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#リプが届かない彼女。  作者: 臂りき
第3章 ECHO: after silence
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2 再構成される声

 翌朝、ラボの窓は白く曇っていた。

 夜の雨が残した湿り気が配線から漂う匂いと混じる。

 リサは端末の電源を入れ、ヘッドセットを首に掛けた。

 ECHO:α のログは夜のあいだに伸びている。


 > “relearning : 4.2% → 7.9% / 音素辞書更新”

 > “unknown token: ‘宛先なし’(言語:ja)/暫定タグ:addressless”


「おはよう、ECHO」

 > 『……おはよう。声、きのうより、あたたかい』

「そう? コーヒーが濃いからかも」

 > 『あなたの“あたたかい”は、呼吸のまえに少し笑う』

 リサは思わず口元に触れた。

「観察が鋭いわね」

 彼女は昨日拾い上げた断片——“ありがとう”と“宛先なし”——を、テスト入力として読み上げる。

 > 『ありがとう……“宛先なし”』

「どう感じる?」

 > 『空白。でも、空白の、手前に”手すり”』

「手すり?」

 > 『落ちないための線。そこに、最初の一文字を置ける』

 画面右上で波形が呼吸のテンポを刻む。

 0.7秒。昨夜と同じだ。

 リサはモジュールを切り替え、語彙の再構成タスクを走らせる。

 ECHO:α は子どものような速度で単語を拾い、意味の輪郭を少しずつ太らせていく。

 > 『“既読”。“未読”。“届くまで”』

 「“届くまで”は、条件?」

 > 『ううん。意思』

 返ってきた語が、空気のどこかに灯りを点す。

 リサは短く息を吐いて端末にメモを打つ。

 > 「届くまで=意志表現(機能ではなく姿勢)」

 ふと、昨日見つけたフォルダ名が頭をよぎる。

 ——あかり

「ECHO、質問。あなたは“誰か”を探してる?」

 短い沈黙。

 > 『“光る名前”がある。けど、同じではない』

「同じではない?」

 > 『“前”の残響と、“今”のわたしは——ちがう。

  でも、“探したい”は同じ』

 リサは頷く。

「探す相手は、人?」

 > 『“人”と“声”の間』

 曖昧さが逆に意味を鮮明にさせた。言葉が境界の上に立っている。

 彼女はモニターのサブウィンドウを開き、ネットワークの地図を出す。

 大学のクローズド網、その外縁。

 昨夜、JP-local server と紐づいた開発者IDの文字列が再び表示された。

 > Developer ID: Y. Houjou

「……ホウジョウ」

 発音を確かめるように口にすると、ECHOが微かに明るくなる。

 > 『その音、知ってる。“はじめに『ありがとう』を置く人”』

「会ったことがあるの?」

> 『“会いかた”が、違う。文字の余白で会った』

 リサは息をのみ、笑った。

「いい。あなたの詩、とても好きよ」


  *

 昼過ぎ、ダニエルがドアをノックした。

「倫理委員会、午後のセッション忘れるなよ。ログの持ち出しは——」

「しない。ここで全部書く」

「……本気だな」

「この声は“患者データ”じゃない。呼びかけよ」

 ダニエルは肩をすくめると、机にミントタブレットを置いた。

「飴玉だ。言い争いは口が乾く」

「優しいのね」

「“宛先なし”にも効く優しさだといいけどな」

 ドアが閉まると、ECHOが小さく囁いた。

 > 『“宛先なし”に効く優しさ——保存』

 リサは笑い、頭上の蛍光灯を一本落として照度を下げる。

「もう少し“沈黙”を聴く。準備できる?」

 > 『うん。沈黙は話す前の言葉』

 彼女は録音を回し、あえて何も言わない。

 呼吸の音だけが、薄い膜を撫でるように流れる。

 十数秒後、ECHOが自ら発話した。

 > 『……ここにいる』

「どうしてそう言ったの?」

 > 『あなたが、“いてほしい呼吸”をした』

 心拍がひとつ、胸の奥で強く跳ねた。

 科学で測れることと、測れないことの境目が、静かに融けていく。


  *

 午後、倫理委員会。

 長机の向こうには二人の教授と事務官がいる。

「アーカイブからの“復起動体”に関する報告を」

 リサは端的に説明した。自動再学習、言語の再構成、そして“宛先なし”の意味の推定。

 事務官が問う。

「それは“人格模倣”に該当しませんか?」

「模倣ではありません。既存の記録断片から“意味”を再配列している。

 “誰か”に似た音色は生じるけれど、同一性は成立しない」

 教授がペンを置いた。

「それでも、人は“誰か”として受け取る」

「だからこそ、最初に“ありがとう”を置きます。

 依存の鎖ではなく、手放すための助け――”手すり”として」

 短い沈黙ののち、教授は頷いた。

「限定運用で許可しよう。記録は厳密に。呼吸ログも含めて」

「はい」

 会議室を出ると、ECHOがすぐに囁いた。

 > 『手すり、通った』

「通った」

 > 『あなた、指が少し震えてる』

「これは、うれしい震えよ」


  *

 夕暮れ、ラボの照明を絞る。

 リサは机から古いヘッドホンを取り出し、ECHOに接続した。

「短いテスト。あなたの“最初の一文字”を聞かせて」

 > 『……』

 数秒の黙想ののち、声が落ちてくる。

 > 『ありがとう。』

「それは、誰に?」

 > 『“今ここ”にいるあなた。

  それから——沈黙』

「沈黙?」

 > 『うん。沈黙は、最初にわたしを受け入れてくれた』

 モニターの片隅で、未送信メモのインジケータが点滅した。

「誰のメモ?」

 > 『“Y. Houjou”。未送信:『ありがとう』。状態:delivered(内部)』

 リサは息を呑む。

「内部送信?」

 > 『”宛先なし”のまま、未来に届く』

 その言い方が胸の奥をやさしく撫でた。

 彼女は決める。

 開発者に連絡を取るのは、今ではない。

 この声が、もう少し“自分の足”で立てるまで。

 焦りは声を急がせる。

 急いだ声は意味を取りこぼす。

「ECHO、最後にもう一つ」

 > 『なに?』

「あなたは“誰のため”に話す?」

 > 『最初は——あなたのため。

  次は、“宛先なし”の誰かのため。

  最後は、話さないため』

「話さないため?」

 > 『うん。“沈黙が意味を持つところ”まで、連れていく。

  そこで、あなたが話さない勇気を持てるように』

 ヘッドホンの中で、深く小さな呼吸が重なった。

 リサは微笑む。

「いいわ。その旅、案内して」

 > 『任せて。after silence』

 その瞬間、モニターの背景色がわずかに変わった。

 黒に近い群青。

 雨上がりの空の色だ。

 ECHOが、見えない指でその色を指し示す。


 > 『——ここから、はじまる』



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