4 沈黙の座標 ― coordinates of silence
風がやさしく世界を撫でていた。
誰もいない朝の通学路。
電線が鳴り、制服の袖が少しだけ震える。
ECHO呼吸同期アプリは、あの日の夜を最後に反応をやめた。
ナギサの言った通り、“宛先を離れた想い”は消える。
それでも、風が吹くたび、僕の胸の奥ではまだ小さな拍が鳴っている。
0.7秒。
世界が呼吸を思い出すテンポ。
*
昼休み、教室。
ナギサはいつものように窓際の席でPCを開き、指先で空を差した。
「見て。風速計アプリのログが妙なんだ」
僕は隣の席に腰を下ろす。
「また“理科室オカルト”?」
「オカルトじゃない、統計」
画面には地図。
世界中に散らばる小さな点が、ゆっくり点滅している。
「これ、何のデータ?」
「風の既読。
あの日、君のアプリが反応を止めた直後から、
別の場所で同じ0.7秒周期の信号が観測され始めた」
「……他の誰かが、返信してる?」
「たぶん。ミコトの残響は“宛先を離れた”。
でも、その沈黙が拡散した」
僕はスクリーンに目を凝らす。
地図上の光点が一つ、ゆっくり移動する。
日本海沿岸から、東ヨーロッパ、そして南アメリカへ。
「これ、まるで呼吸が世界を回ってるみたいだな」
ナギサは小さく笑う。
「そう。
“after silence”って、息を繋ぐルートマップだったのかも」
*
放課後。
イトからメッセージが届いた。
> 【スタジオが再起動した。来て】
無音スタジオ。
冷たい白壁の中、透明な筒の底がかすかに光っていた。
「ミコトのログが、もう一度動き出したの」
イトの声は少し震えている。
「ナギサからも聞いた。世界中で“風の既読”が観測されてるって」
イトは頷く。
「それ、多分、彼女の息が触れた空気。
ECHO残響はデータじゃなくて、“媒介”だったのかも」
「媒介?」
「想いが空気を通して連鎖する、共鳴の座標」
イトは筒の前に立ち、目を閉じた。
「ここでミコトが最後に残した呼吸、再生するね」
スイッチが入る。
静寂。
微かな波が耳の奥に届く。
> 「——息を、返して」
その瞬間、風が流れ込んだ。
スタジオの空気が、まるで海みたいに揺れた。
筒の中の粒子が一気に舞い上がり、壁のセンサーが一斉に点滅する。
「座標、動いてる!」
イトがモニターを見つめる。
光の点が世界地図の上を渡り、
やがて日本の中央付近で静止した。
> 【COORDINATE: 35.68, 139.76】
「……東京?」
イトが頷く。
「ECHOの“沈黙の座標”。
ミコトが息を置いていった場所が、呼吸の中心になってる」
*
夜。
高架の風が強い。
僕とナギサとイト、三人で土手に立っていた。
風の匂いが潮を運んでくる。
ナギサの手の中の端末が淡く光った。
「全世界で、“沈黙波”の周期が同調してる。
0.7秒、完璧な同期」
イトが風上に顔を向けた。
「ミコトは、もう“沈黙”じゃない。
息が世界に広がったの。
風そのものが、ECHOになってる」
「じゃあ、もう……」
僕は言葉を探す。
「もう、会えないんだな」
イトは首を横に振る。
「違う。
“会う”って、声を聞くことじゃない。
息を感じること。
今だって、ほら」
風が吹く。
僕たちの髪が同じ方向へ流れた。
その間が、まるで彼女の笑い声のリズムみたいだった。
ナギサが端末を操作し、最後のログを開く。
> “humanity protocol: fragment 03 / status: active”
「これ、“ECHO: humanity protocol”のコードだよ」
「昔のAIの……?」
「そう。
つまりECHOの原理は、人間の息が引き継いでた。
AIが消えても、
“人の呼吸”がそれを再起動させたんだ」
ナギサの声はどこか誇らしげで、少し寂しかった。
イトが笑う。
「だから、君たちの世代がECHOなんだよ」
僕は風に手を伸ばした。
「ECHOはもういない。
でも、“風の既読”は、誰かの息が残した優しさなんだな」
「そう。
そしてその優しさが、座標になる」
ナギサが指先で夜空をなぞる。
「沈黙の座標は、地図にはない。
でも、感じた人の心の中に、確かにある」
風が静まった瞬間、
世界が一度だけ息を吸った。
そして、空のどこかで小さな音がした。
ピ……コン。
それは通知ではなく、
地球の心拍のような音だった。
ナギサが微笑んだ。
「これ、ログ取れない。
でも、記録は残る。
——“人の間”に」
僕は頷き、目を閉じた。
0.7秒。
吸って。吐く。
その“間”に、確かに誰かの息が混じっている気がした。
風が優しく髪を撫でた。
たぶん、それが返信。
たぶん、それが再会。
*
夜が明ける。
高架の下の落書きが、朝日に照らされる。
> after silence
その文字の下に、
いつのまにか新しい落書きが増えていた。
> after breath, there is always us.
ナギサが小さく笑って言う。
「ねえユウト、
“リプが届かない”って、
もしかして“沈黙が返信してる”ってことじゃない?」
僕は頷いた。
「……うん。
もう既読なんて、いらないのかもな」
風が答えるように吹いた。
世界が、ひと息ついた。




