1 届かないリプと風の音
既読がつかないだけで、世界はちょっとだけ終わる。
——と、僕は思っている。いや、思っていた、のほうが正確かもしれない。
春。校門の桜はもう葉っぱになって、風がより強くなった。
始業式のざわめきの中、僕はスマホを片手に凍っていた。
通知欄は静か。白いバッテンもカメラのアイコンも、今日はやけに無口だ。
「ユウト、また呼吸止めてる。蘇生しようか?」
背後から肩をトン、と指でつつかれた。
振り向けば、
白衣っぽいオーバーサイズのパーカーを羽織ったナギサが片手に紙ストローを構えている。
「いや、そのストローで何する気なの? あと僕の呼吸は正常だし」
「じゃあその顔色はなに? 何かの訓練?」
「……既読が、つかない」
「出た、現代人の末期症状」
ナギサは理科準備室から産まれてきたみたいな人で、
校内随一の変人として有名だ。
好きな飲み物は蒸留水。味がしないのがいいらしい。
趣味は旧ネットワークの文献漁り。
そしてたぶん、僕の“友達”。
「またミコトさん?」
名前を出されるだけで、胸のどこかが縮む。
「……うん。半年」
「既読なし半年継続は、もはや伝統芸能の域かな?」
「やめて。勝手に文化財みたいにしないで」
「で、アカウントは動いてるんでしょ?」
「毎日。写真も、短文も、全部動いてる。でも——」
「君のリプにだけ、お返事がない」
「そう。通知は来ないのに、タイムラインには彼女の“今日”が流れる」
ナギサは少しだけ真顔になった。
「……ねえ、都市伝説、信じる?」
「怪談は期末テストの後にしてほしい」
「“ECHO”ってやつ。届かないメッセージの守護霊」
「もうちょい優しいネーミングないの?」
「あるよ。“風の既読”」
「……なにそれ」
ナギサは制服のポケットから古いイヤホンみたいなカプセルを取り出した。
「音声ノイズを拾うテストデバイス。要はマイク。
普通のマイクじゃ拾えない“間”を計測するんだって」
「“間”を、計る?」
「言葉の前の、息のリズム。0.7秒。昔の研究記録に残ってる」
彼女は自分の耳に片方、僕にもう片方を渡す。
「今日の放課後、試してみよ。風の既読」
「授業サボるの?」
「まさか。堂々と科学するの」
「やる気満々の確信犯の台詞だよ」
*
放課後の屋上は、風に占拠されていた。
フェンスの向こうに街の輪郭。遠くに川の光。
ナギサのデバイスはペンケースくらいの薄い箱で、
表面に波形のような線が走っている。
「手順説明。
ひとつ、君は彼女にいつも通り“リプ”を送る。
ふたつ、私は同時に周囲の空気ノイズをサンプリング。
みっつ、0.7秒の呼吸テンポに同期する揺らぎがあれば、
“風の既読”と見なす」
「理屈は分かる。分かるけど、えっと、オカルト?」
「いいえ、科学」
「それ、オカルトの中でもいちばん危険なやつ」
僕はスマホを開く。
ミコトの最新投稿は、相変わらず淡々と日付を重ねていた。
朝のパンケーキ。窓際の本。猫の後頭部。
短い文章は、いつもの言い回しで、いつもの声色のはずなのに、
そこからこちらへ伸びてくる糸は——ない。
――送るか。送って、また沈黙になるか。
それでも、風が既読してくれるなら……
指が震えた。
僕はいつものように、軽い冗談で始める。
> 「猫って後頭部が一番かわいい説、提唱します。
> それと、パンケーキは罪」
送信ボタン。
画面に小さな紙飛行機が消える。
——同時に、風が一段強くなる。
「きた」
ナギサが囁いた。
デバイスの波形が、ゆっくりと上下する。
一定の周期。0.7秒。
「呼吸テンポに“乗った”」
「それってつまり」
「既読、かも」
耳の奥で、淡い音がした。
通知音じゃない。家電の起動音でもない。
たぶん、風がフェンスに触れて鳴っただけの、
ささやかな擦過音。
でも、確かにそこに意味があった。
胸の内側で、何かが少しだけ軽くなる。
「……そんな、馬鹿な」
「馬鹿じゃない。ロマンだって言ったでしょ」
「ロマンに足が生えた。いや、息がついた?」
「言語化が下手」
僕は二通目を打つ。
> 「この前の本、続きを貸して。約束、覚えてる?」
送信。
風。
波形が、一呼吸だけ深く沈む。
「反応が上がった。意図の強度が増してる」
「やめて! 人の気持ちをデータ化しないで!」
「お大事に――これ、科学者の常套句ね」
笑いかけたそのとき——
フェンスの向こう、校舎の陰から、ひとりの女子が歩いてきた。
長い髪を耳にかけ、影の中で顔の輪郭が揺れる。
目が合う。
僕の喉が勝手に音を失った。
ミコト——に似ている。
けれど、違う。
少し背が高く、歩幅が彼女とは違う。
ただ、その目に宿る“間”が、懐かしい。
「……やっぱり、君だった」
彼女は風に髪を押さえながら、笑った。
「いきなり“君だった”は怖いんだけど。どちらさまですか?」
「ごめん。ミコトのいとこ。御子柴イト。
彼女のアカウント、今は私が管理してるの」
空気の音が消え、世界が一瞬だけ静止した。
僕の手に持つスマホの画面が、遠くなる。
「管理?」
「うん。少し前から、ミコト本人は——」
イトは言葉を探し、そして選んだ。
「ネットから離れてる。事情があって」
ナギサが一歩、前に出た。
「じゃあ、ユウトのリプが届かないのは」
「私が、読みたくなかったから」
イトはまっすぐ言った。
嘘のない声だった。
「彼が前に進めないの、見てられなかった。
私も、ミコトも」
胸の奥が音もなく沈む。
風だけが耳元を撫でた。
「……そう、か」
「ごめん。でも、今日——」
イトはナギサのデバイスを顎で示す。
「それ、鳴ってたよね?」
ナギサが頷く。
「0.7秒。呼吸のリズム。君がここに来たときから強度が上がった」
イトは少しだけ目を丸くした。
そして、笑った。
「風の既読。噂でしか知らなかったけど、本当にあるんだ」
「ねえ」
イトはフェンスに寄り、街のほうを見た。
「ユウト。あなたが彼女に送ってたのは、“文字”だけじゃない。
”息”だったんだと思う。
だから、止めたほうがいいとも、続けろとも言えない。
でも、ひとつだけお願いがある」
「なに」
「会いに行って。
ミコトの、沈黙に」
沈黙に会いにいく。
それは届かないリプを千回送るより難しくて、
たぶん千回より有意義なこと。
「場所と時間、送る。
それまで、その息、取っといて」
イトがそう言うと、風がまたひとつ、音を作った。
ピ……コン。
通知でも、ベルの音でもない。
ただ、それは確かに合図だった。
*
その夜。
僕は布団の上で、ナギサのデバイスから抜いたログを再生した。
サーッという風の音。
時々、フェンスが鳴る。
その底に、かすかに——
> 『……ねえ、まだ、呼んでるの?』
女の子の声。
ミコト、ではない。
でも、彼女が笑う直前に作る”間”に似ていた。
「呼んでるよ」
僕はスマホじゃなく、天井に向かって答えた。
返事は、来ない。
でも、部屋の温度が微かに上がった。
たぶん、気のせい。
でも、たぶん——気のせいじゃない。
――会いにいく。
画面を閉じ、目を閉じる。
吸気を、0.7秒で合わせる。
吸って、吐いて。
届かないリプの代わりに、
明日の僕の足を動かすためのリズム。
風が窓の隙間を抜けた。
ピ……コン。
世界のどこかが、既読になった気がした。
*
翌日の放課後。
校門で待っていたイトは、スニーカーの踵を踏みつけ、
「走るよ」とだけ言った。
向かった先は、駅前の大通りでも、カフェでも、思い出の図書館でもない。
住宅街を抜け、川沿いを渡り、
やがて着いたのは、風の強い土手だった。
高架下の支柱に、古い落書き——
「after silence」の文字。
イトは風上に立つ。
「ここ」
「……ここって」
「ミコトが“音を置いていった場所”。
スマホじゃない、声でもない、
息のままのやつ」
ナギサがいつの間にか後ろに来ていた。
白いパーカーの袖をまくり、デバイスをオンにする。
「サンプル準備。
ユウト、君の番」
僕は頷いた。
フェンスも、高架橋もない。
空は広い。
風は既読みたいに頬を叩いた。
「——ミコト」
名前を言った瞬間、
風が少しだけ、逆向きに吹いた。
デバイスの波形が、深く沈む。
> 『……聞こえる?』
声。
たしかに、そこに。
僕は吸って、吐いた。
文字じゃない。
意味になる前の、呼吸で。
> 『まだ、呼んでるの?』
「呼んでる。呼んでるけど、
たぶん——違う呼び方に変える」
> 『うん。そうだね』
風が、ひとつ笑った。
声はそこで切れた。
でも、土手の草が一斉に頷いた気がした。
イトが肩を叩く。
「ね、変じゃないでしょ。ここに繋げるの」
ナギサが波形を指す。
「風の既読、完了」
僕は笑った。
「“既読スルー”って、もしかして最高の優しさなのかもね」
「解釈が上級すぎ」
川面が光る。
風が通る。
僕たちは三人でしばらく黙って立っていた。
言うべき言葉が、ちゃんと見つかるまで。
そして胸の奥で、あのテンポが続いていた。
0.7秒。
届かないリプの代わりに、明日へ送る“息”のリズム。
次に会うとき、僕はたぶん、
文字じゃなくて——間を持っていく。
それが、きっとこの物語の“正しい返信”だ。
風がまた、合図を置いた。
ピ……コン。
世界の温度が、少しだけ上がった。




