その2 より速い体
小さなモグラの身体のまま、彼は森を抜けた。
その先には草原が広がっている。そこで数日を過ごすうちに、彼は歩みが遅すぎることに気がついていた。
もっと大きくて、移動に適した体がいい。そう考えた彼は、モグラの姿を解いて原形質の塊に戻ると、近くにあった木を這い上る。もっと早く移動したい、そのためにはそれに適した動物を捕えることだ。
手頃な枝から、体を滴らせるようにぶら下がる。その下側に眼を始めとする感覚器を総動員して、彼は時を待った。
たまたま真下を通りかかった草食動物がいた。その体は今の彼より大きく、しかも地上での移動に適しているようだ。今度はこの体が欲しい。
体の粘度を低下させて、彼は音もなくゆっくりと垂れ下がる。流動性を増した体が、ペシャリとその耳の大きな動物の頭に貼り付いた。この小動物がウサギと呼ばれていることを、彼はもちろん知らない。
彼に襲われ、もがくウサギ、だが彼は体を広げてウサギの頭をたちまち覆いつくした。
まず脳を奪うのだ。先程のモグラの体で、彼はそれを理解していた。眼から、耳から、鼻から、口から、頭部には内部への侵入経路が豊富にある。
ウサギに触れた途端に、彼は複数ある侵入経路に向けて体を分散させ、強力な消化液を分泌して食い破り始める。最初にウサギの脳に達したのは、眼球を溶かして侵入した彼の一部である。
頭部の毛皮を消化液に侵され、眼窩から原形質の侵入を許したウサギの外見は、哀れで且つ悍ましい。片眼にポッカリと赤暗い穴が空き、その体は小さくグラグラと揺れて、やがて硬直した。
擬足を脳に届かせて、彼は消化液の分泌をやめた。
先ほどモグラの身体で苦労した反省がある。この体を操るには情報が必要だ、この動物の脳は溶かして食べてはいけないのだ。彼はウサギの脳に自らを浸潤させると、脳を構成する神経細胞の一つ一つに、自らの細胞を侵入させていった。
全ての神経接続を記憶するのに、10分ほどかかっただろう。ウサギの記憶は、今や彼のものだ。そしてウサギの体も、彼のものとなった。
ウサギの体組織は、彼自身の細胞を変化させれば再構築できる。だが、その体を駆使してきた記憶、知識と経験は神経細胞に保存されている。その情報がなければ、ウサギの体は動かせない。
体を震わせる、足踏みをする、前脚を下ろして移動してみる。視野が狭いのは片目だからか、消化された眼球を彼の細胞を使って再生する。視神経を伸ばし脳に接続すると、視野がひらけた。
次いで、消化液に侵されたままだった頭部の皮膚も再生する。これで良し、元通りだと彼は自覚した。
一度自らを原形質の塊に戻した彼は、再びウサギの形を組み上げてみた。
よし、大丈夫。いつでも元の体に戻れるし、ウサギの形も取れる。これで行動範囲を広げることができるだろう。彼は、しばらくこの場所で、この体を試すことにした。
◇ ◇ ◇
声が聞こえる。その方角が分かる。
懐かしい声は、かつて彼を操った主の思考波である。
思考波は、伝搬速度が無限大の六次元にある波動だ。そして彼には、依代として働いた遠い昔の、主との共感の記憶が残されていたのだ。
(続く)




