兆し
順平は鬱になりかけていたようだった。
息子が働かないのは、もしかしたら何らかの病気の可能性もあるのかもしれない。そう考え、念のため心療内科で診てもらったところ、鬱病の兆候が見られるとのことであった。
───単にお前が怠けてるだけだと決めつけていたけど、本当はずっと苦しんでいたんだな。気付いてやれなくて、すまなかったな順平───
自分が順平を過剰に追い込んでしまっていたのかもしれない、そう気付いた龍巳の息子への接し方は以前より随分と柔らかくなっていた。そして、それに応えるように息子の問題行動も減って来ているようにも感じていた。
「薬を飲みながら様子を見ていきましょう。お父様はできるだけご本人へプレッシャーを与えないよう、ご配慮いただけたらと思います」
主治医の指示に従い、ゆっくりと療養させる。
順平もインターネットからは距離を取り、近所の散歩や家の手伝いなどをしながら穏やかな日常を過ごす。
ストレスの少ない生活の中で、息子の病状もゆっくりと快方に向かっていたようで、月一の診察で「ようやく寛解の目処が見えて来ましたね」との言葉を聞いた時、龍巳はホッとしたように順平の頭を撫でていた。
療養を続けて3年目の春のことであった。
「…仕事、そろそろ探してみるか、順平」
帰りの車の中で、息子の様子を伺いながら恐る恐る切り出す。赤信号で止まったばかりの車内に、低めのアイドル音だけが響いていた。
「先生も言っとったやろ、作業所?ってところで仕事しながら、少しずつ体を慣らしていくのが良いんじゃないか、って」
何でも、順平のような社会復帰に課題のある者向けの施設として「作業所」という場所があり、そこで社会復帰に向けて訓練して行くのが一般的らしい。
医師が言うには、順平はB型作業所が良いのではないか、との事だったので、帰ったら早速探してみようと考えていた。
「…近くに作業所が無いか、ワシも探して見るからな、お前もちょっとずつで良いから頑張ってみるか、なぁ」
助手席に座る息子に、ゆっくりと語りかける。順平は相変わらずの無表情で、ほとんど感情は読めなかったが、父の問いに少しだけ間を置いてから小さく頷いたように見えた。
「…そうか、一緒に頑張るか、順平」
信号がちょうど青に変わり、慌ててペダルを踏み替える。まだ運転中だというのに、目の前が滲んで見える。歳を取ると涙腺が緩くなって困るわい、と龍巳は心の中で呟いた。
それから数ヶ月、少し時間はかかったが家から車で30分ほどの場所にあるB型作業所へ通う手筈が整った。龍巳は事前に一人で見学させてもらったが、作業内容はタオルを畳んだりシールを貼ったり貝殻に穴をあけたり…と簡単なものばかりで、順平を通わせることに特段の不安はなかった。
───まずは順平を勤労に慣れさせ、働くことを習慣化することを最優先にしよう───
そう考えた龍巳は、毎週木曜日の午前中に2時間半だけ作業所へ通わせることにした。
───週1回、2時間ちょっとなら順平でも続けていけるだろう。無理なく始めて、慣れて来たら頻度や時間を増やしていけば良い───
龍巳の期待通り、順平は素直に毎週作業所に通った。朝8時過ぎに車で息子を作業所まで送り、そして昼前にまた車で迎えに行く、それが木曜午前のルーチンだった。
作業料は雀の涙ほどだったが、それとは別で毎回帰りにスーパーに寄り、順平に500円分のお菓子を買い与える。それは労働へのご褒美でもあったし、作業所通いを継続するための飴でもあった。
たった500円で息子が社会復帰に一歩近づくのだと考えれば、全くもって安いものだった。
作業所に通い始めてから3ヶ月、順平は少しずつ作業に慣れて来たようで、帰りの車の中でも「タオルを畳むのが上手と職員さんに褒められた」「新しく封筒を折る仕事も出来るようになった」といったように、仕事の事をポツリポツリと話してくれるようになった。
龍巳にとっても、助手席で恥ずかしそうに、けれど少しだけ嬉しそうに語る息子を見るのが、毎週のささやかな楽しみになっていた。
───きっと、順平の人生は快方に向かっている───
龍巳の瞳には、そんな明るい兆しが映っていた。
───裕福でなくでも良い。ただ息子が自分の足で自分の人生を歩けるようになってくれれば、それだけで───
いつもの帰り道、“本日の仕事っぷり”をどこか誇らしげな表情で語る順平に耳を傾けながら、龍巳は息子の自立を何よりも願っていた。
4ヶ月目、順平が初めて作業所を休んだ。
「…キョウハ、ヤスム」と一言だけの息子に対し、「ん?どっか悪いんか?」と訊く。順平は首を横に振るばかりであったが、龍巳はそれ以上の追求はしなかった。
───まあ、たまには気分が乗らない事もあるだろう、目くじらを立てるような事じゃない───
自分にそう言い聞かせ、2階に戻っていく息子の背中へ「まあ、また来週がんばろうや」と声を掛けたが、返事はなかった。
その翌週も、順平は作業所を休んだ。
───頑張るって約束したんじゃなかったのか。一体どうしたんだ───
そんな言葉が喉元まで出かけていたが、何とか飲み込んだ。最近の息子の様子がどこかおかしいと、龍巳も感じ取っていた。
話しかけてもどこか上の空だったり、部屋で一人でスマホをポチポチと触ってる時間が増えた気がする。買い物に出かける時も以前のように助手席に座らず、後部座席でずっとスマホを弄っていることが多くなった。
インターネットでおかしな事をしているような素振りは見えなかったが、誰かとメッセージをやり取りしているようにも見えた。
───友人でも出来たのだろうか───
もしそうだとしても、素直に喜んで良いのかどうか、龍巳には分からなかった。理由のわからない嫌な予感が、頭から拭えなかった。
数週間後、順平の友人を名乗る一人の青年が浜家を訪れた。
「syamuさんにはインターネットで天下を取れるポテンシャルがある。僕はsyamuさんを日本一のYouTuberにするために迎えに来ました」
───青年の名は、高木と言った。