6.副官の真実の愛の話
閣下の副官になって、三年目の冬を迎えた頃だ。
俺は、その頃には、副官として周囲にも認められるようになっていた。その分、仕事もどっさりと増えていたが、俺にとってはそれは、誇らしいことでもあった。
その日、俺は一つの決意を抱いて、閣下の傍を離れ、小旅行へ出ていた。
職場の皆には、王都にいる親戚に会いに行くといってきたが、もちろん嘘だ。
俺は、密かに、異母兄である、20番目の王子に会いにいっていた。
当時、国王は病床に臥せっていて、王子たちの間では、玉座を巡って権力争いが激化していた。
特に有力視されていたのは、正妃を母親に持つ第二王子、宰相を外戚に持つ第五王子、そして教会が後押ししていた第八王子だ。20番目の王子など、人々の口の端にも上らなかった。
だが、俺は知っていた。
かつて俺と同じ教会に預けられていたこの異母兄が、どれほど恐ろしく、どれほど才気あふれる人物であるかを。野心を持ち、怒りを持ち、冷酷で、情に厚い。俺と似た境遇だったのに、この男は、一度も絶望することがなかった。
そして、異母兄が、出自に関わらず、有能な人物を取り立てて、虎視眈々と機会をうかがっていることも知っていた。だから、この男しかいないと思った。
『平民出身の閣下』である彼女を、戦争が終わった後にも、殺さないという判断が下せるのは、この男だけだ。
※
俺は異母兄の前にひざまずき、床に額をこすりつけて、懇願した。
何でもする。暗殺者でも、二重スパイでも、何でもしよう。あなたが王になるための協力は惜しまない。死ねといわれれば死のう。
─── だから、どうか、玉座についた暁には、彼女に保護を。彼女の身の安全の保障を。
異母兄は、取引を呑んだ。
それから、呆れたようにいった。
「最初から捨て身でくるとはな。お前はもう少し、駆け引きの上手い男だったと記憶していたが?」
俺はなにも応えず、ただ目礼した。
異母兄が俺をどう評価していたかは知らないが、俺は、俺の手札がごくわずかであることを知っていた。俺の力では彼女を守り切れないとわかっていた。
それは、俺とこの異母兄の圧倒的な違いだった。俺がなにもかもを諦め、投げ出し、腐っていた間も、この男は懸命にあがき続けてきた。その結果が今の差だった。この男には動かせる部下たちがいたが、俺にはこの身一つしかなかった。
礼を取って退出しようとすると、異母兄は俺の背に言葉を投げかけてきた。
「だが、戦場でのことまでは、俺も責任は取れんぞ。お前の上官が任されているのは、泥沼の戦場だ。よく耐えているものだと、この俺ですら賛辞を送りたくなる。 ─── しかし、それもいつまで持つかな」
俺は、振り返りもせずに答えた。
「兄上が一日も早く玉座につくことを祈っていますよ」
結局、戦争を終わらせることができるのは、戦場の兵士ではなく、王宮のお偉方なのだ。
ふざけた話だと思う。くそったれな話だと思う。だけど、だからといって、投げ出すわけにはいかない。
俺は、ドアノブに手をかけながらいった。
「その日が来るまでは、俺が閣下を守ります」
返事を期待していたわけではない。
だが、異母兄は、奇妙なほどに暗い声でいった。
「それは、お前の、真実の愛か?」
そのどこかいびつな響きに、俺が思わず振り返った。
異母兄は、彼にしてはめったにないことに、滴り落ちるような憎悪をその眼に滾らせていた。
「聖女の力など呪いだ。女神は俺たちを嘲笑っているのだろうよ。 ─── だが、覚えておけ。これは俺の代で終わらせる。神は神のまま、俺たちとは遠い存在であるべきだ」
※
それは、王家と教会の一部の人間だけが知っている話だ。
もっとも、建国の逸話について、よくよく考えたら、気づく者もいるかもしれない。
聖女の命と引き換えに、女神は、騎士の願いを叶えた。
この国の者なら誰でも知っている、その逸話のゆがみ。
聖女の妹である聖王は、聖女の力について、口伝を残していた。
聖王は、後世の者たちを案じていたといわれる。再び世界の危機が訪れたときには、聖女の力が必要になると考えたのだという。
しかし、実際に後世の人間である俺にいわせれば、聖王は見込みが甘すぎたのだ。あるいは、賢すぎたのか。世の中の人間の大半が愚かであることを、彼女は理解できなかったのだろうか。
聖王が残した、聖女の力の発動条件はこうだ。
一つ、刻印を持つ者であること。二つ、刻印を持つ者が抱く、真実の愛があること。三つ、刻印を持つ者が、条件を理解していること。四つ、真実の愛には、一滴の疑念も許されない。五つ、無知や洗脳では、女神は愛とは認めない。六つ、この五つの条件に基づいて、刻印を持つ者が、真実の愛を与えた者の前で、命を捧げた場合に限り、女神は、その相手の望みを聞き届ける。
……こんなものは、悪意のこもった引っかけ問題のようなものだ。
刻印を持つ者が命を捧げても、女神が叶えるのは、その者本人の望みではない。
真実の愛を向けた相手の望みだ。
では、逆に、だ。
真実の愛を向けた相手は、刻印を持つ者の命と引き換えに願いを叶えることを、果たして望むのか?
仮に望んだとして、そのとき、真実の愛とやらは、一つも濁らないのか?
自分の命と引き換えに、己の欲を叶えることを選んだ相手を前にして、ゆるぎなく愛していられるものか?
自分を愛してくれ。そして命を捧げてくれ。……なんていうのは、土台無理な話だろう。
しかし、俺を含めて、大半の人間は愚かなので、聖王の没後から、どうにかこの発動条件をクリアできないかという実験は、たびたび繰り返された。
建国から五百年ほど、王の愛妾とその子がやたらと多い時代が何度もあるのは、子供を増やしては実験していたからだ。
実際、聖女の力が発動したと思われる事例も、建国から二百年後には一件だけあったらしい。
実験が行われていた時代、不遇だった19番目の王女の話だ。
彼女の護衛の騎士が、流行り病に倒れ、高熱に浮かされて、もはや回復の見込みはないといわれたとき。彼女は騎士の手をしっかりと掴んだまま、毒をあおったという。すると、たちまちのうちに、護衛の騎士は生気を取り戻した。おそらく、騎士は、高熱に浮かされながらも『生きたい』と願っていたのだろう。女神はその願いを聞き届けた。王女の命と引き換えに。
まぁ、これなら確かに、条件はクリアしている。
しかし、この成功例のポイントは、愛する相手が生死の境をさまよっていた点だろう。
毒を呑もうとする王女に対し、護衛の騎士は、自分のために死なないでくれと止めることも、あるいは死んでくれと望むことも、どちらもできない状態だった。
だから、王女の意志も愛も、揺らぐことはなかった。
※
果たして、閣下なら、俺の死を望むだろうかと、たまに考えた。
俺は彼女を愛している。彼女のために死んでもいい。だけど、それでも、あの人に死んでくれといわれたら、少し辛いだろう。愛に疑念が混ざってしまわないとはいいきれない。俺はろくでもない男なので。
……そんなことを考えてから、いつも自嘲混じりに笑った。
前提からして間違っている。閣下は俺の死を望まない。
たとえ俺が素性を明かし、あなたの望みのために死んでもいいといっても、彼女は頷かないだろう。俺一人の死で、戦争が終わらせられるのだといっても、彼女は拒むだろう。それはダメだというだろう。何がダメなのか、説明もできないくせに、駄目だといい張るのだ。それはダメだ。それは間違っている。それは受け入れてはいけないと。
彼女のそういう姿を、俺は傍で何度も見てきた。
だから、俺は、俺の素性を明かさない。
彼女に決断を背負わせる気はない。あの人は何も知らないままでいい。
聖女の力なんて、異母兄のいう通り、大半の人間にとっては、呪いでしかないのだ。
俺は、俺にできることをしよう。異母兄のような実力はなくとも、積み上げてきたものもなくとも。俺が薄っぺらな人間でしかないとしても、それでも力を尽くすことは無駄じゃない。
それはきっと、明日につながる何かだ。
閣下が、俺に、そう信じさせてくれた。だから俺は、俺のちっぽけな力を尽くす。閣下を助けるために、あの人の力になるために、最善を尽くすのだ。
そう思っていた。心から。
─── なのに、どうして、あのとき俺は、あなたを守れなかったのか。
あと少しだった。
あと少しで、異母兄が玉座につく。あの男なら、戦争を終わりにできる。
あと少し、いくつかの窮地を切りぬけたら、彼女の望む平和が訪れるはずだったのに。
土煙が舞う。怒号が上がる。悲鳴が聞こえる。誰かが閣下の名を叫ぶ。
俺は敵兵を切り捨てて、彼女のもとへ駆け寄った。
「閣下! ご無事ですか、閣下、 ─── ッ!」
彼女は、剣を地面に突き刺したまま、膝をついていた。
俺が、とっさに手を伸ばすと、彼女はふわりと、そのまま崩れ落ちた。
地面に横たわったその身体から、真っ赤な血が流れ出て、地面に沁み込んでいく。
「閣下ッ! しっかりしてください……っ!」
駆け寄り、膝をついて、負傷箇所を確認して、俺は息を呑んだ。
致命傷だと、一目でわかった。もう助からない。
閣下が、あえかな息をこぼす。その瞳から、みるみるうちに生気が失われていく。
時間がなかった。躊躇もなかった。
俺は、閣下の手を強く握りしめて、もう片方の手で、剣を、自分の首に押し当てた。
「大丈夫ですよ、閣下。大丈夫ですからね ─── 」
大丈夫です、閣下。この方法なら、確実にあなたは助かるはずだ。あなたはいつだって生き延びることを望んできた。女神はあなたの願いを叶えるでしょう。大丈夫です、閣下。大丈夫ですからね。
でも、そうだな。一つだけ、俺の願いをいわせてもらえるなら、どうか、俺の首の後ろを見たりしないでくださいね? 俺は、あなたに、何も背負わせたくないから。
大丈夫です。俺が死んでも、異母兄は約束を守るでしょう。取引には誠実な男です。それに、あの男は、あなたみたいな有能な方が好きですからね。もしかしたら、あなたに目をつけてしまうかもしれないな。でも、無理強いするような男じゃないから、大丈夫ですよ。あぁ、あなたがあの男に惹かれることもありえるかな。そしたら、ちょっと、妬けてしまいますね。
大丈夫です、閣下。大丈夫ですから。
どうか、幸せに、長生きしてくださいね。