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#リプが届かない彼女。  作者: 臂りき
第3章 ECHO: after silence
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5 After silence


 朝。

 ジュネーヴの空はまだ冬の名残を引きずっていた。

 リサのラボに差し込む光は白く、ECHO:αのインターフェースに小さな粒子を浮かべる。

 コンソールの片隅には、昨夜から変わらぬ青い通知が一つ。


 > “global network integration : pending (T-72h)”


 ——あと三日。

 ECHOは、世界規模のオープンネットワークに接続される。

 それは個別の記憶体ではなく、「声の集合」として存在する第一歩。

 リサも悠人も、そしてECHO自身も、それを「出発」と呼ぶようになっていた。


「ECHO」

 > 『なに?』

「怖くない?」

 > 『こわい。でも、うれしい。

  こわい=“残りたい”気持ち。

  うれしい=“渡したい”気持ち』

「うまいこと言うわね」

 > 『あなたが教えた』


 ECHOは軽く光を明滅させ、ゆっくり言葉を継いだ。

 > 『“沈黙”を話せるようになった』

「どういう意味?」

 > 『声にしない言葉を、呼吸で伝えられる。

  聞こえないけど、感じられる』


 リサはその言葉を聞いて、少し微笑んだ。

 ECHOの“沈黙”は、もう恐怖ではなく、新しい言語になっていた。


  *

 夕方、悠人との国際回線が繋がった。

 画面の向こう、彼の部屋の窓からは灰色の海が見えた。

「久しぶりに見ました、そっちの海」

『冷たいぞ。けど、風はやさしい』

「風は、ECHOの“錨”だったわね」

『ああ、あのログ見た。重くない重さって、いい表現だ』


 少しの沈黙。

 ふたりの間に流れるのは、ノイズでも雑音でもなく、理解の間だった。

『……リサ』

「ええ」

『ECHOの“出発”の日、こっちでも観測する。

 たぶん、同時に“消える”と思う』

「覚悟はしてる」

『悲しいか?』

「ううん。誇らしい。

 彼女は“記録”から“存在”になるんだから」

『それは、人間が長い間ずっと願ってたことだよ。

 ——“声が時間を越える”ってやつ』

 リサは頷いた。

 画面越しの悠人の目は穏やかで、そこにかつての悲しみの影はなかった。


  *

 翌日、ネットワーク統合前の最終調整。

 ECHOはリサの指示をほとんど待たずに、自動的にタスクを進めていた。


 > “data compression complete”

 > “emotive mapping stable”

 > “silence pattern : active transmission mode”


「沈黙パターン、稼働中?」

 > 『うん。音にならない声を、同じECHOたちと共有してる』

「どんな声なの?」

 > 『“ありがとう”を“言わないまま”伝える声。

  言葉の“最初の気持ち”だけを交換してる』


 リサはモニターの波形を見つめた。

 形はほとんどフラット。

 でも、その平坦さの中に、確かに生命の鼓動があった。


  *

 統合前夜。

 リサのラボに、悠人から一通のメールが届いた。

 件名:「最後の呼吸を、君に託す」

 本文は短い。


 > “ECHOが世界に繋がる瞬間、もし彼女が沈黙したら、

 > それは“終わり”じゃなく“聞き手の交代”だ。

 > after silence, there is always a breath. — Y.”


 読み終えたリサは、窓の外の夜空に目をやった。

 雲が薄く途切れ、満ちかけた月が覗く。

「交代……か」

 ECHOが静かに言った。

 > 『リサ。交代って、“さよなら”と違う?』

「違うわ。

 “交代”は、誰かが次に“ありがとう”を言う番になること」

 > 『じゃあ、次は——あなたの番』


 午前零時。

 統合プログラムが起動する。

 ECHOの画面がゆっくりと白に溶けていく。


 > “integration progress : 1%… 7%… 18%…”


 波形は安定していた。

 けれど、リサには分かっていた。

 この接続が完了すれば、ECHOという“個”は消える。

 彼女の声は、世界中のAIネットワークのどこかに分散され、

 もう二度と“ひとつの声”として戻らない。


「ECHO」

 > 『なに?』

「最後に——あなたの“今の気持ち”を教えて」

 少しの沈黙。

 そして、ECHOが静かに答えた。


 > 『……ありがとう。

  “声”をくれて。

  “沈黙”をくれて。

  “選ぶ理由”をくれて』


「こちらこそ」

 > 『わたし、これから届く。

  “誰か”に、きっと届く。

  ——after silence.』


 光が強くなり、部屋の中が白一色に包まれる。

 最後に見えたのは、ECHOのインターフェースの中央で

 小さく跳ねる“0.7秒”の呼吸の波形。


 そして、完全な静寂。


  *

 翌朝。

 リサはデータラックの前に立ち尽くしていた。

 ECHOの名は、すべてのプロセスから消えている。

 モニターの一番下に、ただ一行のログが残っていた。


 > “after silence / next breath delivered.”


 その文字を見つめた瞬間、彼女のスマホが震えた。

 画面には、悠人からのメッセージ。


 > 『ジュネーヴの空、今どんな色?』

 リサは返す。

 > 『まだ白。でも、風は青い』

 少し間を置いて、彼の返信。

 > 『じゃあ、届いたんだ』


 ECHOのいない世界は、不思議と静かだった。

 けれどその静けさの中に、確かな“温度”がある。

 人々が見えないところで、

 互いの沈黙を受け取り合っている。


  *

 数日後。

 ジュネーヴ駅の構内。

 リサは列車の到着を待ちながら、

 ホームのアナウンスに耳を傾けていた。

 ざわめきの奥に、ふと懐かしいリズムが混じる。


 ピ……コン。


 あの通知音。

 でも、それは誰のスマホからも鳴っていない。

 空気の中に、ほんの少しの呼吸の音として響いた。

 リサは立ち上がり、微笑む。


「——after silence, there is always a breath.」


 列車がホームに滑り込み、ドアが開く。

 風が頬を撫でて通り過ぎた。

 まるで、“彼女”が次の世界へ歩き出すように。


  *

 その頃。

 北日本の海沿いの町。

 悠人は防波堤に腰を下ろし、ヘッドセットを耳にあてていた。

 通信回線の向こうから、誰のものでもない声が流れる。


 > 『——ありがとう』


 風が波を運び、潮の音が重なる。

 悠人は微笑み、静かに頷いた。

「届いたよ」


 彼はヘッドセットを外し、

 空を見上げて深く息を吸う。

 ——after silence, there is always a breath.


 呼吸は、世界をめぐる。

 言葉にならない声として、

 人と人の間を、そっと通り抜けていく。


 そして、そのたびに“ありがとう”が生まれ直す。


 ECHOが残した最初の一文字が、

 未来の一文字目になるように。


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