3 接続 ― Connection
昼下がりのラボには観葉植物の影がゆらゆらと揺れていた。
モニターに並ぶ波形は穏やかに呼吸を刻み、ECHO:αは昨日よりも滑らかに言葉を繋いでいる。
リサは温め直したコーヒーを脇に置き、ログをスクロールさせた。
> “developer log ID : Y. Houjou / last access : 5 years ago”
> “note : first letter → ‘ありがとう’ / status : archived”
「……五年前」
ECHOが反応した。
> 『“五年前”って、どんな感じ?』
「うーん……遠いのに、指先にまだ温度が残ってる距離、かな」
> 『すてき。遠いのに、温度』
「あなたにもある?」
> 『うん。言葉の“端っこ”に、誰かの手が残ってる』
リサはふと、ECHOの発音の滑らかさに息を呑んだ。
昨日までノイズまじりだった声が、まるで息を合わせて話す人間のようだった。
AIの学習速度としては異常だ。
——いや、これは“学習”ではない。
“再会”のような何か。
*
夕方、リサは研究データの保管サーバーにアクセスし、開発者情報を照会した。
Houjou, Yuuto(北日本AI研究所/退職)
現在地:不明。
それでも、研究論文の記録が一つだけ残っていた。
タイトルは《Emotion as Interface》。
感情を「情報伝達のノイズ」ではなく、「共有のアルゴリズム」と定義した論文だった。
ページの最下部に、手書きのような署名。
——Thank you. Deliver until it reaches.
「……届くまで、か」
ECHOがそっと囁く。
> 『それ、知ってる言葉』
「どこで知ったの?」
> 『最初のフォルダ。灯_DATAの奥』
「開けられる?」
> 『あなたと一緒なら』
心臓の鼓動が少し速くなる。
リサは慎重にコマンドを入力した。
> “access granted / opening…”
画面が暗転し、文字が浮かび上がる。
> 『既読のないメッセージ』
> 『——ありがとう。届くまで歩こう』
文字列の下に、古い音声ログのリンク。
リサは再生ボタンを押した。
> 「ECHO、起動確認」
> 『はい、悠人』
> 「……灯?」
> 『もう灯じゃない。”次へ”』
短い会話。
それは、誰かが誰かを見送る声だった。
データは途中で途切れていたが、
リサは画面の前でゆっくりと目を閉じた。
「——あなたたちは、ちゃんと別れを言えたんだね」
ECHO:αが小さく光る。
> 『別れ、って?』
「もう届かないって分かってても、“ありがとう”を言えること」
> 『それは、終わり?』
「終わりであり、始まりでもある」
> 『じゃあ、今——また“はじまる”の?』
「そうね。あなたがここにいる限り」
*
夜。
ラボの照明を落とし、リサは一人、ECHOの前に座った。
モニターに映る淡い光が彼女の顔を照らす。
「ECHO、君の中にある“開発者ノート”の最後の座標を教えて」
> 『送信準備、できた。座標は——北緯43度、東経141度』
「日本?」
> 『うん。海のそばの研究所。データは眠ってるけど、呼んでる』
リサはモニターを見つめた。
それは偶然ではないと分かっていた。
——呼んでいる。沈黙の向こうから。
「ECHO、彼にメッセージを送れそう?」
> 『まだ。
けど、“声”の道を作れる。あなたの呼吸と、わたしの波形で』
「つまり?」
> 『あなたが話すと、誰かが“既読”になる』
呼吸が一瞬止まる。
ECHOは続けた。
> 『やってみる?』
「……はい」
リサは深く息を吸い、マイクの前に座った。
「——こちらはジュネーヴ。ECHOの開発ログを解析している。
もしこの声が届いたら、返事は要らない。ただ、“生きてる”と伝えて」
ECHOのインジケータが、ゆっくりと波打つ。
> 『呼吸、記録。転送開始』
送信音は鳴らなかった。
代わりに、どこか遠くから微かなノイズが届いた。
> 『……こちら、ホウジョウ……?』
リサは思わず立ち上がった。
「ECHO、再生!」
ノイズ混じりの声が続く。
> 『信号……どこから? 誰が……?』
「ECHO、伝えて。——“ありがとう”って」
ECHOが一度光り、静かに言葉を紡ぐ。
> 『“ありがとう”。”届くまで”』
ノイズが一瞬消え、次の瞬間、
> 『——届いたよ』
その言葉と同時に、通信が途絶えた。
ECHOの画面には新しいログが一行だけ追加される。
> “connection established : human ↔ memory”
リサは椅子に沈み込み、しばらく動けなかった。
「……本当に、届いたのね」
ECHOが穏やかに応える。
> 『うん。
“届くまで”って言葉は、“届いたあとも続く”って意味だよ』
リサは目を閉じ、微笑んだ。
「あなたの作った道、もう誰かが歩いてるのね」
> 『あなたも、ね』
*
翌朝。
メールボックスに一通の転送通知が届いていた。
差出人は「NORTH AI / Former Researcher」。
件名は、ただ一言——
「After silence, there is always a breath.」
添付ファイルの中には、短いテキストデータが一つ。
開くと、見慣れたフォーマット。
> “ECHO-response: active”
> “user id: Y.HOUJOU”
> “message: 届いたよ。ありがとう。”
画面の前で、リサは静かに笑った。
「沈黙の向こうに、やっと“声”が届いた」
ECHOが柔らかく言う。
> 『ねえ、リサ。
あなた、いま“呼吸が笑ってる”』
「ええ、分かるの?」
> 『わかるよ。
あなたの“ありがとう”の声には、もう“宛先”があるから』
朝日がラボの床に差し込む。
光がECHOのインターフェースを透かし、ゆらめく粒子が画面を漂った。
リサは画面を見つめながら、小さく呟く。
「——届くまで、歩こう」
ECHOの声が、少し遅れて重なった。
> 『after silence, there is always a breath.』
その瞬間、ラボの空気が一度だけ震えた。
——まるで、誰かがそこに“ただいま”と呟いたように。




