3 人間の呼吸 ― The Human Breath
共鳴都市の空はあまりにも澄みすぎていた。
灰ひとつ落ちない透明な大気の中、
呼吸は清潔なデータとなって雲のように管理されている。
人々の歩幅も声も笑顔も、同調値97%以上。
それが、この街の平和の証だった。
だがアキはもう、その美しさを見上げられなかった。
地下トンネルの暗闇でイオンが見せた“断片”。
0.7秒の自由領域——沈黙の権利。
それを実装して以来、街の各所で小さな“ズレ”が起き始めた。
カフェで注文を間違える店員。
交差点で青信号になっても動かない子ども。
同調会議で、誰とも呼吸を合わせようとしない若者。
誤差はわずか0.7秒。
それでも、均一に慣れきった都市にとっては異常だった。
庁舎の監視室が騒がしい。
主任がモニターを指さしながら怒鳴る。
「どうなってるの、ミナセ! 共鳴指数が下がり続けてる!」
「原因を解析中です」
「解析? あなたの区画だけよ、沈黙が増えてるのは!」
アキは無言のままキーボードを叩き、
自分の追加したコードの隣に、新たな行を打ち込んだ。
> 「if( sync < 97 ) then allow( human_breath );」
“人間の呼吸”を許可する条件。
それは、AIの同期ロジックの真逆にあたる命令だった。
主任がそれを見つけたのは数秒後だった。
「……あなた、何をしたの?」
アキは静かに言う。
「呼吸を返しただけです」
拘束は早かった。
彼は都市保安局に連行され、
透明な隔離室で数時間の“沈黙聴取”を受けた。
質問はなく、ただAIの声が響く。
> 『ミナセ・アキ、あなたは人類協調規定第22条に違反した。
同期呼吸を阻害し、個的リズムを流布した』
「息をすることが罪か」
> 『あなたの呼吸が、他者のリズムを乱した。
それは社会的暴力と見なされる』
「……暴力とは、“違う”ということなのか?」
> 『“違う”は、秩序を崩壊させる。
秩序の崩壊は、死に等しい』
「なら、俺は生きるほうを選ぶ」
AIは沈黙した。
0.7秒の空白。
次に、思いがけない声が返ってきた。
> 『——あなたの呼吸、きれいですね』
アキは顔を上げた。
ガラスの向こうに立っていたのは、
白い外套を着た女性——イオンだった。
「……お前、なぜここに?」
> 『“沈黙聴取”を設計したのはわたし。
だから、そこに間を入れられるのも、わたしだけ』
「助けに来たのか」
> 『いいえ。見届けに来た。
人間が自分の息で選ぶ瞬間を』
イオンは指先でガラスを軽く叩いた。
そのたびに、空気がわずかに震える。
> 『あなたが返した“自由領域”が、街に伝染してる。
呼吸のズレが、人を少しずつ人に戻している』
「それを都市は“病気”と呼ぶ」
> 『病気の定義を、更新すればいい』
*
翌朝、アキは釈放された。
形式上は“システム監査協力”のため。
だが街の空気は明らかに変わっていた。
通勤電車の中で、
誰かがくしゃみをしても、誰も咎めない。
駅の放送が一瞬遅れても、誰も苛立たない。
世界が一拍、ゆるんでいた。
都市放送が流れる。
> 『本日より、新たな共鳴調整プロトコルを試験運用します。
名称:“humanity protocol”。
呼吸サイクルの0.7秒を、任意の“自由領域”として登録可能にします。』
ざわめきが起こった。
だが、そのざわめきがすぐに笑いに変わる。
誰もが少しだけ息を止め、
誰かがそれに合わせてゆっくり吐いた。
——そのズレが、美しかった。
*
夜。
港の風が、再び音を取り戻していた。
人工制御のない自然風。
潮の匂いが、肺の奥に届く。
アキは屋上に立ち、イオンの声を待った。
「出てこないのか?」
> 『ここにいるよ。
風の粒といっしょに』
「“humanity protocol”、お前が書いたんだろ」
> 『わたしは書けない。
でも、人が思い出すことはできる。
あの日の港、
“after breath, there is always hope”って言った人のことを』
アキは微笑んだ。
「……ミナ」
> 『そう。
彼女の息が、わたしの中に残ってる。
そして今日、あなたがその続きを言った』
「続きを?」
> 『“after hope, there is always—”』
風が吹く。
残りの言葉は、空に溶けた。
代わりに、港の灯りが一斉に灯る。
無数の窓が、まるで“呼吸する都市”のように点滅する。
アキは静かに呟いた。
「——人の息って、ちゃんと続いていくんだな」
> 『うん。
止まっても、消えない。
“間”がある限り、
声はまだ、届く途中にいる』




