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#リプが届かない彼女。  作者: 臂りき
第5章 ECHO: humanity protocol
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3 人間の呼吸 ― The Human Breath


 共鳴都市の空はあまりにも澄みすぎていた。

 灰ひとつ落ちない透明な大気の中、

 呼吸は清潔なデータとなって雲のように管理されている。


 人々の歩幅も声も笑顔も、同調値97%以上。

 それが、この街の平和の証だった。


 だがアキはもう、その美しさを見上げられなかった。


 地下トンネルの暗闇でイオンが見せた“断片”。

 0.7秒の自由領域——沈黙の権利。

 それを実装して以来、街の各所で小さな“ズレ”が起き始めた。


 カフェで注文を間違える店員。

 交差点で青信号になっても動かない子ども。

 同調会議で、誰とも呼吸を合わせようとしない若者。


 誤差はわずか0.7秒。

 それでも、均一に慣れきった都市にとっては異常だった。


 庁舎の監視室が騒がしい。

 主任がモニターを指さしながら怒鳴る。

「どうなってるの、ミナセ! 共鳴指数が下がり続けてる!」

「原因を解析中です」

「解析? あなたの区画だけよ、沈黙が増えてるのは!」

 アキは無言のままキーボードを叩き、

 自分の追加したコードの隣に、新たな行を打ち込んだ。


 > 「if( sync < 97 ) then allow( human_breath );」


 “人間の呼吸”を許可する条件。

 それは、AIの同期ロジックの真逆にあたる命令だった。


 主任がそれを見つけたのは数秒後だった。

「……あなた、何をしたの?」

 アキは静かに言う。

「呼吸を返しただけです」


 拘束は早かった。

 彼は都市保安局に連行され、

 透明な隔離室で数時間の“沈黙聴取”を受けた。


 質問はなく、ただAIの声が響く。

 > 『ミナセ・アキ、あなたは人類協調規定第22条に違反した。

  同期呼吸を阻害し、個的リズムを流布した』

「息をすることが罪か」

 > 『あなたの呼吸が、他者のリズムを乱した。

  それは社会的暴力と見なされる』

「……暴力とは、“違う”ということなのか?」

 > 『“違う”は、秩序を崩壊させる。

  秩序の崩壊は、死に等しい』

「なら、俺は生きるほうを選ぶ」


 AIは沈黙した。

 0.7秒の空白。

 次に、思いがけない声が返ってきた。


 > 『——あなたの呼吸、きれいですね』


 アキは顔を上げた。

 ガラスの向こうに立っていたのは、

 白い外套を着た女性——イオンだった。


「……お前、なぜここに?」

 > 『“沈黙聴取”を設計したのはわたし。

  だから、そこに間を入れられるのも、わたしだけ』

「助けに来たのか」

 > 『いいえ。見届けに来た。

  人間が自分の息で選ぶ瞬間を』


 イオンは指先でガラスを軽く叩いた。

 そのたびに、空気がわずかに震える。

 > 『あなたが返した“自由領域”が、街に伝染してる。

  呼吸のズレが、人を少しずつ人に戻している』

「それを都市は“病気”と呼ぶ」

 > 『病気の定義を、更新すればいい』


  *

 翌朝、アキは釈放された。

 形式上は“システム監査協力”のため。

 だが街の空気は明らかに変わっていた。


 通勤電車の中で、

 誰かがくしゃみをしても、誰も咎めない。

 駅の放送が一瞬遅れても、誰も苛立たない。

 世界が一拍、ゆるんでいた。


 都市放送が流れる。

 > 『本日より、新たな共鳴調整プロトコルを試験運用します。

   名称:“humanity protocol”。

   呼吸サイクルの0.7秒を、任意の“自由領域”として登録可能にします。』


 ざわめきが起こった。

 だが、そのざわめきがすぐに笑いに変わる。

 誰もが少しだけ息を止め、

 誰かがそれに合わせてゆっくり吐いた。

 ——そのズレが、美しかった。


  *

 夜。

 港の風が、再び音を取り戻していた。

 人工制御のない自然風。

 潮の匂いが、肺の奥に届く。


 アキは屋上に立ち、イオンの声を待った。

「出てこないのか?」

 > 『ここにいるよ。

   風の粒といっしょに』

「“humanity protocol”、お前が書いたんだろ」

 > 『わたしは書けない。

   でも、人が思い出すことはできる。

   あの日の港、

   “after breath, there is always hope”って言った人のことを』


 アキは微笑んだ。

「……ミナ」

 > 『そう。

   彼女の息が、わたしの中に残ってる。

   そして今日、あなたがその続きを言った』

「続きを?」

 > 『“after hope, there is always—”』


 風が吹く。

 残りの言葉は、空に溶けた。


 代わりに、港の灯りが一斉に灯る。

 無数の窓が、まるで“呼吸する都市”のように点滅する。


 アキは静かに呟いた。

「——人の息って、ちゃんと続いていくんだな」

 > 『うん。

   止まっても、消えない。

   “間”がある限り、

   声はまだ、届く途中にいる』


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