その1 月明かりの川辺
月明かりの向こうに、遠く焚火が見えている。
ここは、村から少しばかり平野に降りてきた場所だ。
水の匂いが、彼女の敏感な鼻をくすぐる。魔族の住む山、そこから渓流が急勾配を下り、周囲からも小川を集めて、この辺りから穏やかで大きな流れになる。川はこの先を蛇行しながら広がって、行く手にある平野を潤していた。
地理を学んだものなら、ここが典型的な扇状地の始まりだと分かるだろう。しかしカーラには、その知識がない。村の学校では、初等教育までしか学べなかったからだ。
今夜は、夕食が済んだら気晴らしに家を抜け出してきた。
季節は真夏だ。今日は一日、茹だるような暑さの中で、三人の兄弟と共に薬草精選の家業を手伝った。そして、陽が落ちて夜風に誘われたのだ。
辿り着いた水辺から運ばれてくる涼しい風を、カーラは全身で楽しんだ。やおら、着ていたものを脱いで裸になると、川で沐浴を始める。金色に黒の縞々が入った毛皮に包まれた伸びやかな肢体が、月明かりの中でキラキラと輝いた。
朝から薬草まみれで働いていたので、体中に匂いが染みついている。外出用の軽装備に着替えてきたけれど、細かな粉が毛皮にまで紛れていた。
この匂いは嫌いではない。家計を支える大切な売り物、子供の頃から慣れ親しんだ匂いだ。だが、この匂いをまとっていると、野外で周囲の危険を嗅ぎ取れない時がある。
でもこの辺りは、魔獣は出ない。大型の肉食獣もほとんどおらず、狼くらいならたとえ出くわしても、向こうが避けてくれるだろう。
カーラは獣人族の少女だ。敏捷さでは、他の種族の上を行く猫族で、剣もそこそこ使う。まだ成長途上の体躯だが、村の同年代の少年少女の中では大きなほうだ。小型の獣となら、戦いになっても負けはしない。そんな確かな自負があった。
川から上がると、体をブルブルと震わせて毛皮についた水滴を弾き飛ばす。体を乾かすと、急いで衣服を身につけた。明るい月が、岩の多い河原を照らしている。
ここから下流、遠くに見える焚火のところに、誰かいる。
人族だろうか? 一人だけのようだ。
風に乗って、匂いが運ばれてくる。木の枝が燃える匂い、肉の焼ける匂い、そして微かな川魚のはらわたの匂い。
釣った魚を捌いているな、そう考えたカーラはふと空腹を覚えた。
近寄ってみようか、相手が一人ならば揉め事になっても逃げればいい。無論、攻撃されれば応じるだけだ。
河原を一歩踏み出せば、足元で小石が転げてカラカラと音を立てた。
◇ ◇ ◇
ジローは、今日の釣果に満足していた。
山女魚がたくさん獲れた。ここまで上流に昇ってくれば、こいつらが群れを成していたのだ。
しかも、体色の黒い岩魚も一匹釣れた。本来はヤマメよりも上流にいるはずの種類だが、数日前の大雨の影響だろうか。下流まで降りてきたようだ。30cm以上あるから、大物と言っていい。
ヤマメは癖のない淡白な味の魚だが、イワナは雑食なせいか少しばかりコクのある味わいがする。しかも焼いて身を食べたあとの骨を、また少し遠火で炙ってから酒に漬した骨酒は、父の好物だった。ジローは、このイワナを一夜干しにして、土産にするつもりだ。
その骨酒をダシにして、父に頼みたいことがある。
来年、十五になって高等学校に進んだら、両親からは学校を手伝えと言われていた。
低学年を教える。つまり師範代として、今のうちから学校の運営に馴染んでおけ、と言うことだ。
ジローの一族は、サホロの街で学校と治療院を経営していて、親類にはそのどちらかで働いている者が多い。学校長である祖母から、そして初等部をまとめる母からも、ジローが教師になって、ゆくゆくは学校の経営を継いで欲しいと期待されていた。
しかし、ジローは生き物が好きだった。そして自分でも医術向きだと思っている。
魔力も強い。簡単な治癒魔法なら、子供の頃から傍で見て覚えてしまったくらいだ。だから、本当は治療院で働きたい。
家に戻ったら、どんな段取りで両親を口説こうかな。
そんな事を企みながら、魚のはらわたを取って開いて干す作業を繰り返していた彼の耳が、小石が転げる音を捉えた。
顔を上げれば、闇の中にキラリと二つの光。あれは夜行性動物の眼だ。
獣は火に近寄ってこないはずだが、夜食のために用意していた肉の焼ける匂いが、何かを呼び寄せてしまったかもしれない。
ジローは立ち上がり、光の見えた場所の上あたりに火球を投げた。夜行性の動物を、光で照らして追い払おうとしたのだ。
ところが、火球が飛んだ先から「キャッ!」と悲鳴が聞こえ、次いでその光に照らされて、声の主がはっきりと見てとれた。
皮でできた短い靴を履き、キラキラと輝く毛皮に覆われた長くて見栄えのする手足、そして太腿までを晒したショートパンツ姿。引き締まった腹と控えめな胸を軽装甲で覆って、眩しそうに手をかざした獣人族の娘が、そこに立っていた。(続く)