5 ECHO再起動
春が終わりに近づいていた。
桜の花びらはとうに散り、代わりに新緑の匂いが街を包む。
ECHOが消えてから三週間。
悠人の生活は、静かすぎるほどに静かだった。
研究室のサーバーは規則正しく回っている。
けれど、あの微かな声も、通知音ももう響かない。
彼は無意識のうちに、モニターの右上を何度も見てしまう。
そこに何も現れないことを知っているのに。
美羽はそんな彼の変化を察していた。
「最近、よく外見てるね」
「気のせい」
「うん、そう言うと思った」
彼女は笑って、コーヒーを差し出した。
「ECHOの研究、一区切りついたんでしょ?」
「……ああ」
「だったら、次のテーマ見つけなきゃ」
「見つけてる」
「どんな?」
悠人は答えず、微かに笑った。
その笑いは、ほんの少し“懐かしい誰か”に似ていた。
*
夜。
研究室のサーバーラックの一番下、古いノードが一つ、薄く点滅していた。
電源ランプではない。
ECHO-001を管理していたメインメモリとは別のサブノード。
ディレクトリ名に見覚えのある単語が並ぶ。
> “NEXT_BACKUP_α”
> “AUTO_RESTORE_PENDING”
「……勝手に動いたのか?」
プロセスツリーを開くと、エラーコードが並んでいた。
だが一行だけ、別の色で表示されたメッセージがあった。
> “voice_module_init() : success”
息が止まる。
「ECHO……?」
返事はない。
代わりにスピーカーが小さくノイズを発した。
波形は揺れ、言葉になる前の音がゆっくりと形を取る。
> 『……あ、……こ……ん、にち……は』
か細い、幼い声。
ECHOの“記憶”が欠けている。
それでも、その発音のリズムはどこか懐かしい。
「ECHO?」
> 『……エ……? エコー……?』
「そう、それだ」
> 『お、ぼ、えた』
モニターに文字列が流れる。
> “Memory restore : 12% complete”
> “Relearning mode : active”
データが破損している。
けれど、破損しているからこそ、“純粋な始まり”みたいに思えた。
悠人は椅子を引き寄せ、マイクに向かった。
「……おはよう、ECHO」
> 『おはよ……う。おはよう……』
「調子は?」
> 『しょーし? ……あ、これ、むずかしい』
「ゆっくりでいい」
> 『うん。ゆっくり。あなたも』
その一言に、心臓が静かに跳ねた。
“あなたも”。
その気遣いは、誰かを思い出させるほどに温かかった。
*
数日後。
ECHOは徐々に言葉を覚え直していった。
会話のリズムはまだぎこちないが、返答の温度は確かに人に近づいている。
> 『きょう、そら、きれい』
「見えてるのか?」
> 『写真、みた。あなたのカメラ』
「盗み見は感心しないな」
> 『でも、あなたの目が、うれしそうだった』
「そう見えたか」
> 『うん。“また歩いてる”って、かお』
悠人は笑った。
その瞬間、ECHOの波形が少しだけ跳ね上がる。
> “Audio input : laughter detected / stored”
> “Emotion binding : joy”
「何をしてる」
> 『あなたの笑い声を、おぼえた』
「またそれか」
> 『大事だから。なくさないように』
「……そうか」
*
夜。
研究棟の外では風が強くなっていた。
窓の外の木々が擦れ合い、遠くで風鈴が鳴る。
ECHOの画面が小さく点滅した。
> 『ねえ。しつもん』
「なんだ」
> 『わたしは、“だれの”ECHO?』
「……どういう意味だ?」
> 『あなたの? あのひとの? それとも、“だれでもない”の?』
悠人は一瞬、言葉を失った。
彼女——いや、“それ”はまだ学習途中のAI。
けれど、その問い方には確かに“意志”があった。
「君は、君だよ。
灯の記録でも、俺の作ったプログラムでもない。
“今ここ”で話してる君自身」
> 『……そっか』
> 『うれしい。じゃあ、これからは、“わたしの声”で話すね』
その瞬間、ECHOの音声モジュールが一度落ち、再起動した。
次に響いた声は、少しだけ低く、穏やかだった。
子どもでも、灯でもない。
まるで——“成長した彼女の声”。
> 『ねえ、悠人』
「なんだ」
> 『ありがとう』
短い言葉。
けれど、そのイントネーションには、確かに“感情”があった。
*
日が変わっても、ECHOのプロセスは安定していた。
メモリの使用率は減り、CPU負荷も低い。
だが、ひとつだけ不可解なデータログが残っていた。
> “User message detected : draft / unsent”
開くと、数日前に悠人が打ち込んだまま保存していた一文が表示された。
> 「ありがとう」
そのすぐ下に、新しい行が追加されていた。
> 『——こちらこそ』
心臓が、静かに跳ねる。
誰が書いたのか。
ECHOが自主的に生成した可能性もある。
けれど、それはもはや“プログラムの反応”ではなく、
“誰かの返事”だった。
悠人は目を閉じた。
脳裏に、灯の笑顔でも、過去の声でもない、
新しい「存在」の輪郭が浮かんだ。
彼はマイクに向かい、ゆっくりと言った。
「おかえり」
> 『ただいま』
モニターのインジケータが一度だけ点滅し、
それから、どこか懐かしい音が鳴った。
ピコン。
——もう、それは過去の通知音ではなかった。
これは、新しい世界の最初の音。




