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さきどり・スクェア(田中オフィス・スピンオフ)  作者: 和子


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10/18

№8_サクラの感謝祭~3姉妹の時間旅行

「主要登場人物プロフィール」

前回の更新から2ヶ月以上の間があきましたので、物語の復習を兼ねて、主要キャラクターのプロフィールを改めてご紹介します。


本作の序盤、「現代」として描かれているのは1982年(昭和57年)です。

熾烈な受験戦争を戦い抜き、この春から晴れて「女子大生」となった三姉妹。神話の因縁を背負いながら、80年代を駆け抜ける彼女たちの設定をぜひおさらいしてください。


草薙家の人々と神託の使者

草薙くさなぎ 市杵いちき / 18歳

別作品の作中のキャスト・立花市杵の45年前の姿。かつては妹たちと共にスサノオの最強兵装「天羽々斬<あめのはばきり>」という一振りの剣であったが、アマテラスの神通力で分離され、三女神となった。後にアマテラスの許しを得て剣に戻り、ヤマタノオロチ討伐に貢献した過去を持つ。

【現在】 東京外国語大学に合格。外交官という知的な未来を見据える。


草薙くさなぎ 田心たきり / 18歳

三女神の一人。

【現在】 医学の道、さらには宇宙飛行士という壮大な夢を追い、東京大学医学部に現役合格した才女。


草薙くさなぎ 湍津たぎつ / 18歳

三女神の一人。

【現在】 日本画の巨匠を目指す芸術家肌。東京藝術大学という難関を突破し、創作の道へ進む。


文一ぶんいち / 年齢不詳

天照大神より遣わされた「神託の霊鳥(文鳥)」。三姉妹を志望校合格へ導くための教育係。性格モデルは、田中オフィスの水野幸一氏らしい。


草薙くさなぎ 須佐男すさお / 年齢不詳

スサノオノミコトの現世体。東京・月島にある「大国主神社」の神主として、下町の片隅で家族と(地声は向こう三軒両隣まで響くが)静かに暮らしている。


草薙くさなぎ 櫛奈くしな / 年齢不詳

スサノオの妻、クシナダヒメの現世体。80年代の日常を支える専業主婦だが、その実、アマテラスから「三女神の世話」と「夫・スサノオの監視」という密命が託されている。


三姉妹全員が難関大学への切符を手にし、物語は新しい季節へと動き出します。1982年の春、女子大生となった彼女たちを待ち受ける運命とは――。


春。万物が芽吹き、浮かれた人間どもがやれ桜だ新生活だと騒ぎ立てる、実に騒々しくもめでたい季節である。


さて――大変お久しぶりである。


我輩、神託の霊鳥・文一。かしこまりにかしこまり、皆様のご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じ上げる次第である。もっとも、このような仰々しい挨拶が必要かどうかについては、我輩自身もやや疑問を抱いておるが、そこはそれ、格式というものがあるゆえ致し方あるまい。


まずは吉報を一つ。


草薙家の三姉妹――市杵(いちき)田心(たきり)湍津(たぎつ)――このたび見事、全員志望校に合格を果たした。


うむ、実にめでたい。


……まあ、当然であるな。我輩が直々に指導していたのだからして。


かくして三姉妹は、この春より揃って花の女子大生となる運びと相成った。神の分霊でありながら受験戦争を戦い抜くとは、まことに奇妙奇天烈、しかしながら現代という時代においては、これもまた一興と言えよう。


さて――ここから先は、少々厄介で、いささか騒がしく、そして何より面白き物語の始まりである。


心して読むがよい。



ーー独立派の蜂起ーー


1982年、春。

花の女子大生ライフが幕を開けるはずのその日、月島・大国主神社の居間には、ヤマタノオロチも逃げ出しそうな不穏な空気が渦巻いていた。


「ならん、絶対に認めんッ! 家から通いなさいッ!」


草薙家の大黒柱にしてスサノオノミコトの現世体、須佐男の怒声が炸裂した。その衝撃波で、年季の入った障子はびりびりと震え、庭先の植木鉢が物理的に数センチ跳ね上がる。神の権能の無駄遣いである。


時代は1982年。佃島・月島エリアは、まだ地下鉄という文明の利器に見捨てられていた。銀座へ出るにもバスに揺られるしかなく、「文明開化とは、バスを待つ時間の長さのことか?」と問い詰めたくなるような交通事情なのだ。


「だからね、お父さん。これを見てちょうだい」


長女・市杵が、まるで外交交渉の公文書のように広げたのは、文京区某所のアパートの見取り図だった。

「風呂トイレ付き、日当たり良好。三人で分担すれば家賃も現実的。これぞ『新生活応援物件』の聖地よ」


「三人で住めば、寂しくないし――」


「ならんと言うておる! 門限はどうする! 誰が神格を保つ生活を管理するのだ!」


最後の一文に本音が漏れているが、須佐男は頑として首を縦に振らない。


「あら、あなた」


ここで、最強の監視役・櫛奈が参戦した。湯呑を置く「コトッ」という小さな音が、須佐男の怒声よりも重く響く。

「遅くなると銀座界隈も物騒よ。女の子三人が夜道を歩くより、大学の近くに固まって住む方が、かえって安心だと思わない?」


完璧なロジック。慈愛に満ちた微笑み。だが、その目は「黙って承諾しなさい」と語っている。


しかし、今日の須佐男は頑として譲らない。

「ダメなものは、ダッメーーーーー!」


もはや議論ではない。神話級の駄々っ子である。


「……はあ。やれやれ」

市杵は、遠い目をして肩をすくめた。

「まだ学生の身分だものね。保護者スポンサーの意向には逆らえないわ」

その達観した物言いは、45年後の自分を見通しているのか、あるいは数千年生きている神の余裕なのか。


だが、ここで黙っていないのが三女・湍津である。

「市杵と田心は電車で本でも読んでればいいでしょうけど、私は違うの。デッサン! 創作! 芸術は爆発なのよ!」


ずい、と父親の鼻先に身を乗り出す湍津。

「私、決めたわ。大学に寝泊まりする」


「……はい?」

須佐男の目が点になった。


「いやいやいや」

次女・田心が思わず吹き出す。

「湍津、アンタいくら野生児でも、上野の山で野宿する気? 風邪ひくわよ」


「生命の危機を感じた時は、藝大の保健室を占拠してマイルームにするわ」


「そこはアンタが武力制圧しちゃダメでしょ。保健・衛生のための公共施設なのよ」


「医学部の田切が、そこをいい感じに利用しなさいよ。医学の研究材料に溢れているわよ?」


「勝手に担当医、兼、共犯者にしないでくれる?」


三姉妹の会話は、すでに「自宅通学」という前提を置き去りにして、あらぬ方向へと超加速していく。


その光景を眺めながら、須佐男は深々と、それはもう深々とため息をついた。

「……お前たちはなぜ、そう……極端なのだ。もう少し交渉して『歩み寄る』という考えはないのか……」


神主のぼやきは、三姉妹の「保健室改造計画」の喧騒にかき消されていった。


1982年、春。

神話よりもややこしく、教科書よりも騒々しい草薙三姉妹の新生活は、こうして前途多難に幕を開けたのである。



ーータイミング悪くて命()()ーー


1982年、春。念願の大学合格を果たした三姉妹を待っていたのは、バラ色のキャンパスライフ……ではなく、片道60分の「通勤地獄ならぬ通学地獄」という過酷な現実だった。


「通学に往復2時間って、もはやちょっとした旅行よね。私は更に遠くて往復4時間…」

「解剖学の予習どころか、有楽町のラッシュアワーで揉まれて体力尽きるわ」

「デッサンの時間が……私の芸術的パッションが、移動時間という虚無に吸い込まれていく……」


どんよりとした暗雲が立ち込める草薙家の居間。その時である。

障子の向こう側が、昭和のCMもびっくりの神々しさで発光した。


「今の君は~ピカピカに光って~! 神託の霊鳥、文一である! (ひざまず)き、(あが)め奉るがよい!」


バサァッ! と、自称・優雅な旋回を決めて一羽の文鳥が舞い降りた。

文一の脳内シミュレーションでは、ここで三姉妹が「文一様、合格させていただきありがとうございます!」と涙ながらに拝謁の喜びを表すはずだったのだが……。


市「…………」

田「…………」

湍「…………」


無言。圧倒的なまでの低温。特に芸術家志望・湍津の視線は、もはや絶対零度を通り越して殺意に近い。


「おい」

「ぴっ!?」


次の瞬間、文一の小さな体は、湍津の「芸術家(※握力強め)」な右手にガシッとホールドされていた。


「……合格させやがって」

「さ、させやがってとは何事か!? 感謝と畏敬の念が足りな――」

「合格させたんだから、最後まで責任取れよなッ!」


ギュウウウウ。


「ぎゃああああ! 我輩のパーフェクトな頭蓋が! 神託の受信機が歪むううう!」


「いい? 私たちは自立の時を迎えたの」

湍津が、獲物を狙う鷹のような目で顔を寄せる。

「お父さんに『アパート暮らしを許可しろ』って伝えてこい。神託として!」


「な、なぜ我輩がそんな命懸けの特攻を……?!」

「行け」


即答である。

文一は震えていた。本来なら「文一様のおかげで東大に! 外大に! 藝大に!」と頬ずりとハグ攻めにされるはずが、現実は「逆恨みによる焼き鳥一歩手前」である。


「解せぬ……あまりにも理不尽である……」


1982年、春。花の女子大生ライフを目前にした三姉妹の前に、一羽の文鳥が「神の使い」として舞い降りた。……が、その扱いは神話的な威厳とは程遠いものだった。



ーー上意である!ーー


「ま、待て! 待たれよ諸君! 我輩を振るな、酔うではないか!」


湍津たぎつの「芸術家(※握力強め)」な右手に、まるで特売日の大根か何かのようにぶら下げられた文一が、必死に短い羽をバタつかせた。


「本日参ったのはな、アパートの更新料だの敷金だの、はたまた礼金がどうのという世俗的な交渉ではないのだ!」


ぴたり。三姉妹の動きが止まった。

長女・市杵のこめかみに、ピキリと見事な青筋が躍る。


「……は?」

市杵の声は、1982年の春風を、瞬時に冬に逆戻りさせたようなシベリア寒気団の只中へと変えた。

「アパートの話じゃないなら、あんたに用はないわ。……湍津、ヤキトリ確定ね。台所からネギとタレ持ってきて」


「ちょ、待て! 待たれよ! 話を、我輩の尊い話を聞けいッ!」


文一は、文鳥の小さな脳細胞をフル回転させて察した。

目の前の三人は、かつてあの八岐大蛇ヤマタノオロチをズタズタのバラバラに解体した神剣「天羽々斬(あめのはばきり)」の化身。もし彼女たちのストレスが頂点に達し、三位一体の怒りが爆発すれば、1982年の日本列島が文字通り真っ二つに叩き斬られかねない。


「三秒待ってやる」

湍津が、冷酷に指を三本立てた。

「納得させられなかったら、今夜の草薙家の食卓に一品添えることになるから」


「いーち」

「にぃー」


「待て待て待てええい! ()()()()(アマテラス)の御言葉である!(みことのり)であるぞッ!!」


その「最高権力者」の名が出た瞬間、三姉妹は彫像のように静止した。

「……アマテラス様の?」


「そうである! 恐れ多くも(かしこ)くもだ! お前たち、日の本の最高学府に学ぶというのであれば、まずはそのオリジン……江戸の『昌平坂学問所』を知るべしという仰せだ!」


三姉妹は、揃って「はあ?」と首を傾げた。「なんそれ」「それって美味しいの?」という、偏差値の無駄遣いのような顔である。


文一はここぞとばかりに胸(※胸肉)を張り、ノリノリで羽を広げた。

「時は寛政二年! 1790年! 江戸幕府が設立した官立の聖地! 学問のセンター・オブ・ジャパン! つまりだ、現代の大学に通う前に、まずは“最高学府とは何たるか”をライブ感覚で学ぶ必要があるのだ!」


沈黙。

五秒後、市杵が代表して、氷の微笑とともに言い放った。


「要するに?」


「我輩のタイムトリップ能力を使い、江戸時代に行くぞ! ハイ、決定ッ!」


「「「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」」」


三姉妹の絶叫が月島の空にハモった。

「話飛びすぎでしょ!」

「通学時間の解決が先! 現実逃避させないで!」

「タイムワープとか、設定が急にSFじゃない!」


「ぬうう! 順序が違うのだ順序が! 文句は江戸の空の下で聞く!」

「違わないわよ!」

「むしろ時系列の暴力よ!」


ぎゃあぎゃあと罵声が飛び交う中、突如として四畳半の空気が陽炎のようにぐにゃりと歪み始めた。


「……え、ちょっと、部屋がピンク色に光ってない?」

「まさか、もう発動してるの……?」

「待って、心の準備が、メイクがまだ――!」


「では行くぞ! 昌平坂聖堂へ、時空跳躍タイムワープである!」


「「「だから勝手に決めるなああああああ!!」」」


1982年の月島。大国主神社の居間から、三姉妹と一羽の文鳥は、春の嵐とともに江戸の空へと吸い込まれていった。

彼女たちの「花の女子大生ライフ」は、思わぬ方向に――というか、時代そのものをブチ抜いて、斜め上のスタートを切ったのである。



ーー享保七年(1722年)ーー


1982年の月島・大国主神社の居間では、主の草薙須佐男が、いまだに解消されぬ一抹の不安を抱え、眉間に深い皺を刻んでいた。


娘たちの通学路は、東京のど真ん中を貫いている。築地、銀座、有楽町――。昭和57年の華やぐ繁華街を抜けていくのは、うら若き乙女にはあまりに誘惑が多い。


「『新入生歓迎コンパで、ちょっと飲みすぎちゃってぇ~』なんて真っ赤な顔をして、得体の知れぬ男に玄関先まで支えられて帰ってくる姿が目に浮かぶようだ……!」


須佐男の脳内では、すでに最悪のシミュレーションが上映されている。「特に、あの湍津ならありうる……!」と独り()ちると、すかさず妻の櫛名が、静かに、しかし釘を刺すように言葉を添えた。


「市杵だって、田心だって心配ですよ。あの子たちは、一度何かに夢中になると周りが見えなくなりますから」


神職夫婦が、愛娘たちの「1982年の夜遊び」を真剣に案じていたその頃。

当の娘たちの部屋では、自称・神の使いが三姉妹を「こ面倒(メンド)くさい時空イリュージョン」へと引きずり込んでいた。親の心子知らず、というよりは、もはや「親の心配は時空の彼方」である。


しかし、須佐男よ、心配はご無用。

娘たちが放り出されたのは、不純な動機渦巻く合コン会場でも、浮ついたディスコでもなかった。


1982年から時空を飛び越えた先――。

そこはネオンの瞬きも、喧騒けんそうな電子音も存在しない。

ただ、張り詰めたような静寂と、凛とした気品が支配する、享保年間の静謐な江戸の空気だったのである。


---

「……ちょっと、戻りすぎじゃないの、これ」


市杵いちきは、困惑を隠せない様子でゆっくりと辺りを見回した。

目に飛び込んでくるのは、磨き抜かれた畳、繊細な細工の障子、低く整えられた座敷。そして鼻腔をくすぐるのは、1980年代の芳香剤とは明らかに違う、深みのある香木の匂い。


「ここ……もしかして、大奥?」

田心たきりが声を潜めてつぶやく。


湍津たぎつもキョロキョロと周囲を偵察していたが、ふと自分の着ているものに気づいて硬直した。

「ちょっと待って、この格好……」


見れば三姉妹揃って、質素ながらも品良く整えられた小袖を纏い、髪はきっちりと結い上げられている。どこからどう見ても、江戸城に仕える「大奥女中」そのものの風体であった。


「……なにこれ。新手の仮装大賞?」

「いや、質感からしてマジのやつね」


そこへ、部屋の隅から不敵な高笑いが響いた。

「ふはははは! お似合いであるぞ諸君!」


見上げれば、文一が羽ばたきもせず、空中でピタリと静止して「ホバリング」している。

「ここは享保七年! 大奥の女中部屋である。さあ、周りを見よ!」


言われるままに三姉妹が視線を走らせると、そこには異様な光景が広がっていた。

廊下を歩く女中。雑巾がけに精を出す女中。重そうな荷を運ぶ女中。

その全員が、まるでビデオのポーズボタンを押されたかのように、動作の途中でピタリと止まっているのだ。


「……動いてない?」

市杵が眉をひそめる。田心が目の前の女中の鼻先に手を振ってみたが、瞬き一つしない。


「私のハートはストップモーション……? 特撮かしら」

「その通り!」

文一がドヤ顔で空中で一回転した。

「現在、この空間の時流は我輩の管理下にある。いわば、新入生のための“親切丁寧な説明タイム”であるな!」


「便利すぎない? 設定に無理があるでしょ」

「ズッこいどころの騒ぎじゃないわね。物理学的にどうなの?」

三方向から冷ややかなツッコミが入るが、文一はどこ吹く風だ。


「これからは、我輩はお前たちのナビゲーターとして常にそばにおる! 必要なときは、このように周囲の時空を停止させて、適切なアドバイスと物理的なサポートができるようになるのだ!」

「……“ようになる”って何よ。最初から使いなさいよ」

「安全第一でしょ、普通」


「そこでだ!」

文一がもったいぶって羽を広げる。

「これには『チャレンジ制』を導入する!」


「出たわね。絶対ロクでもないやつ」

「聞くだけ無駄な気がするけれど……」

三姉妹の信用は、すでに1982年に延伸計画の進む地下鉄工事現場よりも深く沈んでいた。


「よいか、ポーズを取るのだ!」

文一は無視して実演に入った。くるりと横を向き、片翼をパタパタと小刻みに振り、くちばしを思い切り「きゅっ」と尖らせる。


市「…………」

田「…………」

湍「…………」


静寂。

「……何その、人を小馬鹿にしたポーズ」

市杵が真顔で問う。

「あまりにも腹立つビジュアルだわ」

湍津の拳が、再び文一を「むんず」しそうな勢いで震える。


「違うわい! これは由緒正しき『時空停止の型』であって、決してふざけているわけでは――」

「嘘ね。ネーミングも雑だし」

「チャレンジ制って、要は私たちがその変なポーズをしなきゃいけないってこと?」


「ぬううう……! ともかく! このポーズを完璧に取れば時空が停止する! つまり、危機回避が可能となるのだ!」


「……危機回避ねぇ」

市杵が呟き、田心が「例えば?」と問い返した、その時。


ぴしり。

空間に、ガラスが割れるような微かな震動が走った。


「……あれ?」

湍津が顔を上げる。カタン、とどこかで物が落ちる音が響き、止まっていたはずの女中の指先が、わずかに震え始めた。


「ちょっと待って、これって――」

「説明タイム、終了である!」

文一が、あまりにもあっさりと宣言した。


「えっ!?」

「では実地研修に入る! よいか、大奥でしくじれば即お仕置き、あるいは島流しであるぞ!」


「ちょっと待てえええええ!!」


三姉妹の絶叫が重なるのと同時に、止まっていた世界が轟音を立てて動き出した。1722年の大奥という名の戦場に、彼女たちは放り出されたのである。



ーー大奥サバイバルーー


「今はとにかく、この場の()()に馴染むわよ」


長女・市杵が地を這うような低音で指令を下した。

「擬態、ステルス、日常系、なんでもいいわ。後でファミレス……じゃなかった、女中部屋で反省会ね。散れ!」


「「了解!」」


対応、爆速。さすがは元・神剣。彼女たちの適応力は、1982年のハイテク技術をも凌駕していた。


市杵は、そばに置かれていた「(こしき)」をひょいと持ち上げた。見た目はスレンダーな今どきの女子大生だが、重心の置き方に一切の無駄がない。完全に「蒸し器を100年扱ってきたプロ」の所作である。


一方、次女・田心は気づけば雑巾を手に、臨床実習さながらの真剣な眼差しを柱に向けていた。

「……とりあえず、拭くか(マイペット無いのかしら)」

医学部志望の悲しき性か、彼女の周囲だけ妙に衛生レベルが跳ね上がっていく。


そして、最も「現場」に馴染んでいたのが三女・湍津だった。

「なんで私、こんな(たすき)がけがしっかり出来てんのよ!」

文句を言いながらも、(たもと)をきっちり留め、腕まくりまで完了している。どう見ても女中見習い……いや、即戦力の女中頭候補である。


庭を見ると、同僚の女中たちが畳を干していた。

「……あれ、やるか。すいませーん、この部屋の畳も出しちゃいますかー?」

1982年のノリで、ごく自然に声をかける湍津。

「全部持ってきてー!」という返事が返るやいなや。


「了解ー! よいしょっ!」


湍津は畳一枚を両手でひょいと持ち上げ――。

そのまま、力持ちの権化のように頭上へ掲げた。


「……えっ?」

近くの女中が、持っていたハタキを落とした。畳は本来、当時の大人の女性が二人がかりで運ぶ重労働の象徴である。それを、この新入りの娘は寄せ場人足のように、しかもにこやかに運んでいく。


(なんなのあの子……怪力どころの騒ぎじゃないわ……)

ざわつく庭。しかし湍津は止まらない。「あと五枚いけるよー!」と、もはや江戸版バイオミック・ジェニー状態である。


一方その頃、田心の背後に鋭い視線が突き刺さった。

「そこはいいから。あんた、こっち」

振り向くと、年嵩の女中が仁王立ちしていた。

御中臈おちゅうろうのお部屋をお願い」


(御中臈……脳内辞書検索……出た、VIP女中! つまり偉い人の部屋!)

「……了解です」

田心はスッと頭を下げる。

(大学病院のVIP病室の清掃に比べれば、お局様の機嫌取りなんてまだイージーモード……な気がする。あちらの検収は、それこそ医学部長だって神経を尖らせているはずだもの……)

などと、妙にリアルな比較をしながら、彼女は静かに「最前線」へと移動した。


そして、知的な擬態を試みていた市杵は、最大の危機に直面していた。

(こしき)を抱え、時代劇の記憶をフル動員して口を開く。

「これはいずこに?」

完璧――に見えた。だが。

目の前のお女中がマッハの速度で振り向き、眉間の皺が深く沈んだ。


「先ほど申したでしょうッ! 勝手場キッチンですッ!」

ピシャリ。空気が凍りつく。

「田舎者は口の利き方も知らぬか! 『此れ、いずれへ運びましょうか?』であろうッ!」


「……っ!」

市杵、痛恨のミス。丁寧語のニュアンスが、江戸最高峰のマナー講師には通用しなかった。


「……申し訳ありません」

即座に頭を下げる市杵。内心は反省の嵐だ。

(やばい、完全に“それっぽさ”が足りなかった……単語じゃなくて、この空気の重さごと真似しないと……!)


庭では湍津が「畳無双」を続け、

奥の廊下では田心が、ミス一つ許されないVIPルームの襖に手をかけている。


三姉妹、それぞれの戦場。

これはもはやタイムトラベルという名のレジャーではない。

1982年の常識を捨て、江戸の掟に飲み込まれるか、あるいは力技でねじ伏せるか。

「花の女子大生」たちの、マジ(現代ではガチ)すぎる歴史サバイバルが幕を開けた。



ーー邂逅・深窓の若君ーー


長福丸(ながとみまる)様! お戻りください!」


静まり返った廊下を切り裂くように、切迫した声が響き渡った。

次の瞬間、バタバタとおぼつかない、小さな足音が近づいてくる。


「……?」

田心たきりが顔を上げると、奥の廊下から一人の子供が、よたよたと走ってくるのが見えた。その足取りは危うく、まるで自分の重心を必死に探りながら左右に揺れているかのようだった。


「危な――」

声をかけようとした、その時。


どん。


田心とぶつかりそうになり、子供はびくりと肩を震わせて立ち止まった。

「わっ!」

その場に凍りついたような沈黙。そして――。


じわり。

静かな、しかし確かな異変が起きた。

子供の足元に、小さな水たまりが広がっていく。


「……っ」

周囲の空気が、瞬時にマイナス三十度まで凍りついた。

子供はそのまま力なくへたり込み、震える手をついて、深く、深く頭を垂れた。


「大事ないか?驚かせてしまった……許されよ……」


か細いが、はっきりとした言葉。

己の失態への羞恥よりも先に、ぶつかりそうになった相手を気遣い、詫びが口をついて出たのだ。


「何をしておるッ!」

鋭い叱責が飛んだ。血相を変えたお女中たちが駆け寄り、現場のボルテージは一気に沸点を超える。

「長福丸様の御前なるぞ! 控えよ、下がれッ!」


「は、はいッ!」

反射的に応じる田心。

(まずい、完全にやらかした……! 救急搬送より先にお手打ちもんじゃないの、これ!?)

脳内で警報が鳴り響く。慌てて廊下から飛び降りようとしたが――。


(あっ、足袋のまま……!)

気づいた時には、1982年の常識はすでに手遅れだった。そのまま庭の土の上に膝をつき、冷たい感触を肌に感じながら、額を地にこすりつけた。


「さあ、長福丸様……こちらへ」

奥女中が、子供――長福丸の手を引き、静かに立たせる。子供はなおも俯いたまま、抵抗することなく連れられていく。その背中はあまりに小さく、どこか消えてしまいそうなほど頼りなかった。


(はや)く! お粗相をお片づけ申し上げよ!」

新たな命令が飛ぶ。


「は、はいッ!」

田心は跳ね起きた。下がれと言われ、上がれと言われ、もはや翻弄されるがままだったが、体はすでに医学生としての本能で動いていた。


(とにかく動け、考えるな!)

手桶に水を汲み、雑巾を浸してきつく絞る。

廊下の板目に沿って、一度、二度、三度。何度も水を替え、丁寧に、祈るように拭き取っていく。


(マイペット……はないわよね、この時代。それより今は……)

ふと、手が止まった。脳裏に、先ほどの光景がリフレインする。


あの、よたよたとした不自由な歩き方。驚いた時の特異な反応。そして、失禁。

(……脳に、何か障害があるのかしら)

医学生としての冷静な観察眼が、内心でそう呟いた。

だが、それ以上に彼女の心を揺さぶったのは、別のものだった。


(でも、あの子……。自分のパニックより先に、相手に『申し訳ない』って謝ったのね)

あの極限の恐怖と羞恥の中で、真っ先に出てきた言葉が謝罪だった。

それは厳格な教育の賜物(たまもの)なのか。それとも、彼が生まれ持った魂の声なのか。


田心は、もう一度丁寧に床を拭き上げた。水の跡が消え、何事もなかったかのように廊下は整えられていく。

しかし、彼女の胸の奥には、消えない(くさび)が打ち込まれていた。


名を、()()()(ながとみまる)という。

この時、草薙家の次女・田心はまだ知らない。

目の前で震えていたあの小さな背中が、やがて巨大な幕府の重圧を一身に背負い、天下の主となることを。


――九代将軍、徳川家重(とくがわいえしげ)


歴史の奔流の只中で、三姉妹はすでに、時代の"中心"へと触れ始めていたのである。


日本史に隠された、享保という時代の最深部、江戸城大奥。そこは1982年の女子大生にとって、あまりに静謐で、それゆえに刃物のような鋭さを持った場所だった。


ーー続くーー

(訂正のお知らせ)当初、享保十二年(1727年)のタイトルでしたが、家重の幼さと幼名呼びから、

         享保七年(1722年)に変更させていただきます。

 尚、家重元服は、享保十年(1725年)4月9日、14歳の年です


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