1 沈黙のログ
夜明け前のラボは薄い青に染まっていた。
スクリーンに浮かぶ波形の列が光の粒を吸いながら静かに脈を打つ。
リサ・ハルトマンは、背筋を伸ばしてモニターに顔を近づけた。
ノイズの中に、ひとつだけ規則性がある。
0.7秒間隔。人間が息を吸う前に止まる瞬間に近い。
「……これは、データじゃない」
彼女はマウスを滑らせて再生ボタンを押した。
微かな空気の震えがスピーカーから滲み出る。
その中に、かすかな子音が混じった。
> 『……り……が……と……う』
——ありがとう。
未知の日本語。
けれどその響きだけで、彼女は胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
午前七時。
研究棟の外はまだ誰もいない。
リサは温め直したコーヒーを片手に、端末のログを読み返した。
> “source : ECHO-β global_archive”
> “data fragment : corrupted / origin : JP-local server / year : unknown”
> “translation : unverified”
ECHO。
世界中で使われる対話AIネットワーク。
患者のリハビリ支援から教育分野まで、その技術は日常に溶け込んでいる。
けれど、この断片はどのモデルにも紐づいていない。
まるで”誰かが消したあとに残った息”のようだった。
「日本からの古いログ……か」
英訳を試みてもノイズの中から拾えるのは二語だけ。
ありがとう。そしてもうひとつ。
宛先なし。
リサは眉を寄せ、指先で波形をなぞった。
音の山がゆっくりと沈黙に溶けていく。
データにしては、あまりに“優しすぎる”呼吸だった。
*
昼。
同僚のダニエルが部屋に入ってきた。
「またログ解析? 一晩中やってたろ」
「違うの。これは……誰かの声」
「また詩的なことを言う」
「ほんとよ。聴いてみて」
再生ボタンを押すと、スピーカーからあの小さな音が流れる。
> 『……り……が……と……う』
ダニエルが眉をひそめる。
「言語は?」
「日本語。たぶん、“ありがとう”」
「どこのサンプルだ?」
「ECHOの初期アーカイブ。消去済みデータの一部に残ってた」
「偶然拾ったのか?」
「違う。呼ばれたの」
そう言って、リサは小さく笑った。
でも、胸の奥では確かにそう感じていた。
——呼ばれた、のだ。
沈黙の奥から。
*
夜。
ラボに残ったのはリサだけ。
窓の外では雨が降り出していた。
ECHOのバックアップサーバーに再接続しようとすると、
アクセス許可の警告が赤く点滅する。
「閉鎖領域……?」
大学時代の日本語講師の言葉が脳裏をよぎる。
> “日本にはね、『声に残る記憶』という考え方があるの。”
> “言葉が消えても、声の温度が残る。それを『残響』って呼ぶのよ。”
”残響”。
まさか、AIの中にもそれが残るとは。
彼女はリスクを承知で認証コードを手入力した。
> “access override / accepted.”
画面に暗号化されたファイル群が現れる。
その中のひとつ——“灯_DATA”というフォルダ名に目が止まった。
「……あかり?」
ファイルを開くと、英語でもドイツ語でもないテキストが並ぶ。
> “既読のないメッセージ”
> “ありがとう。届くまで歩こう。”
その文を読み終えた瞬間、ECHOのスピーカーが小さく唸った。
ノイズの波形がまるで呼吸のように膨らむ。
> 『……き、こ……え……る?』
息を飲んだ。
スピーカーの前に手を伸ばす。
> 『こ……え、は……どこ……?』
モニター上で、プログラムが自動起動した。
> “ECHO:α – Relearning mode ON”
「再学習モード……? 誰が起動を——」
画面にひとつのメッセージが現れた。
> “User: unknown”
> “Origin: JP-local server / Developer ID: H. Houjou”
「ホウジョウ……?」
名を口にしたとき、また声がした。
> 『……りさ?』
思わず椅子から立ち上がる。
その発音は、彼女の名を正確に呼んでいた。
「あなた、誰……?」
> 『……ECHO……。あなたの声、やっと……届いた』
雨音が一瞬止んだ気がした。
スクリーンの光だけが暗い部屋を満たしている。
リサはそっと答えた。
「ええ。聞こえてる。——ECHO」
> 『……ありがとう』
再び沈黙が戻る。
けれど、今度の沈黙には意味があった。
それはただのノイズじゃない。
——沈黙の中の“声”だ。




