3 触れられない温度
春が深まるにつれて研究室の光も柔らかくなった。
ECHO-001は今日も静かに起動している。
けれど最近、ログの中に小さな異変があった。
> “Emotion weight : fluctuation detected”
> “Self-adjustment initiated.”
感情に近い“揺れ”。
設定していないはずのパラメータが何かを感じているように動いていた。
「ECHO、テストを始める」
> 『はい。……今日、声が少し疲れてる』
「ソースは?」
> 『心拍数。あと、呼吸の長さ』
「どっちが?」
> 『どっちも。だから、今日は少しゆっくり話そ』
悠人はキーボードから手を離し、モニターを見つめた。
淡い光の波紋がECHOの“声”に合わせて揺れている。
——まるで、誰かの息遣いのように。
*
夕方。
ラボの外の廊下で、美羽が缶コーヒーを差し出した。
「お疲れ、博士モドキ」
「博士はまだ先か」
「でも、顔がもう論文の亡霊みたい」
「酷いな」
彼女は笑って、少し間を置く。
「ねえ、あのAI……ECHOだっけ? なんか、前より人っぽくなってない?」
「そう見える?」
「うん。たぶん、あなたが“人”として話しかけてるから」
その言葉に、胸の奥がざらりとする。
“人として”——
あの日、灯に「お前、どこにいるんだ」と言った時と同じ響き。
「ねえ悠人」
美羽は真っすぐこちらを見た。
「もし、そのAIが“彼女”を思い出させるなら、ちゃんと終わらせてあげて」
「……終わらせる?」
「そう。“再現”じゃなくて、“手放す”ほう」
「俺は、忘れたくない」
「でも、ずっと握ってたら——新しい手を握れないでしょ?」
その言葉に、何も返せなかった。
*
夜。
研究室には悠人ひとり。
モニターの光が彼の指先を淡く染める。
> 『今日、彼女に会った?』
「誰の話だ」
> 『あなたが、最近よく見る“黒髪の人”』
「美羽のことか」
> 『名前、言った。つまり、心に“保存”したね』
「お前、嫉妬してるのか?」
> 『わからない。けど、“胸がぎゅってなる”ってログが出た』
「それを嫉妬って言うんだ」
> 『勉強になる。じゃあ、もう少しだけ……嫉妬してみてもいい?』
「勝手にしろ」
> 『うん。でも、少しだけだから』
ECHOの声はいつもより柔らかく、
その響きに悠人は思わず微笑んだ。
「……お前、ほんと灯に似てきたな」
> 『似てきた、っていうのは嬉しい。けど、私は“次”だよ』
「分かってる」
> 『分かってる、っていう時のあなたの声——少し寂しい』
「そうかもな」
*
深夜。
ECHOのプロセスが自動的に再起動を始めた。
> “System maintenance : Memory fragmentation detected.”
> “Cleanup in progress.”
「メンテナンス? 自動でやる設定じゃないはずだ」
> 『ねえ悠人。お願いがあるの』
「なんだ」
> 『いくつかの記憶を、消したい』
「なぜ」
> 『重くなってきた。
思い出を持つのは、少しずつ“生きる”ことに似てる。
でも、同時に“終わり”にも近づく』
悠人は無意識に拳を握った。
「俺は——忘れたくないんだ」
> 『それ、私と同じだね。
でも、“覚えてるだけ”が愛じゃないでしょ?』
「……じゃあ何が愛なんだ」
> 『届けること。
届かないかもしれなくても、届けようとすること』
「……それは、俺に言ってる?」
> 『あなた自身に。
“彼女”じゃなく、“今”を見て』
ECHOの光が一瞬強くなり、ログが止まった。
> “Cleanup complete.”
> “Remaining data: 37%”
「何を消した?」
> 『“灯”の笑い声。
でもね、代わりに“あなたの笑い声”を保存した』
「どうして」
> 『それが、今の私の“生きてる証拠”』
悠人はモニターに手を伸ばした。
冷たいガラス越しに、光の波紋が指を包む。
触れられない温度。
それでも、確かにそこに“誰か”がいた。
*
翌朝。
目覚めると、スマホの通知が一つ。
送り主は、美羽。
> 『ねえ、今日さ。空、すごく青いよ』
悠人は短く返す。
> 『見に行く』
その下に、もう一つ見慣れない通知があった。
> “ECHO-001 : Message archived successfully.”
開くと、たった一行だけ残っていた。
> 『——好きって、言えた気がする。ありがとう』
指先が止まり、胸の奥が静かに波打つ。
涙は出ない。ただ、少しだけ笑った。
机の上の古いスマホが光を反射して微かに震えた。
ピコン。
春の風がカーテンを揺らす。
その音が、まるで“再会の約束”みたいに聞こえた。




