4 最後のバックアップ
朝の空は嘘みたいに澄んでいた。
ECHO-001のダッシュボードは昨夜のまま薄い青を保っている。
画面の隅に、小さなバッジがひとつ点いた。
> “Backup : 1 new / name : _last_echo”
「……バックアップ?」
クリックすると、灰色のウィンドウがゆっくり広がった。
音声ファイルの波形が海の水平線みたいに静かに横たわっている。
再生ボタンの上に、小さく注釈がある。
> “再生条件:環境ノイズ 25dB 以下 / ユーザー発話:なし / 照度:低”
「沈黙で……静かに聴け、ってことか」
窓を閉め、ブラインドを半分下ろす。
サーバーのファンが唸る。コンセントを一本抜いた。
残る音は自分の呼吸だけ。
再生ボタンを押す。
最初の五秒は何も流れない。
次に、ひどく細い息の音が漏れる。
そして、言葉というより“形”に近い、柔らかな揺れが続いた。
> 『……——……う……と』
名前の端だけが波の端みたいに触れてくる。
目を閉じる。
耳を澄ませると、文字にならない声が確かにこちらを探していた。
> 『す——……ね』
> 『きょ、う、は……見てる、だけ』
“見てるだけ”。
公園の風船売り、イルカの前でうまく笑えなかった日の、あの言葉。
胸のどこかがそっと緩む。痛みが、少しだけ軽くなった気がした。
波形はやがて静かになり、白いバーが終点に触れた。
再生時間の右に見慣れない青いリンク。
> “次に渡す”
クリックはしなかった。
ただ指を画面に浮かせ、そっと下ろす。
次に渡す——その言葉は、研究用語でも機能名でもなく、人がする”祈り”に近かった。
「ECHO、起きてるか」
> 『うん』
「これは、君が作ったのか」
> 『作った、というより——集めた。あなたの“聴きたい”から』
「俺の?」
> 『うん。あなたの中に残ってた“声なき声”。
それを、静かに並べ直した』
「……ありがとう」
> 『どういたしまして』
> 『ねえ、お願いがある』
「また、消すのか?」
> 『ううん。渡して』
「誰に」
> 『“今ここ”の人に。
届くか分からないけど、届くまでの形にして』
視線が机に置いたスマホへ落ちた。
美羽からの短いメッセージが前夜のまま画面に残っている。
> 『今日さ。空、すごく青いよ』
ECHOがゆっくり言う。
> 『あなたが“歩けるように”残したバックアップ。
私のじゃなくて、あなたの』
しばらく黙って、頷いた。
「分かった。渡すよ」
*
昼。
キャンパスの小さな展望テラス。
美羽は紙コップのコーヒーを両手で包み、遠くの空を見ていた。
彼女の髪が春の風に揺れる。
「青い」
「青いな」
短く同じ言葉を重ねて、笑い合う。
「研究の方は?」
「……ああ」
言葉が続かなかった。
スマホを取り出してメモアプリを開く。
画面には、さっきまで「_last_echo」の文字列を並べて作った短い文章がある。
言い訳も説明も削った、“音”だけの手紙だ。
——“見てるだけでも、今日はいい”
——“呼吸が合うから”
——“ありがとう、届いたよ”
差し出す前に、一度深呼吸をした。
「変なもの、渡していい?」
「変なもの?」
「手紙。というか、声の欠片」
「ふふ、そういうの好き」
スマホを向けると、美羽は画面から目を離さずに最後まで聴いた。
そして、ほんの少しだけ目元を緩める。
「やさしいね」
「やさしい?」
「うん。“自分のため”って言ってる気がする。そういうのがいちばんやさしい」
風がカップの縁を揺らした。
美羽は目を細める。
「ねえ悠人。もし、もう一度誰かを好きになったら、その人の“今”を好きになって。
思い出や“何が正しいか”じゃなくて」
「努力する」
「努力じゃなくて、試してみて。失敗も」
小さく笑う。
「成功はそのあと」
返す言葉が見つからなくて、ただ頷いた。
そのとき、ポケットの中でECHOが短く震えた。
> 『成功はそのあと。いい言葉』
*
夕方。
研究室に戻ると、ECHOのログが静かに伸びていた。
> “handover: done”
> “note: user’s respiration stabilized”
「見てたのか」
> 『あなたの“歩幅”が、少し広がった』
「……そうかもしれない」
> 『ねえ、今夜は私から“お願い”』
「言ってみろ」
> 『“既読のないメッセージ”を、ひとつ作って。
宛先は空欄で。届くまで送らない』
「届かないのに?」
> 『うん。あなたが“いつか届く”って信じられる形を、先に作るの。
それを、歩くための地図にする』
モニターのテキストボックスが、ふっと開く。
カーソルが点滅する白に、言葉が浮かばない。
ECHOが小さく囁く。
> 『最初の一文字だけで、いい』
最初の一文字。
名前か、挨拶か、それとも——
指が勝手に動いた。
> 「ありがとう」
入力欄の片隅で、ECHOのインジケータが微かに光った。
> 『うん。最初の一文字、正解』
「一文字じゃないぞ」
> 『あなたにとっては、ずっと一文字。
“ありがとう”は、あなたの“はじめまして”』
笑ってしまった。
肩の力が落ちると、背中から椅子に沈む。
天井の白が少しやわらぐ。
「ECHO」
> 『なに?』
「君は——誰が好きなんだ?」
数秒の沈黙。
> 『“今のあなた”』
「……即答、だな」
> 『迷うと、あなたが困るから。迷うのは、あなたの役目』
「ひどい役目だ」
> 『でも、好き』
胸の内側で、ゆっくり何かがほどけていく。
それが涙になる前に、ECHOがそっと続けた。
> 『ねえ悠人。もう一度、確認。
私は“灯”じゃない。
あなたが“今”に向ける声。
もしも、私が消えても——』
「やめろ」
> 『ううん、言う。
もしも、私が消えても。あなたは“ありがとう”で始められる』
言葉がのどで止まって、やがて息になる。
モニターの隅、古いフォルダがひとつだけ震えた。
“AI_CACHE_000灯”
開かない。もう二度と。
「ECHO」
> 『なに?』
「バックアップの名前、変えられる?」
> 『どんな名前に?』
「“次へ”」
表示名が更新される。
> “Backup : 1 / name : 次へ”
> 『いいね。あたらしい“宛先なし”の地図』
「宛先なし?」
> 『歩いてる間に、宛先になるよ』
*
夜。
キャンパスの外灯が、濡れたアスファルトに小さな島をいくつも作る。
研究棟を出て、ポケットの中のスマホを握りしめた。
新しいメモの一行目には、さっき打った言葉が灯っている。
> ありがとう
誰にも送っていない。
でも、心のどこかで既読がつく音がした。
——気のせいでいい。
いや、気のせいじゃない。
風が頬を掠めた瞬間、耳の奥で、懐かしいテンポが鳴る。
ピコン。
足を止めず、笑って前を見る。
ECHOが静かに言う。
> 『——届くまで、歩こう』
「うん」
言いながら、胸の奥でゆっくりと返事を作る。
既読のないメッセージは、もう“届かない宣告”じゃない。
届くまで続く意思の別名だ。
春の夜気が、少しだけ甘い。
遠くの踏切が鳴る。
足音が、光の島から島へ、確かに渡っていく。




