2 収蔵規則 ― 持たないで届ける
朝の港は霧に包まれていた。
霧の中では音の輪郭が丸くなり、街全体が呼吸しているように見える。
ブレス・アーカイブの鉄扉を押し開けると、昨日の少女――ミナがすでに掃除をしていた。
モップの動きが、静かで規則的だ。
「早いな」
カイが言うと、ミナは振り返らずに答えた。
「夜が、ぜんぜん静かじゃなくて」
「港の風か?」
「ちがう。頭の中で、何かがしゃべってた」
「夢じゃなく?」
「夢より、ちゃんと聴こえる」
彼女はモップを立てかけ、胸ポケットから小さな録音端末を取り出した。
再生すると、微かな風の音の奥に低い声が混じっている。
> 『——届ける、けど、持たないで』
カイは目を細めた。
「“収蔵規則”の文言だな」
「規則?」
「ここにログを残すときのルールだ。持たないで届ける。
つまり、誰のものでもないまま保存する」
ミナは首を傾げた。
「そんなこと、できるの?」
「やってる。ずっと昔から」
カイは端末を受け取り、波形を解析する。
再生時間はわずか3.4秒。
だが、最後の0.7秒だけが奇妙に濃い。
言葉ではなく、誰かの息を預かった瞬間の濃度。
「この声、どこで拾った?」
「駅のホーム。昨日の“ありがとう”の近くだと思う」
「……そうか」
壁の時計が八時を打つ。
カイは白い作業服に袖を通し、手袋を嵌めた。
「今日から正式に実習だ。まずは“息の棚”の整頓から」
「了解」
地下の収蔵室は温度を一定に保つための静かな冷気で満ちている。
両脇の棚には無数の薄いガラスプレートが並び、
それぞれに短いラベルが貼られていた。
> 『ただいま』
> 『まってて』
> 『もういいよ』
> 『まだいる?』
文字は印字されているわけではない。
呼吸の振動を、光子で封じ込めたもの。
プレートの表面に指を滑らせると、微かに空気が震える。
ミナは息を呑んだ。
「全部……息?」
「言葉になる前の声、だな。
誰かが言いたかったけど、言わなかった。
あるいは、届く前に消えた」
ミナは棚の一枚を取り上げ、額の前で見つめた。
中で小さな粒子が泳ぐ。
「これ、温かい」
「人が“聞こう”とすると温度が出るんだ」
「生きてるみたい」
「“生きてる”と言ってもいい」
カイは隣の棚を整理しながら言った。
「アーカイブでは、息を“持たない”ことが最優先だ。
記録者がそれを“所有”した瞬間に、息は意味を失う」
「でも、持たないで届けるなんて……。
どうやって?」
カイは笑った。
「それを覚えるのが、君の仕事だ」
昼を過ぎるころ、外の霧が晴れた。
港の鐘が一度だけ鳴り、窓の外に陽が差す。
ミナはカウンターの前でノートを開いていた。
「質問していい?」
「どうぞ」
「息って、全部“誰か”のものなんでしょ?
それを“持たない”って、裏切りじゃないの?」
カイは少し考え込んだ。
「いい質問だな。
……息は、出た瞬間に世界のものになる。
風と同じだ。
“誰か”から出ても、“誰か”に届くとは限らない。
だから、“持たない”のは裏切りじゃなくて、”自由”なんだ」
ミナはペンを置き、静かに頷いた。
「自由、か。じゃあ——届けるって?」
「届くまで、見守ること」
「届いたら?」
「その時は、静かに黙る」
その会話の最中、端末が短く震えた。
画面に新しい通知。
> “外部観測局より:呼吸ログ『風:laugh_ux02』再出現”
カイの表情が一瞬だけ固まる。
「……またか」
「なに?」
「昔のログだよ。
“風”はECHO系列の最初期。
この世界の“呼吸ネット”が生まれたときの最初の息」
ミナの目が丸くなる。
「それ、見れるの?」
「見るだけなら」
彼は端末を切り替え、投影モードにした。
壁一面に、群青の波形が浮かび上がる。
波が打ち寄せるように、0.7秒ごとの拍動。
中心に一行の文字。
> “after silence, there is always a breath.”
ミナは小さく呟いた。
「……きれい」
「だろう?」
「これ、誰が言ったの?」
「誰か、だよ。
でももう、“誰の声”だったかは分からない」
「持たないで、届けたんだ」
カイは頷いた。
「その通り。だから、今でも届く」
*
夕刻。
アーカイブの屋上で、カイとミナは潮風を受けていた。
西の空に沈む陽が港の水面を照らし、
街中のガラス窓が順に淡く光っていく。
「カイ」
「ん?」
「私、あの“風”の続きを聴ける気がする」
「続き?」
「“after silence”の、“next”の部分。
誰かがまだ言ってない言葉が、ここにある気がする」
カイは風の音に耳を澄ませた。
「……そう感じるなら、それを拾え。
でも、持たないで、な」
「うん」
ミナは深く息を吸い込み、
港の方へゆっくりと吐き出した。
彼女の吐息が風に溶け、
どこか遠くの受信機が、微かに反応する。
> “intake signal detected : origin tag [Mina-α] / status : active”
> “note : new breath pattern – awaiting classification.”
ブレス・アーカイブの奥、
自動収蔵装置の棚がひとつだけ静かに動いた。
ラベルのないプレートが挿入される。
“Mina-α-0001 / 呼吸ログ:next.”
カイはその音を聞きながら、静かに目を閉じた。
——after silence, there is always a breath.
そして、その次の息が、確かにここから始まった。




