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さきどり・スクェア(田中オフィス・スピンオフ)  作者: 和子


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№5_寒露を待つ候

「十月というのに残暑厳しき折と伺っております――」


その声は、ふとした風の流れに乗って、部屋の隅に置かれた古いラジオのように響いた。

話しているのは霊鳥・文一(ぶんいち)。『さきどり・スクェア』の神託を伝える白い鳥だ。

声は穏やかで、しかしどこか古雅な響きを帯びている。


「こちらの十月平均気温は十七度ぐらいである。日中過ごし易く、朝晩肌寒いという時期で、まさに受験勉強が(はかど)るの候である」


大学の校門で、先輩と待ち合わせしていた草薙市杵(くさなぎいちき)は、その言葉にふっと笑みをこぼした。

秋の陽光が、彼女の顔に斜めに差し込み、地面に影を長く引く。


「文一さん、受験勉強が捗るって……あなたに言われると、ちょっとプレッシャーね」


市杵は待ち人の姿を探しながら、周囲に視線をやった。

キャンパスの銀杏(いちょう)並木が、風に揺れながら金色の粉をまき散らす。

その向こうのベンチには、妹の田心(たきり)が分厚い英単語帳を広げ、真剣な顔で黙読していた。

さらにその隣では、湍津(たぎつ)がスケッチブックを膝に抱え、筆を走らせている。


「……あの子たち、ずっとついて来て知らん顔でやってるのね」

市杵は微笑みながら呟く。


文一の声が、秋風の音に溶けて応えた。

「三姉妹そろってお出かけとは珍しい。そなたらが“天羽々斬(あまのはばきり)”であった頃には、刃を研ぐ以外の修行はなかったであろうに」


「今は知識で磨くのよ」

市杵は軽やかに言って、再びノートを取出し読み返し始めた。

その横顔には、凛とした決意が宿っている。


外交官を目指している――

人と人、国と国を結ぶ“ことば”の力を信じて。


窓の外では、田心がくしゃみをした。

「寒っ……まだ十月なのに!」

湍津が笑う。「季節はちゃんと進んでる証拠よ」


文一の声がまた響いた。

「この時期どれだけ積み上げるかで、共通一次試験の明暗が分かれる――そう言っても過言ではない」


市杵は笑って答えた。

「未来の人たちも、同じ気持ちで机に向かってるかしらね」


その瞬間、三姉妹の間を柔らかな風が通り抜けた。

金色の銀杏の葉が舞い、文一がその中をひときわ白く飛び抜ける。


――四十五年後の皆様へ。

こちらは気温十七℃の秋。

受験の秋、学びの秋。

寒露を待ちながら、私たちは今日も、未来へと続く道を描いています。


ここは、西部新宿線多磨駅(たまえき)を降りてすぐの大学キャンパス広場である。

金木犀の香りが風に混じり、赤と黄の木々が秋の陽をまとう。

挿絵(By みてみん)

草薙市杵(いちき)は、志望している国立外語大学の見学に訪れていた。

だが、今日はどうにも落ち着かない。


というのも――妹たち、田心(たきり)湍津(たぎつ)が、なぜか当然のようについて来たからだ。


「大学の静かな環境だと、勉強が頭に入るかと思って…」

田心が、白いマフラーを指でいじりながら言う。

目は真面目そうに見えるが、言葉の裏にうっすらとした含みがあった。


「ここのロケーションいいわあ。スケッチには持ってこいね」

湍津はというと、スケッチブックを胸に抱えて、すでにベンチの角度を見定めている。

まるで写生大会に来た画学生のようだ。


――が。


市杵は知っていた。

この二人の目的が、決して“勉強”でも“スケッチ”でもないことを。


(こいつら、絶対に――私の“待ち合わせの相手”を見に来ただけだ。)


心の中でため息をつきながら、腕時計をそっと確かめる。

あと五分で、立花真彦(たちばなまさひこ)先輩が到着するはずだ。


その名を思い浮かべるだけで、胸の奥がわずかに熱くなる。

先月のオープンキャンパスで話しかけてくれたあの先輩。

背が高くて、声がやわらかくて――そして、市杵の目標である“外交官”という夢を、自然な言葉で肯定してくれた人。


なのに。


ベンチに座る湍津が、にやにや笑っている。

その隣で田心が、わざとらしく本を開いて言った。

「気にしないで、()()()はしないから…」


“お邪魔”にわざわざ傍点をつけたような声音。

市杵は眉をひそめて、二人を睨んだ。


「……あんたたち、ほんとに“神”なの? 性格、人間臭すぎるんだけど」


「だって、お姉ちゃんの“人間としての青春”って、興味あるじゃない?」

田心が無邪気に言い、

「スケッチの題材にもなるしね。『恋する女神像』とか」

湍津が筆を構えるふりをした。


市杵は頭を抱えた。


キャンパスの時計塔の鐘が鳴り始める。

まもなく午後二時。


風がひとひらの銀杏の葉を運び、彼女のノートの上に落ちた。

遠く、駅の方から背の高い影がゆっくりと歩いてくる。


――立花真彦。


その瞬間、妹たちは同時に声を潜めた。

「来た」

「ホンモノだ」


市杵は小さくため息をつき、顔を上げた。

「……おとなしくしてなさいよ。今日は、勉強の話をしに来ただけなんだから」


湍津が微笑んだ。

「はいはい、“外交”の練習ね」


金木犀の香りが、三姉妹の間をやわらかく通り抜けた。

そして、市杵の胸の奥で――神の血と、少女の鼓動が、同じリズムで静かに高鳴っていた。


「やあ、お待たせ。草薙さん、受験勉強は順調かい?」


その声を聞いた瞬間、草薙市杵くさなぎ いちきは、全身が一瞬かたまった。

振り返ると、木漏れ日の中に立つ立花真彦たちばな まさひこ――白いハイネックセーターにジーンズ。

挿絵(By みてみん)

柔らかい笑みと、どこか余裕を感じさせる眼差し。

――まるで、神話から抜け出た青年みたい。


「は、はいっ……順調、です!」

声が裏返り、言葉が少し転んだ。

自分でもわかるほど緊張している。


「やはり、ここは難易度高いですね」

なんとか落ち着こうと、用意してきた台詞を口にする。

「今日は、教えていただきたいことがあって……」


立花先輩は頷いて、ふっと微笑んだ。

「ちょうどいい。キャンパス内にカフェテリアがあるんだ。値段も安いし、見学も兼ねて一緒に行こうか」


――カフェテリア? 一緒に?


市杵の心の中で、小さな鐘が鳴った。

(先輩とお茶する――これは……デートなの?)

すぐに首を横に振る。

(ち、違うわ! 今日は“勉強の質問”に来たの。そう、真面目な用件!)


顔を上げ、キリッとした表情で言った。

「ぜひ、お願いします!」


そして、立花先輩の背中を追って歩き出す。

――風が、秋の金木犀の香りを運ぶ。

市杵の心拍も、風といっしょに少し速くなる。


 * * *


その一部始終を、遠くの木陰から田心たきりが双眼鏡で見ていた。

(動きがあった!)

すぐさま問題集を鞄に押し込み、隣の湍津たぎつに声をかける。


「湍津、ターゲットを見失うわよ!」


「ちょっ、待ってよ……画板が、片付かないの……!」

湍津は焦りながら筆を拭き、絵具を拭き取り、慌ててスケッチブックを閉じた。

手は絵具で少し赤く染まっている。


「大丈夫、先に行っていて! カフェテリアでしょ?」


田心は小さく“了解”と目で応えて、

制服のスカートを翻し、小走りで広場を抜けた。

目指すは――キャンパス中央のガラス張りのカフェテリア。


その頃、市杵は立花先輩の少し後ろを歩きながら、

(ああ、どうしよう……後ろ、絶対ついて来てる……)

と心の中でつぶやいていた。


だが、先輩の歩幅に合わせて歩くたびに、

緊張も少しずつ、秋の空気のようにやわらいでいった。


「ここが、大学の“昼の顔”なんだ」

立花先輩が指さした先――

ガラス越しに光が溶けるような、明るいカフェテリア。


学生たちの笑い声。

コーヒーの香り。

木々の影がゆれるテラス席。


市杵は小さく息を吸い込んだ。

(これが……未来の私が、通うかもしれない場所。)


彼女の頬に、午後の日がそっとあたる。

その瞬間、

背後の植え込みから――妹二人の気配が、忍び寄っていた。

挿絵(By みてみん)

カフェテリアの窓辺。秋の陽射しがガラス越しにゆらめき、木漏れ日が机の上に丸い光の斑点を描いていた。

市杵は少し緊張しながら、立花先輩と向かい合って座っていた。


「僕はコーヒー、君は何にする? 自販機で買ってくるよ」

先輩が椅子から立ち上がりかけた。


「あっ、大丈夫です。水筒に紅茶、入れて持ってきてます」

市杵は慌てて言い、バッグから小さな銀色の水筒を取り出した。

キャップを開けると、ふわっと香るアールグレイの匂い。


立花先輩はそれを見て、やわらかく笑った。

「えらいね。準備がいいな、草薙さん」


その笑顔に、胸の奥がじんわり熱くなる。

――そのときだった。


「立花くん!」

明るい声が後ろから響いた。

振り向くと、三人の女子大生が手を振りながら近づいてくる。

カジュアルな服装にナチュラルメイク、どの人も垢抜けていて、大人の雰囲気が漂っていた。


「立花くん、あら、かわいいお嬢さんね。妹さん?」

軽く笑いながら、ひとりが市杵を見た。


立花先輩は少し照れたように笑って言った。

「入学希望者の草薙さんだよ。来年、一緒に勉強するために見学に来たんだ」


「まぁ、そうなの? 受かるといいわね」

もう一人の女子が微笑み、

「立花くん、後でね」と手を振って去っていった。


女子大生たちの後ろ姿を、市杵は伏し目がちに見やった。

(きれいな人たち……。がんばらないと勝ち目がない――)

――勝つって、何に?

自分の心が問い返す。答えは出ない。


先輩が自販機へ向かい、コーヒーを買いに行く。

その間にも、何人かの女子学生が声をかけてくる。

笑顔で応える立花先輩。自然で、優しくて――誰に対しても同じ態度。


(さすが……モテるんだな、立花先輩。)

市杵は小さくため息をつき、

水筒の紅茶をひと口だけ飲んだ。

少し冷めて、味がぼやけている。


* * *


カフェテリアの反対側。

観葉植物の陰の席で、田心たきり湍津たぎつがじっと様子をうかがっていた。


「立花先輩の周りには、女性がいっぱいね」

田心がラスクをぽりりとかじりながら言う。


「……うん。お姉ちゃん、大丈夫かな」

湍津はスケッチブックを胸に抱え、心配そうに視線を向けた。


「負けるな、いちき姉!」

田心が小声で拳を握る。


湍津もつられて頷き、

「がんばれ……恋も、受験も」


二人の前のテーブルには、湍津が作って持ってきた小袋のラスク。

ぽつり、ぽつりと噛みながら、

彼女たちは観葉植物の向こう――

ひとり窓辺に座る姉の横顔を、静かに見守っていた。


その秋の午後、

カフェテリアの中には、紅茶の香りとコーヒーの湯気、

そして少しだけ切ない“受験前の青春”が、やわらかく混じり合っていた。


立花先輩がコーヒーを手に戻ってきたとき、

市杵いちきはすでにノートを開いていた。

ページの上には、昨日まで何度も繰り返して悩んでいた英文――

その横に、青いペンで新しいメモが走り書きされている。


「そう、わかったわ」

小さくつぶやく声に、立花先輩は少し首をかしげた。


「なにか、質問があったんじゃないの?」


市杵は顔を上げ、少し恥ずかしそうに笑った。

「きのうまで、全然理解できなかったんです。でも……今ノートを開いたら、すぐ分かったんです。不思議で」


先輩は優しく笑みを浮かべた。

「よくあるよね。難しいと思っていたことも、少し時間を置くと、ふっと見えてくることがある。

しっかり勉強してきた人ほど、そういう“ひらめき”が訪れるんだよ」


その言葉に、市杵の胸が熱くなる。

ノートを見つめながら、ぽつりとこぼした。

「私、感じたんです。大学の空気が……なんだか語りかけてくるようで。

こんな感覚、自宅や学校ではありませんでした」


(ちょっと舞い上がっちゃってるかな、私……)

そう思いながらも、もう止まらなかった。


「私、やっぱりこの大学に受かりたいです。

ここで勉強できたら、きっと自分が成長できると思うんです。

今日、先輩を訪ねてきて……本当によかった」


そう言うと、市杵は立ち上がり、深々とお辞儀をした。

「ありがとうございました」


立花先輩は少し驚いたように、しかしすぐに笑って言った。

「僕はまだ何も教えていないんだけど?」


市杵は頬を赤らめて、

「また、質問させてください」


先輩は自分のノートを取り出し、

一枚、小さく切り取った。そこに何かを書きつけ、差し出した。


「英語部の電話番号だと、僕がいないときもあるからね。

……これは寮の電話番号。二十時くらいまでなら、呼び出してくれると思う」


手渡されたメモ用紙。

そこに書かれた数字が、まるで秘密の暗号のように見えた。


「……ありがとうございます!」

市杵の心臓は高鳴っていた。

(電話、しよう。質問をちゃんと考えて……絶対に。)


ポケットにメモをそっとしまい、

市杵は軽やかに踵を返して歩き出す。

そしてカフェテリアの出口へ近づいた。


その瞬間――


「証拠は()がった! 恋愛現行犯でタイホする!」

突然、両腕を左右からつかまれた。


「ちょ、ちょっと!? 田心、湍津!?」


「受験生にあるまじきふるまい~!」

「お父さんに言っちゃおうかな~」


二人の妹は笑いながら、

きゃあきゃあと市杵をカフェテリアの外へと引っ張っていった。


観葉植物の間を抜け、秋の風が吹き抜けるキャンパスの道を通り――

そのまま三人は、夕暮れに染まる街へと消えていく。


向かう先は、大国主神社。

草薙家の灯りがともる、懐かしい家。


ポケットの中のメモをぎゅっと握りしめながら、

市杵は思った。


――きっと、これが始まりなんだ。

恋かもしれない。

でもそれよりも先に、私は未来へ向かっている。


夜風の中、

紅茶の香りが、ほんのりとまだ残っていた。


 * * *


夕暮れの風が冷えはじめ、三姉妹が大国主神社に帰り着くと、

拝殿の奥から、なにやら陽気な笑い声が聞こえてきた。


「……お父さん、誰か来てるの?」

市杵が靴を脱ぎながら言うと、廊下の向こうから母・櫛奈(くしな)が顔を出した。


「おかえりなさい。今ね、お客さんがいらしてるのよ」


「お客さん?」田心が首をかしげる。

「なんか、声が……ちょっと時代劇っぽいけど」


座敷の障子をそっとのぞくと、

確かにいた。


”ちょん髷”こそないものの、

縞の着物に旅の股引(ももひき)、そして見事な太鼓腹(たいこばら)

どこか愛嬌のある笑顔の男が、湯飲みを手に父・須佐男(すさお)と話していた。


「だれ、あの時代劇みたいな太っちょのおじさん。まさかウチの親戚じゃないでしょうね」

田心が小声で言う。


櫛奈はくすっと笑って、

「親戚じゃないわ。妖怪さんよ」


「……は?」三姉妹の声が見事に重なった。


「狸の妖怪さんなの。稲荷(いなり)神社には入れないから、ウチに泊まりに来たのよ」


三姉妹の顔が一気に曇った。

「妖怪……って、え、つまり、知らない中年男性が、泊まるってこと?」

「お母さん正気? 若い娘が三人もいるのに!」

「しかも狸!? 変身とかされたらどうするのよ!」


櫛奈は落ち着いた声で笑い飛ばした。

「大丈夫よ。ここはスサノオノミコトの居所(きょしょ)。そんな場所で悪さできる妖怪なんていないわ。

あの方は“貫太郎さん”っていうの。東北の方にいたんだけど、寒くなってきたから四国へ移動してるんですって。

歩きの長旅で、道中、神社を尋ねて休んでいくそうよ」


「……徒歩で旅する妖怪っているんだ……」

湍津が半ばあきれたように呟く。


「そりゃ、エコでいいけどさ」

田心は腕を組み、まだ納得していない。


そのとき、座敷からドッと笑い声が上がった。

「はっはっはっ、そうでしたそうでした!」

襖の向こうで、須佐男が腹をゆすって笑っている。


「むかすはなぁ、江戸んどぎゃぁはどごさでも『伊勢屋いせや稲荷いなりに犬のふん』てっての、そこらじゅうさあったもんだばって、東京とうきょうんなっても稲荷いなりだけば、あいかわらずえもんなぁ!」

(標準語訳:昔はねぇ、江戸の頃はどこでも“伊勢屋・稲荷に犬の糞”てぇ言って、そこいらじゅうに多かったんでございますがねぇ、東京になっても稲荷だけは相変わらず多いですねぇ!)


「はっはっは、それは面白い!」と須佐男の笑い声が重なる。

座敷の笑いはますます(にぎ)やかになり、

まるで古い落語の一席をやっているかのようだった。


三姉妹は、柱の影で顔を見合わせた。


「……ねえ、なんかもう、普通に盛り上がってるんだけど」

「お父さん、ああいうタイプ好きなのよね。酒が入ったら絶対一晩中しゃべるパターンよ」

「狸の妖怪と飲み明かす父って……どんな神様なのよ」


その夜、

境内の銀杏(いちょう)が風に鳴るころ、

大国主神社の座敷からは、笑い声と杯の音がいつまでも響いていた。


――訪問者、貫太郎。

その名は、この夜を境に、草薙家の“秋の怪談”として語り継がれることになる。


 * * *


湍津は、ぽかんと口を開けていた。

座敷の向こうでは、狸の妖怪・貫太郎が津軽弁でまくし立て、

父・須佐男が腹を抱えて笑っている。


「……なに言ってんだか、ぜんっぜんわからない……」

湍津は眉をひそめて首を傾げた。

「あれ、ほんとに日本語?」


障子の外では、

貫太郎の「おえもんなぁ!」という太い声が、

秋風と一緒に座敷を震わせていた。


田心たきりは笑いをこらえながら、

「お父さん、なんで笑ってるの? 同じ人間の言葉に聞こえないよ」とぼやく。


その横で、母・櫛奈くしなが静かに笑った。

「お父さん、日本の方言はマルチリンガルだからね」


「え、マルチリンガルって……」湍津が目を丸くする。


櫛奈は湯呑をそっと置き、

落ち着いた声で続けた。

「神格が高いと、日本中の信者から願い事を受けるでしょ?

東北から九州まで、いろんな人が“神頼み”に来るの。

そうすると、自然に全部の方言がわかるようになるのよ」


「なるほど……」

市杵いちきは納得しかけながら、すぐに訊いた。

「じゃあ、お母さんも昔は出雲言葉で話していたの?」


櫛奈は微笑んで、少し得意げに出雲弁(いずもべん)で話す。

「そりゃあ当然とうぜんだに。出雲いづもはのう、日本にほんじゅうの八百万やおよろずの神々(かみがみ)がつどところだに。神議かみはかりのをりには、あずま言葉も薩摩さつまの言葉も、かぜのごとくうての。

されども、日本やまと言霊ことだまにてつむがる言葉ならば、分からぬものなど一つもなぁに」 

(標準語訳:当然でしょ。出雲は日本中の八百万やおよろずの神が集まるところよ。

神会議のときなんて、東北弁も薩摩弁も飛び交うの。

でも日本語であれば、分からない方言はないわ)


「……八百万の神って、会議するんだ……」

湍津がぽつりとつぶやく。


そのとき、座敷のほうから貫太郎の声がまた響いた。

「ほいだば、わだぐすけ、明日は高尾ん方まで歩ぐど!」


須佐男がドンと膝を叩いて笑う。

「はっはっはっ、そうか、それはえらい旅だ!」


三姉妹は、再び顔を見合わせた。

「……お母さん、今の分かったの?」

「ええ、“明日は高尾まで歩く”って言ったのよ」


田心は目を丸くした。

「すご……ほんとに通訳いらないんだ」


櫛奈はにっこりと微笑み、

「母親業も、神様業もね、どっちも“言葉が通じること”が大事なの」


その言葉を聞いた市杵は、

自分がさっき立花先輩と交わした短い会話を思い出した。

――“言葉が通じる”って、

たぶん、それだけで心が近づく。


障子の向こうでは、また貫太郎の笑い声が響く。

神社の夜は、方言と笑い声と茶の香りで、

少しだけ賑やかに、日が落ちて行った。


 * * *


「なんか、出雲弁ってかわいいわね。お母さんがしゃべると」

田切がそう言って、湍津の腕をつついた。

母・櫛奈が微笑むと、どこか空気が柔らかくなる。あの独特のイントネーションが、風に揺れる稲穂のように耳に心地よい。


――そのとき。


「おう、昔クシナダの言葉聞いて、ワシもコロッといってしまった…」


低く渋い声が背後から響いた。


「わっ!びっくりした!」

三姉妹は一斉に振り向いた。いつの間にか須佐男が立っていた。大柄で無口な父が、いつの間にか背後に立っていると、本気で心臓に悪い。


「ただいま~」湍津が息を整えながら言う。「なんかお父さんに言うことあったような気がするけど、忘れちゃったわ」


須佐男は目を細め、ぽつりとつぶやいた。

「貫太郎さんが言うには、『(きよ)き姫神がまします同じ座敷に寝られません、物置(ものおき)でいい』というのだ」


「まあ、非礼があってはいけませんわ」櫛奈が静かに言った。「大妖怪なんでしょ?」


「うむ。野宿することも多いそうだ。雨露凌(あめつゆしの)げれば十分だそうだ。食事だけはしていって貰おう」


須佐男の言葉に、三姉妹は顔を見合わせた。

「物置でいい」というのもすごいが、「大妖怪」という響きもなかなか衝撃的だ。


やがて夕飯の支度が整い、三姉妹が居間に入ると――


そこには、座敷の隅に正座している大きな影があった。


狸である。

いや、正確には、狸が変化した姿――人の形をとってはいるが、耳のあたりには毛が立ち、どこか愛嬌がある。


「はは~!」

貫太郎は両手を畳につけ、平伏したまま声を上げた。


「姫神さまさおかれで、けっぱり元気でおわしますなぁ。

おらぁ、狸の貫太郎かんたろっちゅうあやかしでねぇ。

身のほど知らずながら、こん座敷さずうずうしくも上がらせでもろて、まんず失礼こいでます。

こったら立派な姫神さまがたと一緒に飯くえるごど、

孫子まごこの代まで語り継ぐべしごどでございます~!」

(標準語訳:姫神様におかれましては、ご機嫌麗しゅうございます。私は狸の貫太郎という(あや)かしでございます。

分不相応ながらお座敷まで上がりこんで、ご無礼(つかまつ)ります。

こうしてお食事を共にさせて頂きます名誉なことを、孫子まごこの代まで語りついでまいります~!)


その大仰(おおぎょう)な口上に、三姉妹はぽかんとした。


湍津が小声で(ささや)く。「ねえ……あれ、本気で言ってるのかな?」

田切は口を押えて笑いをこらえる。「うん、たぶん本気」

市杵は神妙な顔でうなずいた。「大妖怪って、やっぱりスケールが違うわ……」


櫛奈は穏やかにお(わん)にけんちん汁をよそいながら言った。

「まあまあ、そんなにかしこまらずに。狸さんも神の世の縁でしょ。さあ、どうぞ召し上がって」


貫太郎は顔を上げ、感極まったように鼻をすすった。


「ありがてぇ……ありがてぇ……」(訳:ありがたや……ありがたや……)


大国主神社の夜は、静かに、そしてどこか賑やかに更けていった。


 * * *


――翌日・出立――


朝の霧が、まだ社の石段をやわらかく包んでいた。

鳥の声もまだまばらな頃、貫太郎はすでに旅支度を整えていた。

挿絵(By みてみん)

「はぁ〜、名残なご惜しゅうのぉ……」(訳:はぁ、名残惜しいのぅ……)

彼は風呂敷包みを背に、腰をぽんと叩いた。着物の襟元には夜露がきらりと光る。


須佐男と櫛奈、それに三姉妹――市杵、田心、湍津――は、眠い目をこすりながらも玄関先に出てきていた。

須佐男が笑う。「まさか、こんな朝早うに出るとは思わなんだわ」


貫太郎は胸を張って言う。

一宿一飯いっしゅくいっぱんのごおんは、けしてわすれねぇもんです。

せめでぇおれぇさせでもらおうとおもてだば……ほれ、こっちの“文一ぶんいち”さまがあらわれだんず」

(訳:一宿一飯の恩義、決して忘れませぬ。

せめてものお礼を、と思うておりましたら……こちらの”文一”さんが現れました。)


「クルルル……」

低く鳴き声がして、石段の下に白い影が立った。

文一、夜明けの光の中に浮かび上がるその姿は、まるで霧を割るようにゆらめいている。


市杵が目を丸くして言った。

「文一、夜中は目が見えないんじゃないの?」


すると文一は、首を少しかしげてから静かに言葉を返した。

「目は見えぬが、話はできる。昨夜はのう、貫太郎殿と世の中のことを語り合っておったのじゃ。

この世の理、人の栄枯盛衰、(かみ)(あや)かしも避けられぬ時の流れなどをな」


須佐男が目を細めた。「……ほう、哲学の夜会とな」

湍津が小声で「夜中に妖怪会議してたの?」と田心に囁くと、田心は「聞こえるってば」と肘でつついた。


貫太郎は深々と一礼した。

文一ぶんいちさまには、世のよのなかのこと、いろいろおせえでもろたんず。

ほんでもってなぁ、ずうずうしいばって――このごおんむくいでぇおもて、ちっとばしか妖術ようじゅつ披露ひろうさせでもらうはんで」

(訳:文一様には、いろいろと世の中のことを教えていただきました。それで僭越ながら――

このご恩に報いるため、ちょっと妖術をご披露させていただきます)


彼は懐から古びた瓢箪(ひょうたん)を取り出した。

蓋を外した途端、淡い金色の霧がふわりと立ち上る。

朝の光に反射して、庭の(さかき)の葉が揺れた。


櫛奈が思わず息を呑んだ。

「まあ……」


その霧の中に、瞬く間に稲穂のような光の筋が生まれ、風にそよぐようにして境内を包んでいく。

貫太郎はにやりと笑った。


「秋の豊穣(ほうじょう)、五穀の加護……せめて、これをお礼に」


霧が消えると、社の庭の隅に黄金色の稲穂が一束、静かに立っていた。

まだ青い朝の風に、穂先がかすかに揺れていた。


櫛奈は両手を合わせて言った。

「すごい……ありがとう、貫太郎さん」


狸の妖怪は、照れたように鼻をこすった。

「いやいや、まだこれは小手調こてしらべだば」


夜明けの光が、神社の庭の玉砂利をやわらかく照らしていた。

門の外れには、貫太郎の姿があったが、その背に流れる気配は、もはや昨夜のとぼけた狸のものではなかった。


「……さて、そろそろ正体を明かすといたしましょうかの」


その声は低く、空気に重みをもたらした。

瞬間、貫太郎の背から、淡い煙のような妖気が立ちのぼる。

ふっくらした腹のあたりが、ゆっくりと光を帯びていく。


「――雲外鏡うんがいきょう

挿絵(By みてみん)

名を名乗ると同時に、その腹が鏡面のごとく変じた。

銀とも水ともつかぬ光がゆらめき、そこには見たこともない世界が浮かび上がる。

朝靄の中に、時の彼方、まだ見ぬ国々の風景が、波のように移ろい映った。


「腹に千里眼の鏡を宿す(あや)かし――」

須佐男が息を呑む。

「時空を越えて、ありとあらゆるものを見通すか……」


雲外鏡は静かに頷いた。

八咫鏡(やたのかがみ)に次ぐ神通力を持つと申されておりましてな。

拙者……いや、拙狸せったぬきごとき身に過ぎたる器よ」


その腹の魔鏡(まきょう)には、ぼんやりとした影が映っていた。

老女のような、あるいは老神のような――。

年輪をたたえたその顔は微笑み、遠くから呼びかけるように唇を動かした。


市杵は思わず息を呑む。

「……あの方、どなたなの?」


雲外鏡はしばし沈黙し、やがて柔らかに言った。

「これは、わしの本来の力にございます。

現し世の人を照らせば即ち、過去でも未来でも鏡の向こうのにその姿を見せる……」


庭の朝の光が淡く差し込む中、雲外鏡の腹に映る世界は、まだ見ぬ未来を静かに揺らしていた。


「ほら見てみよ。妖術(ようじゅつ)には我輩も加勢しておるのじゃ」


文一が、ふわりとその鏡のそばに現れる。羽根の白さが光に透け、時折かすかな光の軌跡を残す。


「今、鏡に映るは……おぬしらには馴染みの薄い、45年後の未来の世界じゃ。

そして、話す相手は……()()()()であるのじゃ」


市杵は目を見開いた。自分が話している――いや、話している未来の自分自身の姿が、鏡の向こうにある。

心臓が早鐘のように打つ。


文一は静かに首をかしげ、言葉を重ねる。

「未来の(おのれ)は、今の己とは違う。されど道は同じ。

鏡を通じて、己に問いかけ、己を知るのじゃ――さあ、市杵よ、よく見よ、よく聞け」


雲外鏡の中で、未来の市杵が微笑む。

その微笑みに、現世の市杵は胸の奥で小さな決意を固める。


「これが……未来の私……」


朝の風が、鏡の光を揺らし、庭に静かなざわめきを運んだ。

文一はそっと肩越しに囁く。

「さあ、これから始まるぞ、己との対話が――」


鏡の女性が話しかけて来る。

「私は『立花市杵(たちばないちき)』といいます。外交官や海外駐留大使の仕事をしているのよ。

――あなたはもしかしたら、四十五年前の私なのかしら?」


草薙市杵は答えるより先に質問で返す。

「私は未来には海外駐留大使になるのね。それと、あの……立花さんということは……旦那さんは『立花真彦』さんですか? 立花先輩と結婚できるのね!」


脇から妹・草薙田切が声を挟む。

「市杵、誰と話してるの?」


湍津も声を挙げる。

「この間のファンレターみたいに、またタイムトンネルがつながったのね!

そっちの市杵はもうおばあさんなの?」


二人の声に反応した鏡の向こうの立花市杵は、声を弾ませた。

田心(たきり)湍津(たぎつ)なの?懐かしい!」


鏡の中の立花市杵は続ける。

「あなたたち、このまま頑張んなさい。みんな夢は叶うから!」


草薙市杵が問いかける。

「四十五年後の未来は、田切と湍津はどうしている?」


鏡の中で、立花市杵は満面の笑みで答えた。

「二人とも、女性宇宙飛行士と日本画家になって海外で暮らしているわ!

――お父さんとお母さんも80歳を過ぎても元気にやっているわ」


三姉妹は、未来の自分たちの姿を信じるようにじっと聞き入った。

立花市杵は、四十五年前の少女たちに励ましの言葉を送った。


「人生には冒険もあるけれど、夢を信じて進めば、必ず道は開ける。あなたたちならできるわ!」


雲外鏡の丸いお腹に向けて、三姉妹の弾むような声が飛ぶ。

「未来って、なんだかすごいのね!」

「本当にそんな時代が来るの?」

「信じられないけど……なんだかワクワクする!」


その横で、文一が満足げな声を発する。

「イイね!我輩の神通力は、雲外鏡に遠い未来を見せる奇跡をもたらしたのだ!」


すると、鏡に向かって田切がちゃっかり口を挟む。

「ねえ未来の市杵! そっちではテストって、もう無いの? 無いって言って!」


「あるわよ!」と、鏡の中の市杵が即答。


「むしろ、もっと難しくなるの」


「えええぇ〜〜っ!?」

三姉妹の悲鳴が境内に広がった。


須佐男と櫛奈が笑っている。鏡の中の市杵も肩を揺らして笑っている。


「なに笑ってるのよ!」と、こちらの市杵が頬をふくらませて文句を言うと

「でも大丈夫。あなたたちは乗り越える。だって、私は今こうして生きてるんだから」

未来の市杵はニッコリ微笑む。彼女の存在が未来の証明なのだ、と言わんばかりに。


三姉妹はしばし言葉を失った。


その静寂は、未来を信じようとする“希望”の音だった。


「……ねえ、未来のいちき姉」

草薙湍津が、少し照れたように言った。

「私、本当に絵描きになれるの?」


鏡の市杵は(いと)おしそうに告げる

「なれるわ。あなたの絵は、世界のどこに出しても通用する。胸を張って」


「じゃあ、宇宙飛行士も……?」と田切。


「もちろん。宇宙から見た地球の話、私たち、何度も聞いたわ」


三姉妹は顔を見合わせ、まるで秘密の合図を交わすように笑いあった。


その時、雲外鏡に(もや)がかかり始めた。時間の接続が、静かに終わろうとしていた。


「……もう、切れるの?」


雲外鏡のおぼろげな影はまだ言葉を発する。

「そうみたい」

その影は深く一礼した。

「ありがとう。みんな、またいつか、夢の続きを話しましょう」


三姉妹は精一杯声を張り上げる。

「未来のおばあちゃん、バイバーイ!」

「頑張るから見ててね!」

「立花先輩と結婚できるなら受験だってへっちゃらー!」


最後の叫びに、鏡の中の影は笑っているようであった。

「そこは、もうちょっと勉強にも力を入れなさい」


朝の風が、境内を渡った。

白い光が貫太郎の姿を包み、次の瞬間、彼の影は霞のように溶けて消えた。


残されたのは、湿り気を帯びた石畳と、ほのかな鏡の残光――

それが、確かに大妖怪「雲外鏡」がここにいた証だった。


 * * *


「あ〜あ、いなくなっちゃった……」

湍津がぽつりと呟く。


不思議な体験をした草薙三姉妹――市杵、田心、湍津は、あたりをきょろきょろと見回した。

貫太郎の姿も、文一の影もない。

境内には、草薙家の五人だけが立っていた。


「また春になったら、南から北へ旅してくるのかしら?」と田心が言う。

「うん、きっとそうよ」と市杵が応える。

「そしたらまたウチに泊まってもらって、未来の鏡、見せてもらいたいわね」


来た当初はあんなに警戒していたくせに――と、櫛奈は苦笑いする。

まったく勝手なものである。


そのとき、須佐男が低い声で言った。

「……市杵、さっき誰かと結婚するとか言っていたようだが、詳しく話してみてくれないか?」


「えっ、ええっ⁉」

市杵の顔が見る見る赤くなる。


櫛奈も追い打ちをかけるように微笑む。

「まあまあ、もうすぐ受験だというのに、ずいぶん余裕ね。

だれかとお付き合いしているの?」


「なにっ⁉」

須佐男の顔色が変わる。

目の奥が、まるで稲光のように鋭く光った。


慌てたのは妹たちだった。

田心がすかさず前に出て言う。

「そ、そりゃあ、だれでも結婚願望とかあるでしょ?

ほら、雲外鏡に『いい旦那さんが見つかりますように』って願かけたのよね〜!」


「そうそう!」と湍津もすぐに乗る。

「それより、朝早く起こされちゃったから、私たち2度寝しま〜す。

睡眠不足はお肌によくないですからね!」

そう言って、そそくさと家の中へ逃げ込んでいった。


「……()せぬ!」

須佐男は腕を組み、眉間に皺を寄せた。


櫛奈はそんな夫を横目に、(まあどちらも頑張りなさい)と心でつぶやいた。


ピンチからどうにか脱した市杵は、ほっと息をつきつつ妹たちの背を睨む。

「なあに、あんたたち。貸しでも作ったつもり?」


田心がニヤリと笑う。

「立花先輩ルートが破綻しちゃうと、私たちの未来も変わっちゃうでしょ?」


湍津も頷いて、少し得意げに言った。

「未来のテストもなくなるどころか、さらに難しくなるっていうし。

私たち三姉妹、協力して頑張ろうよ」


市杵は思わず吹き出した。

笑いながら、二人の肩を軽く叩く。


「……しょうがないわね。じゃあ、共闘成立」


三人は顔を見合わせ、こっそり握手した。

こうして――草薙三姉妹の未来へ向けた”共闘の盟約”が、朝の光の中で静かに結ばれたのであった。

ーーまたいつかーー


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