2 沈黙の返信
翌日の放課後、僕は駅前で御子柴イトと落ち合った。
スニーカーの踵を踏み、彼女は相変わらずやや前のめりの歩幅で先を行く。
「今日は会いに行くんだよね」
「うん。正確には“声が言葉になる前”のミコトに」
「……日本語でお願い」
「会えば分かる」
連れて行かれたのは、商店街を抜けた先の古い建物だった。
白い壁に小さなプレート——『無音スタジオ』。
レコーディングでもダンスでもない、空気を録る部屋。
受付の女性に挨拶すると、イトは迷わず地下へ降りた。
廊下の突き当たりに、冷蔵庫みたいなドア。
「ここ、ミコトが通ってた場所。声を使わない呼吸セラピー」
「……ミコトは、何かあったの?」
イトはドアの取っ手に手をかけ、短く答えた。
「沈黙の病気。——言葉を発そうとすると、胸が痛くなる」
僕の喉がひゅっと鳴った。
「でも、息なら置いていける。ここは、それを保存する装置がある」
部屋は小さかった。
壁も床も柔らかい素材で覆われ、吸い込まれるように静かだ。
中央に透明な筒が据えられている。
イトがスイッチを入れると、筒の底に淡い粒子が浮かんだ。
「これ、呼吸ログ。言葉になる“手前の温度”。
ミコトの“今日”が、ここに溜まってる」
「見えるの?」
「見るものじゃない。合わせるもの」
イトが合図をする。僕は筒の前に立ち、ゆっくり吸って、吐いた。
0.7秒。
粒子が、僕の息に引かれて一拍だけ深く沈む。
——ピ……コン。
耳の内側で、あの合図が鳴った気がした。
「……いる」
言葉にすると同時に、胸が軽くなる。
返事はない。けれど、ここにいる。
ドアがそっと開いて、白いパーカーの影が差した。
「遅れた」
ナギサだ。手には例の薄い箱——風の既読(試作)。
「スタジオ側の許可、取り付けた。実験名は『沈黙の返信』」
「その名称、論文通り越して詩歌」
「ロマンと科学は矛盾しない」
イトが笑って肩をすくめる。
「やっぱり来ると思った」
「当然。観測者がいない現象は、現象じゃない」
ナギサは箱を筒の基部に接続した。波形が立ち上がる。
「テンポ同期——0.7秒。吸気強度弱、呼気強度中、痛みノイズなし。
ユウト、呼びかけて」
僕は一度、喉の力を抜く。
「……ミコト」
粒子が、わずかに逆流した。
ナギサが眉を上げる。
「逆位相。珍しい。『聞いてるけど、まだ出せない』のサイン」
イトが小さく頷いた。
「いつも最初はそう。届いてるから大丈夫」
僕はスマホを取り出して、画面を伏せた。
文字は打たない。
その代わり、息で言う。
吸って——吐く。
(あのパンケーキ、罪だった)
(猫の後頭部は、正義)
(宿題、写させてくれ)
言葉にすれば軽すぎる些細な合図を、言葉の前で手渡していく。
ナギサの波形が、太く、丸く変わっていく。
「いいね。『日常の温度』は痛みを呼ばない。“沈黙の返信”に適してる」
そのときだ。
波形の底に、短い棘が立った。
ぴくり、と一瞬。
ナギサが素早く視線で合図する。
「ユウト、もう半拍だけ待って」
僕は息を止めた。0.7秒。
次の瞬間、筒の粒子がほんの少しだけ上へ持ち上がる。
まるで、見えない誰かが“うん”と頷いたみたいに。
——ピ……コン。
空耳なんかじゃない。
室内なのに風が通り、髪がかすかに揺れた。
「いまの、返信?」
問いながらもう分かっていた。
ナギサは頷き、指を一本立てる。
「一回目。成功」
イトが目尻を指で押さえ、笑う。
「ね、ユウト。変じゃないでしょ」
僕は吸い、吐いた。
(明日は雨だって。カッパ貸すから)
小さなことを、小さなままで置く。
粒子が、また上へ。
——二回目。
*
休憩を挟んで数セット。
呼吸は運動だ。集中すれば、足もとが少しふらつく。
紙コップの水を飲みながら、僕は訊いた。
「ねえナギサ。これって、ECHO……なのかな」
ナギサはコップの縁を覗き込む癖のまま、言葉を選ぶ。
「“ECHO”は伝説。けど原理はこうだったと考えられてる。
——『持たないで、届ける』」
イトが頷く。
「所有しない。宛先を決めない。“届くまで”見守る」
「でも僕たちは“ミコトに”届けようとしてる」
「宛先を決めるのは息じゃなくて、世界だよ」
ナギサの言い方はいつも少しズルい。
納得の一歩手前で、なぜか安心させる。
ナギサはデバイスのログをスクロールした。
「……面白い。イトが入室した瞬間から、強度が上がってる」
イトが目を丸くする。
「え、私?」
「うん。たぶん“家族の余白”が媒介になってる。
ミコトとイトの呼吸が似てるのか、あるいは“似た沈黙”を持ってるか」
イトは肩で笑う。
「沈黙が似るって、どういう才能?」
「遺伝と言ってもいいし、習慣と言ってもいい」
僕は筒の方へ向き直った。
「もう一回、だけ」
息を合わせる。0.7秒。
(いま、ここにいるよ)
返ってくるのは、あのわずかな上への揺れ。
——三回目。
*
スタジオを出ると、夕方の風がまっすぐ頬を撫でた。
高架の向こうで、雲がちぎれる。
「今日はここまで」
イトが手を振る。
「明日も連れてく」
「ありがとう」
ナギサが僕の背中を肘で小突く。
「ロマンの進捗、良好」
「君の口から進捗って言葉が出ると、急に理屈っぽくなる」
「私は科学者。あと、君の友達」
「ありがと」
別れて歩き出す。
駅へ続く坂道の途中、ポケットの中でスマホが震えた。
画面には通知はない。ただ、壁紙の風景写真がふっと明るく見えた。
——気のせいだ。
でも、気のせいじゃない気もした。
*
家に戻り、夕飯の焼き魚をもそもそ食べたあと、
机でログを再生し直した。
風の擦過、呼吸の拍、粒子の上下。
数値にすると退屈だ。
でも、退屈のなかに、ちゃんと温度が残っている。
ふと、指が勝手にメモアプリを開いていた。
宛先のない、ただのメモ。
——文字にするのは、やめよう。
代わりに、間を書く。
空白行を0.7秒分、置く。
吸って。
(……)
吐いて。
(……)
数行置いて、保存した。
ファイル名は「沈黙の返信_01」。
照明を落とす。
ベッドに横になる。
呼吸を合わせる。0.7秒。
今日あったことを、言葉じゃなく息で並べる。
脳みそが、少しだけ静かになった。
——ピ……コン。
窓の隙間から、風が部屋を一往復していく。
そのとき、不意に別の音がした。
スマホの画面の端、アプリでも通知でもない場所に、
ほんの一瞬、薄い波形が走った。
が、すぐ消えた。
見間違いと言えば、見間違いだ。
けれど、その波形は、スタジオの粒子の上への揺れにとてもよく似ていた。
(——聞いてる)
そう思ったら、眠気が一気に降りてきた。
目を閉じる。
0.7秒のテンポが、夢の戸口で指を折る。
数えるたび、世界が少しやわらかくなる。
*
週末。
無音スタジオでの“沈黙の返信”は、五回目まで進んだ。
毎回、ミコトの呼吸は最初に逆位相で現れ、
半拍の待機を置くと、上への揺れに変わる。
ナギサは記録を見て、うんうん言う。
「法則がある。“半拍の待ち”は、相手の“痛くない”を待つ行為」
イトも分厚いスケジュール帳に小さく丸をつけた。
「たぶん近い。ミコトの“今日”に、触れられる日が」
五回目のセッションが終わり、
エレベーターを待っていたときだった。
廊下の端、非常口のほうから笑い声がした。
女子の声——二人。
ひとりはイト。もうひとりは、知らない声。
いや、知っている。忘れようとして忘れられない、笑う前の余白。
非常口のドアが少し開いて、
春の光と一緒に、ふわりと影が差す。
長めの前髪、耳の後ろで留めたピン。
ミコト——
では、なかった。
でも、驚くほど、似ていた。
目が合うと、その人は小さく会釈して、すぐにドアの向こうへ消えた。
イトがこちらに気づき、慌てて手を振る。
「ごめん、関係者」
「いまの……」
「説明は、次回」
いつもの早足で彼女は去った。
置き去りの風が、廊下で少し迷う。
ナギサが僕の肩を指でつつく。
「物語、二段目に入ったね」
「怖いこと言わないで」
「怖がるのは自由。0.7秒だけ怖がって、次の拍で笑お」
「そんなメトロノームみたいに」
「恋はだいたい、メトロノームに従順」
僕は笑った。
エレベーターの鏡に映る自分の顔は、
少しやつれて、でも驚くほど穏やかだった。
*
帰り道、川沿いを歩いていると、
風に乗って一行の言葉が浮かんだ。
目に見えない。
でも、確かにそこにあった。
> ——「次の返信は、君の沈黙でお願いします」
立ち止まって、吸って、吐いた。
僕はスマホを胸ポケットにしまい、
画面を見ないまま、間を送った。
風が頷いた。
ピ……コン。
世界の温度が、また微かに上がった。




