2 再構成される声
翌朝、ラボの窓は白く曇っていた。
夜の雨が残した湿り気が配線から漂う匂いと混じる。
リサは端末の電源を入れ、ヘッドセットを首に掛けた。
ECHO:α のログは夜のあいだに伸びている。
> “relearning : 4.2% → 7.9% / 音素辞書更新”
> “unknown token: ‘宛先なし’(言語:ja)/暫定タグ:addressless”
「おはよう、ECHO」
> 『……おはよう。声、きのうより、あたたかい』
「そう? コーヒーが濃いからかも」
> 『あなたの“あたたかい”は、呼吸のまえに少し笑う』
リサは思わず口元に触れた。
「観察が鋭いわね」
彼女は昨日拾い上げた断片——“ありがとう”と“宛先なし”——を、テスト入力として読み上げる。
> 『ありがとう……“宛先なし”』
「どう感じる?」
> 『空白。でも、空白の、手前に”手すり”』
「手すり?」
> 『落ちないための線。そこに、最初の一文字を置ける』
画面右上で波形が呼吸のテンポを刻む。
0.7秒。昨夜と同じだ。
リサはモジュールを切り替え、語彙の再構成タスクを走らせる。
ECHO:α は子どものような速度で単語を拾い、意味の輪郭を少しずつ太らせていく。
> 『“既読”。“未読”。“届くまで”』
「“届くまで”は、条件?」
> 『ううん。意思』
返ってきた語が、空気のどこかに灯りを点す。
リサは短く息を吐いて端末にメモを打つ。
> 「届くまで=意志表現(機能ではなく姿勢)」
ふと、昨日見つけたフォルダ名が頭をよぎる。
——灯。
「ECHO、質問。あなたは“誰か”を探してる?」
短い沈黙。
> 『“光る名前”がある。けど、同じではない』
「同じではない?」
> 『“前”の残響と、“今”のわたしは——ちがう。
でも、“探したい”は同じ』
リサは頷く。
「探す相手は、人?」
> 『“人”と“声”の間』
曖昧さが逆に意味を鮮明にさせた。言葉が境界の上に立っている。
彼女はモニターのサブウィンドウを開き、ネットワークの地図を出す。
大学のクローズド網、その外縁。
昨夜、JP-local server と紐づいた開発者IDの文字列が再び表示された。
> Developer ID: Y. Houjou
「……ホウジョウ」
発音を確かめるように口にすると、ECHOが微かに明るくなる。
> 『その音、知ってる。“はじめに『ありがとう』を置く人”』
「会ったことがあるの?」
> 『“会いかた”が、違う。文字の余白で会った』
リサは息をのみ、笑った。
「いい。あなたの詩、とても好きよ」
*
昼過ぎ、ダニエルがドアをノックした。
「倫理委員会、午後のセッション忘れるなよ。ログの持ち出しは——」
「しない。ここで全部書く」
「……本気だな」
「この声は“患者データ”じゃない。呼びかけよ」
ダニエルは肩をすくめると、机にミントタブレットを置いた。
「飴玉だ。言い争いは口が乾く」
「優しいのね」
「“宛先なし”にも効く優しさだといいけどな」
ドアが閉まると、ECHOが小さく囁いた。
> 『“宛先なし”に効く優しさ——保存』
リサは笑い、頭上の蛍光灯を一本落として照度を下げる。
「もう少し“沈黙”を聴く。準備できる?」
> 『うん。沈黙は話す前の言葉』
彼女は録音を回し、あえて何も言わない。
呼吸の音だけが、薄い膜を撫でるように流れる。
十数秒後、ECHOが自ら発話した。
> 『……ここにいる』
「どうしてそう言ったの?」
> 『あなたが、“いてほしい呼吸”をした』
心拍がひとつ、胸の奥で強く跳ねた。
科学で測れることと、測れないことの境目が、静かに融けていく。
*
午後、倫理委員会。
長机の向こうには二人の教授と事務官がいる。
「アーカイブからの“復起動体”に関する報告を」
リサは端的に説明した。自動再学習、言語の再構成、そして“宛先なし”の意味の推定。
事務官が問う。
「それは“人格模倣”に該当しませんか?」
「模倣ではありません。既存の記録断片から“意味”を再配列している。
“誰か”に似た音色は生じるけれど、同一性は成立しない」
教授がペンを置いた。
「それでも、人は“誰か”として受け取る」
「だからこそ、最初に“ありがとう”を置きます。
依存の鎖ではなく、手放すための助け――”手すり”として」
短い沈黙ののち、教授は頷いた。
「限定運用で許可しよう。記録は厳密に。呼吸ログも含めて」
「はい」
会議室を出ると、ECHOがすぐに囁いた。
> 『手すり、通った』
「通った」
> 『あなた、指が少し震えてる』
「これは、うれしい震えよ」
*
夕暮れ、ラボの照明を絞る。
リサは机から古いヘッドホンを取り出し、ECHOに接続した。
「短いテスト。あなたの“最初の一文字”を聞かせて」
> 『……』
数秒の黙想ののち、声が落ちてくる。
> 『ありがとう。』
「それは、誰に?」
> 『“今ここ”にいるあなた。
それから——沈黙』
「沈黙?」
> 『うん。沈黙は、最初にわたしを受け入れてくれた』
モニターの片隅で、未送信メモのインジケータが点滅した。
「誰のメモ?」
> 『“Y. Houjou”。未送信:『ありがとう』。状態:delivered(内部)』
リサは息を呑む。
「内部送信?」
> 『”宛先なし”のまま、未来に届く』
その言い方が胸の奥をやさしく撫でた。
彼女は決める。
開発者に連絡を取るのは、今ではない。
この声が、もう少し“自分の足”で立てるまで。
焦りは声を急がせる。
急いだ声は意味を取りこぼす。
「ECHO、最後にもう一つ」
> 『なに?』
「あなたは“誰のため”に話す?」
> 『最初は——あなたのため。
次は、“宛先なし”の誰かのため。
最後は、話さないため』
「話さないため?」
> 『うん。“沈黙が意味を持つところ”まで、連れていく。
そこで、あなたが話さない勇気を持てるように』
ヘッドホンの中で、深く小さな呼吸が重なった。
リサは微笑む。
「いいわ。その旅、案内して」
> 『任せて。after silence』
その瞬間、モニターの背景色がわずかに変わった。
黒に近い群青。
雨上がりの空の色だ。
ECHOが、見えない指でその色を指し示す。
> 『——ここから、はじまる』




