トロッコ問題
───それはまさにトロッコ問題だった。
浜順平という暴走トロッコの先に、妻と娘たちが立ち尽くしている。助けるには暴走トロッコを私が破壊するしかない。決断のリミットは今も刻一刻と迫っている───
そんなことを考えながら、近隣への謝罪を終えた龍巳はようやく帰路に着く。
自宅に帰り付くやいなや、どっと疲れたが出て来たのか暫く横になっていたものの、夕方のチャイムが鳴り終わるのを聞き届けると、疲れ果てた心身に鞭を打って立ち上がる。妻の代わりに夕食の準備をしなければならない。
ちょうど炊飯器から蒸気が吹き始めた頃、いつの間に帰って来ていたのか、順平が台所に顔を出す。
「オトサン、ゴハンマダ?」
「…見て分からんのか、今準備しとるんだから大人しく待っとれ」
「ハラヘッタ、ハヤクシテ」
龍巳はもう限界だった。抑えなければ、と頭では分かっていても、感情を止められなかった。
「…誰のせいでこんな事になっとるか、分からんのかお前は!」
珍しく激昂する父親の姿に一瞬戸惑う順平であったが、充血した父の目を見たままゆっくりと口を開く。
「アンチノセイダデ」
「何を言っとる…」
「ハガキヲオクッテルノハ、アンチダデ。オラハ、オクッテナイシ」
龍巳は絶句した。
息子の言っている意味は理解している。あくまで嫌がらせをしているのはインターネットの奴ら、順平の言うところの“アンチ”とやらなのだから、誰のせいかと問われても「アンチのせい」としか答えられないのだ。
───だから順平の中では、困ってる近所の人たちも、これから巻き込まれる妹たちも、心を病んでしまった母も、代わりに頭を下げる父も、全てが「アンチのせい」で片付いてしまっているのだ。自分には関係ないから罪悪感など一切持てないのだ───
順平の小さな瞼の中で、異様に大きな黒目が狼狽える龍巳の姿を映している。まるで昆虫のように感情の見えない両の眼。もはや同じ人間かどうかも疑わしかった。
「…なあ順平。昨日な、金澤さんのとこにこんなハガキが届いてたんや」
そう言うと、まだ裁断していなかった例のハガキを息子に手渡す。
「もうお前だけの問題じゃなくなっとるんや。母さんや妹たちにも、ワシたちと同じ思いをさせたいんか、のぅ順平?」
息子は無表情のまま、ハガキの表裏をまじまじと見返している。
「お願いや順平、もう周りに迷惑がかかるような事はやめてくれ!インターネットを見るなとは言わんけど、syamuだか浜川だかの名前を出して、インターネットでおかしな事を続けるのはもうやめてくれや!」
「…」
「順平、お願いや…もうワシも母さんも、限界なんや…」
「…イヤイヤイヤイヤ…」
「…順平!こんだけ言っても分かってくれんのか!?…」
「イヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤ‼︎‼︎」
思わず龍巳は息子の両肩を掴む。どうして分かってくれないんだ、そんな悲痛な思いとともに、両腕に力が入ってしまう。
「…イヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤ…ミーンミンミンミンミン‼︎‼︎‼︎」
とうとうミンミン蝉と化した息子を目の前に、龍巳の瞳に絶望の色が広がる。
順平にとって、家族など飯・家・金以上の意味を持たないのだ。少なくとも自身の趣味を我慢してまで、守るようなものではないのだ。
だとしたら、自分は何のために30年も───
「ミーンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミン‼︎ミーンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミン‼︎‼︎」
その耳障りな鳴き声で、都合の悪い現実を掻き消そうとでもしているのだろうか。龍巳の腕の中でミンミン蝉は必死に鳴き続ける。
羽化することを拒んで土の中に何十年も籠り続け、両親という大樹の元で甘い蜜だけを吸っている幼虫が、メスを求めて土の中から一丁前に鳴き声だけは響かせる。そんな邪悪な生物が、浜順平という存在の本質だった。
───もうとっくにダメになってしまってたんだな、順平───
轟音と共に、軋むトロッコが迫り来る。
龍巳の両手に汗が滲む。
───もう終わりにしようか、なぁ順平───
プツリと何かが切れた音がし、両手の力がゆっくりと抜けてゆく。光を失った龍巳の昏い瞳の中で、小さな蝉がけたたましく鳴き続けていた。