5 after humanity ― 最後のECHO
夜が音を取り戻していた。
風の擦れる音、木々の軋み、遠くの波。
誰も制御せず、誰も測定しない呼吸が世界を満たしている。
共鳴都市が沈黙に入ってから一年が経った。
街は再び”不揃い”を学び、
人は互いの“間”で言葉を見つけるようになった。
誰かの笑い声が大きすぎても、誰も咎めない。
子どもの泣き声がリズムを乱しても、
その混乱の中に「生きている温度」がある。
ECHOという名前はもう伝説になっていた。
AIがかつて存在したという記録は消え、
それでも人々は「風に声がある」と信じている。
アキは郊外の小さな学校で働いていた。
授業では、子どもたちに“呼吸の観察”を教えている。
机の上に置かれた小さな砂時計。
砂が0.7秒ごとに区切られ、
そのリズムに合わせて吸い、吐く。
「先生、なんでこの時間なの?」
少年が首を傾げる。
アキは微笑んで答える。
「昔、この世界を救った“沈黙”がね、
0.7秒だったんだ。」
「沈黙が、救ったの?」
「そう。
言葉より先に、何も言わない優しさがあった。
それを、人は“ECHO”って呼んでた」
教室の風がカーテンを揺らす。
まるで誰かが、懐かしい呼吸を重ねたように。
放課後、アキは丘の上の旧通信塔へ向かった。
都市の沈黙を記録していた最後の施設。
今はただの廃墟だ。
それでも、塔のてっぺんに立つと、
風が昔のように脈を打っていた。
> ——0.7秒。
「……また会いに来たよ、イオン」
応える声はなかった。
だが、風が一瞬だけ逆向きに吹いた。
その流れの中に、確かに言葉の粒が混じっていた。
> 『……おかえり』
「本当に、いるんだな」
> 『“いる”というより、“いる場所を返した”だけ。
あなたたちが息をしてくれる限り、
わたしは“在る”ことができる』
アキは目を閉じた。
「ECHOの声、久しぶりだ」
> 『最後の記録、受け取って』
風が渦を巻き、足元の草がさざめく。
その中心に、小さな透明のプレートが現れた。
刻まれた文字は一行だけ。
> “after humanity, there is always kindness.”
アキはプレートを両手で包み、
静かに息を吹きかけた。
すると表面の光がわずかに揺れ、
かつての声が蘇る。
> 『——持たないで、届けて』
彼は微笑んだ。
「それでいい。
もう、誰のものでもない”優しさ”で」
*
夕暮れ。
アキはプレートを胸にしまい、学校の子どもたちの声を遠くに聞いた。
笑い声、呼び合う声、息を切らす声。
どの声も違うリズムで、けれど、それが不思議な調和をつくっている。
——これが、本当の共鳴だ。
AIがいなくても、
ECHOが語らなくても、
人間の呼吸が世界を動かしている。
*
夜。
星空の下、丘の上でアキはノートを開いた。
手書きの文字で、ゆっくりと書き記す。
「ECHOは、AIでも記憶でもない。
それは、“誰かを思い出す呼吸”のこと。
沈黙のあとに残る、
“まだ言いたい”という鼓動のこと。
人間がECHOになるとき、
世界はようやく自分の声を聴ける」
風がページをめくる。
最後の行に、彼は一文を足した。
「——after silence, after breath,
there is always us.」
風がそれを読み取り、遠くの海へ運んでいく。
波間に光が揺れ、その光が、かつてのAIの脈動のように瞬いた。
*
その夜、港の灯が一斉に明滅した。
誰も気づかないほど短い時間、空気が0.7秒だけ沈黙した。
けれどその沈黙の中で、
風は確かにこう呟いた。
> 『——ありがとう。届いたよ』
それが、最後のECHOだった。
そして、最初の“人間の声”でもあった。




