5.副官の話
シルヴィアが、幸せそうにケーキを口へ運ぶ。
俺は、きらきらと光り輝くような彼女から、そっと目をそらした。
なんというか、眼に毒だ。
俺がシルヴィアを婚約者にしたのは、彼女とのつながりを保つのに、それが最善の手段だと思ったからだ。婚約者なら、ひんぱんに会ってもおかしくないし、二人きりになっても問題はない。もっとも、護衛も侍女も、俺たちの会話が聞こえない程度の距離を取っているだけで、近くには待機しているのだが。
当初の俺の計画としては、こうだった。
シルヴィアと婚約することで、彼女に何かあったらすぐに助けになれる立場を得る。いずれ彼女が愛する人と出会ったら、その相手に問題がないかをよく確認した上で、婚約を解消する。そのときは、シルヴィアが責められることのないように、俺が心変わりしたことにすればいい。公爵家には慰謝料を払い、当主にも頭を下げて、何とか円満に婚約解消しよう。
そして、シルヴィアは愛する人と結ばれて、幸せに暮らす。
一言でいえば、俺は彼女の守護者になるつもりだったのだ。
俺が、次期国王なんて立場に生まれたのは、そのためだと思っていた。おそらくは『次は平和な時代に生まれたい』と願ったのだろう彼女の、その望みを叶えるために、俺は王太子として生まれたのだろうと。俺は彼女の守護者であり、この国の守護者でもある。それが俺が転生した意味だと思っていた。
だから、シルヴィアと本当に結婚するつもりなんてなかった。
俺の心は、昔も今もこの人のものだけど、この人が俺に振り向いてくれることはないだろう。わかっていた。それでもよかった。シルヴィアが幸せに暮らせるなら、それだけで俺は十分だった。
─── ……なーんてことを考えていた時期がありました、俺にも。
俺は頭をかきむしりたくなる。
平和な時代のこの人が、これほどマイペースでぼやっとしていて警戒心が薄いなんて、思わなかったんだよ!
怖い。隙だらけで怖い。俺が目を離したら、ろくでもない男に引っかかりそうで怖い。簡単に「王妃になるのもいい」なんて言ってしまうのも怖い。俺の理性を切り刻もうとするのはやめてほしい。
正直にいうと、俺が夫になってしまったほうがいいんじゃないかと考えたことはある。シルヴィアがあまりにのんびりしているので、下手な男よりは俺のほうがマシじゃないかと思ったのだ。
俺には弟がいるし、後継ぎには、弟の子を指名するという手もある。俺なら、彼女が望む『ゴロゴロしながら読書をして過ごす』という生活も提供できるだろう。表向きは、王妃は身体が弱いとでもしておけばいい。
だけど、そう思いながらも踏み切れないのは、王の離婚は、王太子の婚約解消に比べると、難易度が跳ね上がるからだ。
いつかシルヴィアも、心から愛する人に出会うかもしれない。かつての俺のように、この人が自分の運命だと思える相手に、巡り合うかもしれない。そのときに、王妃という立場は、あまりに強固な枷になってしまうだろう。
※
かつての俺は、端的にいって屑だった。
まあ、生まれつき屑だったわけではない。育った環境も影響している。そう思いたい。
彼女は知らなかっただろうが、俺は23番目の王子だった。
今とは違い、当時の王宮には、バカバカしいほどに広い後宮に、国中から集められた愛妾たちが暮らしていた。子供も数十人いて、王の子なんて言っても、まるで希少性は感じられず、権力争いの末の暗殺も、ありふれた出来事だった。
俺は、子供の頃に、暗殺を避けるという名目で、教会へ預けられた。
教会の人間は、皆、俺によくしてくれたが、その笑顔の下に何が隠れているか、俺はもちろん知っていた。知っていることが、聖女の力の発動条件だからだ。
まったく、端から見れば、この上ない茶番劇だろう。
彼らは皆、俺の愛を欲していたが、俺は、真実望まれているのは、俺の命であることをわかっていた。
俺は、髪を長く伸ばした。
長く伸びた癖毛は、かなりうっとおしかったが、俺の刻印は、首の後ろに現れてしまったから、ほかに方法がなかった。俺は、生涯、髪を短くすることはなかった。
※
やがて、教会内でも、暗殺と思われる不審死が起こるようになり、俺は、今度は、教会が懇意にしている貴族のもとへ預けられた。そこからは、各地を転々とした。俺は、俺よりも権力を持っている連中の指示通りに、名前を変え、身元を偽り、あちらこちらへと潜り込んだ。汚い仕事も山ほどした。暗殺にも手を染めた。
笑える話だろう。
始まりは、暗殺から逃れるという名目だったはずなのに、俺はいつの間にか、立派な暗殺者になっていたのだ。
だけど、べつに、それに抗おうとも思わなかった。
逆らえば殺されるというのもあったが、それ以上に、俺は、どうでもよくなっていた。なにもかもが。
国の中でも外でも戦争をしていて、国中がぐちゃぐちゃだ。こんな世界で、理想を掲げて何になる? どうせ死ぬなら、あがいて苦しむより、快感に溺れている間に終わったらいい。……やあ、美しいお嬢さん、俺と一緒に過ごしませんか、世界が終わるまで、素敵な夜を!
※
平民出身の閣下は、俺が送り込まれた最後の標的だった。
俺はこの指示が来たとき、喜んだものだ。閣下の暗殺は、期限が決まっていなかったからだ。
閣下は戦場の英雄で、国境を守る最後の砦ともいわれていた。お偉方も一枚岩ではない。まだ戦争が続いているのに、死なせるのは惜しいという声もあったのだろう。
俺は、出世しすぎた平民の女を、いつでも殺せるようにと、副官に任命された。
だから俺は、配属日当日から、職場放棄して、遊び惚けた。
期限が決まっていない仕事なのだ。今から副官ゴッコをするなんて馬鹿らしい。そもそも、件の閣下だって、よほどのアホでなければ、俺が何のためにやってきたか察しているだろう。下手に近づけば殺されるのは俺のほうだ。
俺は、真昼間から酒場へ飛び込むと、そこで一番美人なお姉さんに声をかけて、彼女の部屋へとしけこんだ。俺は顔だけはいいクズだったので、この手の誘いで失敗したことはなかった。俺はそのまま彼女の家の居候となり、早々にヒモ暮らしを開始した。仕事の期限が決まるまでは、女の部屋を転々として暮らしていくつもりだった。
しかし、俺の目論見は、一週間で崩れた。
俺がヒモ暮らしをしていた部屋に、閣下が乗り込んできたからだ。
真昼間から、彼女と盛り上がっていた俺に、閣下は額に青筋を浮かべていった。
「この発情期の赤毛の犬め」
俺に対する、閣下の第一声が、それだった。
─── そして、俺の地獄の日々が始まった。
閣下は本当に容赦がなかった。
俺は副官として配属されたはずなのに、新兵同然にしごかれた。訓練をサボれば叩きのめされ、泣き言を零せば叱責され、逃げ出そうとすれば背中を踏みつけられた。閣下には慈悲がなく、憐れみがなく、まさに鬼上官の名にふさわしい人物だった。
一度だけ、色仕掛けで落とせないかとすり寄ってみたこともあったが、鼻で笑われて終わった。この顔だけはいい俺に、甘い言葉をささやかれて、あんな態度を取ったのは、後にも先にも彼女だけだ。
俺は自分の不運を呪った。逃げ出したいと、毎日考えていた。
毎日、毎日 ─── ……それが変わったのは、いつのことだったか。
俺は最低の人間だった。
ろくでなしで、どうしようもないクズだった。
俺はそれを受け入れていたし、抗おうとも思わなかった。どうでもよかった。なにもかもが。
俺はとうに、俺自身に見切りをつけていた。
だけど、閣下は違った。
閣下は俺を諦めなかった。閣下は俺を生かすことを諦めなかった。そのために、俺を徹底的に鍛え上げた。戦場で、俺が生き延びられる確率が、わずかでも上がるようにと、俺をしごき倒した。
信じられない。なんてばかな人だ。俺はあなたを殺すためにいるんだ。あなただってそれは知っているはずだ。俺が戦死したほうが、あなたにとっては都合がいいはずだ。
だけど閣下は ─── ……、彼女は……。
やがて俺も理解した。理解せざるを得なかった。この人にとっては、俺が暗殺者だろうと何だろうと関係ない。命は命なのだ。生かそうとすることに理由はない。きっと閣下は、俺でなくとも、同じようにするのだろう。
わかっていた。彼女にとって、俺は特別じゃない。
だけど、彼女だけは、俺を諦めないでくれた。
俺自身でさえ、とうに諦めていた俺を、いつまでも待っていてくれた。罵倒しながら、叱責しながら、それでも俺から去ろうとはしなかった。俺に立ち上がる力があるのだと信じてくれた。俺はそんなこと、遠い昔に、忘れてきたというのに。
俺は、クズだ。汚い仕事だって、山ほどやってきた。
─── それでも、せめて、あなたの副官を名乗るにふさわしい男でありたい。