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龍の瞳  作者: MASTER EROS
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いつかの岬から

「ドライブ行くけど、お前も来んか?」


誘ったのは龍巳からだった。


「…最近色々あったし、お前も疲れたやろ、なぁ?たまには出かけるか」


正直なところ、順平がどう答えるかは全く予想が付かなかったが、「イク!」と思った以上に明るい返事を聞き、龍巳の胸の内では安堵と痛みが複雑に混じり合っていた。


「お、おお…じゃああそこ行くか、前に家族旅行で行った、ほら…」


数年前に家族旅行で行った観光地だ。ここからは少し遠いが、高速を数時間走れば着く距離だった。

太平洋を一望できる見晴らしの良い岬があり、鮮やかに広がる景色を前にして、子供達もはしゃいでいたのを今でも覚えている。


「じゃあ準備するか、お前もいつまでもパジャマ着とらんで、はよ着替えて来い」


小さく頷いて、のそのそと2階に向かう息子の背中を見送ると、龍巳も静かに立ち上がった。



その日の順平は妙にご機嫌だった。

時速80kmを維持しながら、ルームミラー越しに後部座席の息子へチラリと視線を投げかける。精一杯のオシャレのつもりだろうか、似合わないサングラスをかけた息子が先ほどから奇妙な歌を口ずさんでいる。


───猫ワンワン…?───


最近流行りの歌なのだろうか。流行に疎い自分にはよく分からなかった。



途中で何度か休憩を入れ、2度目にSAに立ち寄った際に昼食を取ることにした。

あまり食欲が湧かず、サンドイッチを一つだけ頼んだ龍巳は、汚らしく掻き混ぜたカレーを犬のようにがっついて食べている息子を見ながら、ふと「あの日も同じようにカレーを食べていたな」と思い出す。

ンン!ンン!と不快な唸り声を上げながら夢中でカレーを掻き込む息子を、何も言わずにただ黙って見つめていた。



周辺の観光スポットをいくつか巡り、二人が目当ての場所に来た時にはもう16時を回っていた。海に面した小高い丘の上では、真っ白な灯台があの日のままの姿で聳え立っていた。


どこまでも続く水平線の彼方で空は夕焼け色に染まり、海の青と重なって紫色のグラデーションを彩る。少し肌寒い西風が、波の音を二人の耳元まで届けてくれていた。


「オホ~~~!!!」


絶景を前に、外したサングラスを右手に掲げながら奇声を上げる息子。そんな彼を視界の端に留めながら、龍巳は静かに眼下を見下ろしていた。

灯台のふもとはちょっとした崖の様相を呈しており、崖下に点在する黒々とした岩肌の間を縫うように、打ちつける白い波が泡立っているのが見える。


───ここから落ちたら、まず助かることはないだろう───


唾を飲み込む音と心臓の鼓動だけが、耳の奥で鳴り響いていた。


───今日ここで、全てを終わりにしよう、順平───


龍巳は静かに瞳を閉じた。



───思えばこの30年、息子に幸せはあったのだろうか。父として、順平に何かを与えることができたのだろうか───


この数日間ぼんやりと考えていた事であった。人は何のために生まれ、何のために生きて行くのか、それは究極の問いであった。


───私はあまり良い父親ではなかったのだろう。本当にすまなかったなぁ、順平───


龍巳はトロッコ問題に一つの答えを出した。この問題は、誰かと誰かを比べる問題ではなく、誰かと自分との二択を強いるものなのだと理解した。

人の心を失って、父としての正義を曲げて、浜龍巳としての人生を犠牲にしてでも、大切な誰かを守る事を選んだのだった。


───ごめんなぁ、順平…本当にごめんなぁ───


迷いがない、と言えば嘘になる。しかし選んだものは、妻と娘の幸せであった。そのために、今日ここで、自分が自分として生きることを諦めるのだった。

龍巳は瞳を開くと一瞬息を止め、息子の小さな背中を両腕で勢いよく突き飛ばした。



───突き飛ばした、はずだったのだ、少なくとも頭の中では。ここに来るまで何度も何度もシミュレートし、うまくやれると思っていた。妻と娘のためなら、自分は悪魔にさえなれると思っていた。そのための覚悟も出来ているつもりだった。


しかし、現実はそうではなかった。順平の背後数十cmのところで両手は止まっていた。全身は硬直し、一歩たりとも踏み出せる気がしなかった。


───初めての子供だったのだ。30年、妻と二人で愛情を注いで育てて来たのだ。どんなに出来の悪い子供でも、ただ一人の息子なのだ───


初めて赤子を抱いた時のあの重みを、初めてパパと呼ばれたあの喜びを、初めて歩き始めたあの日のことを、今でも覚えているのだ。


───殺せない、殺せるわけがない───


気が付けば、溢れる涙が龍巳の頬を伝っていた。



「…オトサン、アリガト…」


ふと、順平が口を開く。


「…ヤクソク…」

「約束…?」


海を見つめ続けている息子の後ろ姿が、あの日の景色に重なり、龍巳は唐突に思い出した。


───約束、していた。確かにあの日、順平と約束していた。また来たいと言う息子に、「また連れて来てやるわ。良い子にしとったらな」と笑いながら答えたのだ───


「…マタコレテ、ヨカッタ…」

「ずっと来たかったんか、順平…」

「…オラモ、ズットクルシンデタシ」


ずっと苦しんでいた、その言葉を聞いてハンマーで頭を殴られるような衝撃を受けた。自分だけじゃなかったのだ、妻だけじゃなかったのだ。当然、順平も苦しかったのだ。


───そんな簡単な事も分からずに、息子の痛みに気付いてやれずに、自己犠牲を免罪符にして順平を切り捨てようとしていたのか───


「…オトサン、ナイトルン?」


振り返った順平が驚いて聞く。


「お前が変なことを言い出すからだバカタレが!」


初めて見る泣き顔に順平は困惑しながらも、頬を拭う父をただ静かに見ていた。


───生きよう。どんなに大変でも、順平と一緒に生きよう。私はまだやれる、まだ頑張れる───


「なあ、順平…」

「…?」

「…もう少し頑張ってみるかぁ」


順平はキョトンとした面持ちで、一瞬何かを考えたあと、口を開く。


「…ウン、ガンバッテ!」


「お前も一緒に頑張るんじゃろ、この馬鹿息子が!」


思わず息子の頭を勢いよく掴み、そのままワシャワシャと髪を撫で回す。


「バカムスコデ、ワルカッタナ!」


必死に抵抗する息子の横顔を、まだうっすらと跡の残る龍巳の頬を、夕焼けが赤く染める。


沈む夕陽に照らされた二人の影は、長く永く、どこまでも続いて行くように見えた。

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