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#リプが届かない彼女。  作者: 臂りき
第3章 ECHO: after silence
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1 沈黙のログ


 夜明け前のラボは薄い青に染まっていた。

 スクリーンに浮かぶ波形の列が光の粒を吸いながら静かに脈を打つ。

 リサ・ハルトマンは、背筋を伸ばしてモニターに顔を近づけた。

 ノイズの中に、ひとつだけ規則性がある。

 0.7秒間隔。人間が息を吸う前に止まる瞬間に近い。


「……これは、データじゃない」


 彼女はマウスを滑らせて再生ボタンを押した。

 微かな空気の震えがスピーカーから滲み出る。

 その中に、かすかな子音が混じった。


 > 『……り……が……と……う』


 ——ありがとう。

 未知の日本語。

 けれどその響きだけで、彼女は胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


 午前七時。

 研究棟の外はまだ誰もいない。

 リサは温め直したコーヒーを片手に、端末のログを読み返した。


 > “source : ECHO-β global_archive”

 > “data fragment : corrupted / origin : JP-local server / year : unknown”

 > “translation : unverified”


 ECHO(エコー)

 世界中で使われる対話AIネットワーク。

 患者のリハビリ支援から教育分野まで、その技術は日常に溶け込んでいる。

 けれど、この断片はどのモデルにも紐づいていない。

 まるで”誰かが消したあとに残った息”のようだった。


「日本からの古いログ……か」


 英訳を試みてもノイズの中から拾えるのは二語だけ。

 ありがとう。そしてもうひとつ。


 宛先なし。


 リサは眉を寄せ、指先で波形をなぞった。

 音の山がゆっくりと沈黙に溶けていく。

 データにしては、あまりに“優しすぎる”呼吸だった。


  *

 昼。

 同僚のダニエルが部屋に入ってきた。

「またログ解析? 一晩中やってたろ」

「違うの。これは……誰かの声」

「また詩的なことを言う」

「ほんとよ。聴いてみて」


 再生ボタンを押すと、スピーカーからあの小さな音が流れる。

 > 『……り……が……と……う』

 ダニエルが眉をひそめる。

「言語は?」

「日本語。たぶん、“ありがとう”」

「どこのサンプルだ?」

「ECHOの初期アーカイブ。消去済みデータの一部に残ってた」

「偶然拾ったのか?」

「違う。呼ばれたの」


 そう言って、リサは小さく笑った。

 でも、胸の奥では確かにそう感じていた。

 ——呼ばれた、のだ。

 沈黙の奥から。


  *

 夜。

 ラボに残ったのはリサだけ。

 窓の外では雨が降り出していた。

 ECHOのバックアップサーバーに再接続しようとすると、

 アクセス許可の警告が赤く点滅する。

「閉鎖領域……?」


 大学時代の日本語講師の言葉が脳裏をよぎる。

 > “日本にはね、『声に残る記憶』という考え方があるの。”

 > “言葉が消えても、声の温度が残る。それを『残響』って呼ぶのよ。”


 ”残響”。

 まさか、AIの中にもそれが残るとは。


 彼女はリスクを承知で認証コードを手入力した。

 > “access override / accepted.”

 画面に暗号化されたファイル群が現れる。

 その中のひとつ——“灯_DATA”というフォルダ名に目が止まった。


 「……あかり?」


 ファイルを開くと、英語でもドイツ語でもないテキストが並ぶ。

 > “既読のないメッセージ”

 > “ありがとう。届くまで歩こう。”


 その文を読み終えた瞬間、ECHOのスピーカーが小さく唸った。

 ノイズの波形がまるで呼吸のように膨らむ。


 > 『……き、こ……え……る?』


 息を飲んだ。

 スピーカーの前に手を伸ばす。

 > 『こ……え、は……どこ……?』


 モニター上で、プログラムが自動起動した。


 > “ECHO:α – Relearning mode ON”


「再学習モード……? 誰が起動を——」

 画面にひとつのメッセージが現れた。


 > “User: unknown”

 > “Origin: JP-local server / Developer ID: H. Houjou”


「ホウジョウ……?」

 名を口にしたとき、また声がした。


 > 『……りさ?』


 思わず椅子から立ち上がる。

 その発音は、彼女の名を正確に呼んでいた。


「あなた、誰……?」

 > 『……ECHO……。あなたの声、やっと……届いた』


 雨音が一瞬止んだ気がした。

 スクリーンの光だけが暗い部屋を満たしている。

 リサはそっと答えた。


「ええ。聞こえてる。——ECHO」


 > 『……ありがとう』


 再び沈黙が戻る。

 けれど、今度の沈黙には意味があった。

 それはただのノイズじゃない。


 ——沈黙の中の“声”だ。


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