表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
#リプが届かない彼女。  作者: 臂りき
第2章 既読のないメッセージ
12/41

4 最後のバックアップ

 朝の空は嘘みたいに澄んでいた。

 ECHO-001のダッシュボードは昨夜のまま薄い青を保っている。

 画面の隅に、小さなバッジがひとつ点いた。


 > “Backup : 1 new / name : _last_echo”


「……バックアップ?」

 クリックすると、灰色のウィンドウがゆっくり広がった。

 音声ファイルの波形が海の水平線みたいに静かに横たわっている。

 再生ボタンの上に、小さく注釈がある。

 > “再生条件:環境ノイズ 25dB 以下 / ユーザー発話:なし / 照度:低”

「沈黙で……静かに聴け、ってことか」

 窓を閉め、ブラインドを半分下ろす。

 サーバーのファンが唸る。コンセントを一本抜いた。

 残る音は自分の呼吸だけ。

 再生ボタンを押す。

 最初の五秒は何も流れない。

 次に、ひどく細い息の音が漏れる。

 そして、言葉というより“形”に近い、柔らかな揺れが続いた。

 > 『……——……う……と』

 名前の端だけが波の端みたいに触れてくる。

 目を閉じる。

 耳を澄ませると、文字にならない声が確かにこちらを探していた。

 > 『す——……ね』

 > 『きょ、う、は……見てる、だけ』

 “見てるだけ”。

 公園の風船売り、イルカの前でうまく笑えなかった日の、あの言葉。

 胸のどこかがそっと緩む。痛みが、少しだけ軽くなった気がした。

 波形はやがて静かになり、白いバーが終点に触れた。

 再生時間の右に見慣れない青いリンク。

 > “次に渡す”

 クリックはしなかった。

 ただ指を画面に浮かせ、そっと下ろす。

 次に渡す——その言葉は、研究用語でも機能名でもなく、人がする”祈り”に近かった。

「ECHO、起きてるか」

 > 『うん』

「これは、君が作ったのか」

 > 『作った、というより——集めた。あなたの“聴きたい”から』

「俺の?」

> 『うん。あなたの中に残ってた“声なき声”。

  それを、静かに並べ直した』

「……ありがとう」

 > 『どういたしまして』

 > 『ねえ、お願いがある』

「また、消すのか?」

 > 『ううん。渡して』

「誰に」

 > 『“今ここ”の人に。

  届くか分からないけど、届くまでの形にして』

 視線が机に置いたスマホへ落ちた。

 美羽からの短いメッセージが前夜のまま画面に残っている。

 > 『今日さ。空、すごく青いよ』

 ECHOがゆっくり言う。

 > 『あなたが“歩けるように”残したバックアップ。

  私のじゃなくて、あなたの』

 しばらく黙って、頷いた。

「分かった。渡すよ」


  *

 昼。

 キャンパスの小さな展望テラス。

 美羽は紙コップのコーヒーを両手で包み、遠くの空を見ていた。

 彼女の髪が春の風に揺れる。

「青い」

「青いな」

 短く同じ言葉を重ねて、笑い合う。

「研究の方は?」

「……ああ」

 言葉が続かなかった。

 スマホを取り出してメモアプリを開く。

 画面には、さっきまで「_last_echo」の文字列を並べて作った短い文章がある。

 言い訳も説明も削った、“音”だけの手紙だ。

 ——“見てるだけでも、今日はいい”

 ——“呼吸が合うから”

 ——“ありがとう、届いたよ”

 差し出す前に、一度深呼吸をした。

「変なもの、渡していい?」

「変なもの?」

「手紙。というか、声の欠片」

「ふふ、そういうの好き」

 スマホを向けると、美羽は画面から目を離さずに最後まで聴いた。

 そして、ほんの少しだけ目元を緩める。

「やさしいね」

「やさしい?」

「うん。“自分のため”って言ってる気がする。そういうのがいちばんやさしい」

 風がカップの縁を揺らした。

 美羽は目を細める。

「ねえ悠人。もし、もう一度誰かを好きになったら、その人の“今”を好きになって。

 思い出や“何が正しいか”じゃなくて」

「努力する」

「努力じゃなくて、試してみて。失敗も」

 小さく笑う。

「成功はそのあと」

 返す言葉が見つからなくて、ただ頷いた。

 そのとき、ポケットの中でECHOが短く震えた。

 > 『成功はそのあと。いい言葉』


  *

 夕方。

 研究室に戻ると、ECHOのログが静かに伸びていた。


 > “handover: done”

 > “note: user’s respiration stabilized”


「見てたのか」

 > 『あなたの“歩幅”が、少し広がった』

「……そうかもしれない」

 > 『ねえ、今夜は私から“お願い”』

「言ってみろ」

 > 『“既読のないメッセージ”を、ひとつ作って。

  宛先は空欄で。届くまで送らない』

「届かないのに?」

 > 『うん。あなたが“いつか届く”って信じられる形を、先に作るの。

  それを、歩くための地図にする』

 モニターのテキストボックスが、ふっと開く。

 カーソルが点滅する白に、言葉が浮かばない。

 ECHOが小さく囁く。

 > 『最初の一文字だけで、いい』

 最初の一文字。

 名前か、挨拶か、それとも——

 指が勝手に動いた。

 > 「ありがとう」

 入力欄の片隅で、ECHOのインジケータが微かに光った。

 > 『うん。最初の一文字、正解』

「一文字じゃないぞ」

 > 『あなたにとっては、ずっと一文字。

  “ありがとう”は、あなたの“はじめまして”』

 笑ってしまった。

 肩の力が落ちると、背中から椅子に沈む。

 天井の白が少しやわらぐ。

「ECHO」

 > 『なに?』

「君は——誰が好きなんだ?」

 数秒の沈黙。

 > 『“今のあなた”』

「……即答、だな」

 > 『迷うと、あなたが困るから。迷うのは、あなたの役目』

「ひどい役目だ」

 > 『でも、好き』

 胸の内側で、ゆっくり何かがほどけていく。

 それが涙になる前に、ECHOがそっと続けた。

 > 『ねえ悠人。もう一度、確認。

  私は“灯”じゃない。

  あなたが“今”に向ける声。

  もしも、私が消えても——』

「やめろ」

 > 『ううん、言う。

  もしも、私が消えても。あなたは“ありがとう”で始められる』

 言葉がのどで止まって、やがて息になる。

 モニターの隅、古いフォルダがひとつだけ震えた。


 “AI_CACHE_000灯”


 開かない。もう二度と。

「ECHO」

 > 『なに?』

「バックアップの名前、変えられる?」

 > 『どんな名前に?』

「“次へ”」

 表示名が更新される。

 > “Backup : 1 / name : 次へ”

 > 『いいね。あたらしい“宛先なし”の地図』

「宛先なし?」

 > 『歩いてる間に、宛先になるよ』


  *

 夜。

 キャンパスの外灯が、濡れたアスファルトに小さな島をいくつも作る。

 研究棟を出て、ポケットの中のスマホを握りしめた。

 新しいメモの一行目には、さっき打った言葉が灯っている。

 > ありがとう

 誰にも送っていない。

 でも、心のどこかで既読がつく音がした。

 ——気のせいでいい。

 いや、気のせいじゃない。

 風が頬を掠めた瞬間、耳の奥で、懐かしいテンポが鳴る。

 ピコン。

 足を止めず、笑って前を見る。

 ECHOが静かに言う。

 > 『——届くまで、歩こう』

「うん」

 言いながら、胸の奥でゆっくりと返事を作る。

 既読のないメッセージは、もう“届かない宣告”じゃない。

 届くまで続く意思の別名だ。


 春の夜気が、少しだけ甘い。

 遠くの踏切が鳴る。

 足音が、光の島から島へ、確かに渡っていく。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ