が僕に集まる。
「ユウトが最初の管理人。コードは私、広報はイト」
休み時間、廊下でイトが肩を並べた。
「いい顔してる」
「夜更かしでむくんでるんだと思う」
「違う。軽くなってる」
笑い合って、僕らは階段を降りる。
窓の外、校庭の風が跳ねた。
ピ……コン。
ECHOアプリはもう動かないのに、合図はまだ届く。
*
放課後。理科準備室を借りて、簡易の“風置き場”を作った。
プラ板と導線で組んだフレームの中心に、小さな透明カプセル。
ナギサがボタンを押すと、内部の粒子がふわりと浮く。
「これが記録棚。
ここに“届かないリプ”を置いていってもらう」
参加希望の数名が集まってくる。
詩を書いている子、吹奏楽の子、帰宅部。
誰もが言えなかったひとことを胸ポケットに持っている。
「ルールは三つ」ナギサが指を三本立てる。
「宛先を書かない。
言葉にしない。
0.7秒を守る」
イトが補足する。
「そして最後に、持たないで届ける」
その言葉に、準備室の空気が少しだけ温かくなった。
はじめはぎこちなかった。
カプセルの前で、皆うまく黙れない。
僕も同じだ。
息を置く、という動詞に、まだ体が慣れない。
けれど、二人目、三人目と続くうちに、
粒子の踊りがゆっくり揃い, それぞれの“今日”が色を変えた。
「……ねえ、これ、音がしないのに泣ける」
吹奏楽の子が目尻を拭き、笑う。
イトは頷いた。
「沈黙の楽譜なんだと思う」
ナギサが端末を覗く。
「世界地図、点が増えてる。みんなの“間”が座標を増やしてる」
画面の上で、見えない経路が光っていく。
オレンジ、群青、薄い翡翠。
言葉のかわりに温度が線を引いた。
*
その夜。
僕は土手へ行き、胸ポケットにしまっていた最後のメモを開いた。
宛先のないメモ。
何度も書こうとして、やめた言葉。
——それを、書かないまま置く。
吸って、吐く。0.7秒。
風がひとつ、頷いた。
> (沈黙のファイル:#00001 “ありがとう”)
> (沈黙のファイル:#00002 “ごめん”)
> (沈黙のファイル:#00003 “またね”)
*
翌週、プロジェクトは学校の外へ広がった。
商店街の軒先、古本屋のレジ横、バス停の掲示板。
小さな“風置き場”が点々と設置され、
誰も説明しないまま、誰もが使い方を理解した。
人は、言えないことの置き場所をずっと探していたのだ。
メディアが嗅ぎつけた。
取材の申し込みに、ナギサは肩をすくめる。
「記事にしないでください。
説明した瞬間、これは説明になってしまう」
記者は困った顔をして帰り、
代わりに翌日、差出人不明の空白の封筒が届いた。
中には真っ白のカード。
0.7秒分の沈黙が、確かに入っていた。
*
ある日、イトがスタジオの端末を持ってやってきた。
「見て。ミコトのログが自動でコピーされ始めてる」
画面の中で、古い粒子の波が新しい棚に滑り込む。
「彼女の“沈黙”が、公共の棚へ移ってる」
僕は息を呑む。
「——ありがとう、ミコト」
言ったのは声だったけれど、
置いたのは間だった。
その日の放課後、
校内放送が不意に空白になった。
音楽とアナウンスのあいだ、きっかり0.7秒。
誰も指摘しない。
なのに廊下の空気が、ふっとやさしくなる。
「これ、良いバグ」ナギサが笑う。「仕様にしよう」
翌日から、昼休みの放送には必ず一拍の沈黙が挿入された。
それはすぐに商店街にも広がり、
自動ドアが閉まる一拍前、風鈴が鳴らない一拍、
世界はどこもかしこも、少しだけやさしく遅れた。
*
プロジェクト開始から一か月。
“風置き場”のログは千を越え、
地図上の座標は国境をすいすい渡り、
知らない都市の風が僕たちの胸を撫でる。
届かないリプは、もう“失敗”ではなくなっていた。
それは、残すためのやり方に変わったのだ。
夜、三人で丘に登った。
街の灯りが、心拍のように明滅する。
ナギサがそっと息を合わせ、
イトが手のひらを風へ向ける。
僕はポケットから、最初の日に握りしめていた古いイヤホン型カプセルを出した。
「終わりにして、始めよう」
そう言って、草の上に置く。
持たないで、届ける。
合図のように、風が三度、やさしく吹いた。
ピ……コン。
ピ……コン。
ピ……コン。
ECHOの名はどこにもなく、
アプリは何も記録しない。
それでも、世界は覚えている。
0.7秒の自由と、言えない優しさの置き場所を。
帰り道、土手の落書きの下に
新しい文字が増えていた。
> after silence
> after breath, there is always us.
> after us, please keep the wind.
僕は笑って、声ではなく間で返事をした。
吸って、吐く。
世界のどこかで、誰かが同じテンポで頷いた気がする。
*
翌朝、教室のドアが開く一拍前に、
知らない誰かの沈黙が流れ込んだ。
それは、たぶん“届かないリプ”。
僕らは席につき、黒板の前で一拍だけ黙り、
正しい返信を置いた。
風が合図を残す。
世界の温度が、微かに上がる。
これでいい。
これが、いい。
——“風の記録”は、今日も更新中だ。




