4.いつか一緒にお花見を
わたしは瞬いて彼を見た。
「いたんですか?」
アドニスは、今世では短い赤毛を、ぐしゃぐしゃとかき回していった。
「俺はあなたよりずっと長生きしたんですから、そういう相手がいてもおかしくないでしょう」
「だって、80歳まで遊び歩いていたというから……。まさか、本当は結婚していたんですか?」
「あいにく、死ぬまで俺の片想いでしたよ。気づかれもしなかった」
えっと、思わず絶句してしまう。
だって彼は、本人のいう通り、大いに女性に人気があったのだ。あの副官に口説かれて、落ちない女はいないとまでいわれていた。だから、部下の男たちは、みな、恋人や妻を彼に会わせるのを嫌がった。
もっとも、副官は、略奪愛なんて面倒なことはごめんだと、吐き捨てるような男だったけれど。
わたしは、まじまじとアドニスを見た。
アドニスは、いっそ愉快そうな顔になって続けた。
「ものすごく鈍い人でしてね。俺がどれほど熱を込めて口説いても、甘い言葉を囁いても、一瞥もくれないような人でした。……でも、きっと、率直に愛を告げても断られたでしょうね。俺のことなんか、眼中になかった。最初からわかっていたんです。俺ではとても、手の届かない人でした」
「……貴族のご令嬢だったとか……?」
「あぁ、いえ……、身分ではなくて、人間としてね。ほら、あなたも知っての通り、昔の俺は屑だったでしょう?」
「途中からは違いましたよ。あなたは信頼できる人でした」
「 ─── 嬉しいな。ええ、とても。泣きたいくらいに嬉しいです。あなたにそういってもらえるなら、一度目の俺の人生にも意味があったんでしょう」
アドニスは、ひどく柔らかく笑った。
その若葉色の瞳が、満ち足りているように見えて、わたしは戸惑ってしまう。
アドニスは、とても優しい眼をしていた。彼が見ているのは、亡き人の面影だろうか。その瞳に浮かぶものが、真実の愛だというなら、わたしは納得してしまうだろう。アドニスは、きっとまだ、その人のことを想っている。
わずかに湿った空気を、仕切りなおすように、きっぱりと、アドニスはいった。
「とにかくですね。俺は、真実の愛で人生が変わった経験があるんです。なので、あなたにもぜひ、恋で馬鹿になる経験をしていただきたいと思っています。そして、俺はそれを見て、大笑いしてやるんです」
「頑張ってください。目標があるのはいいことです」
そういいながらも、わたしは内心で、もやっとしていた。
知らなかった。そうか。
─── この人には、それほどに愛する人がいたのか。
考えれば考えるほどに、胸の奥がもやもやしてくる。
もしかして、わたしは嫉妬しているんだろうか? 真実の愛というものを見つけた、彼に。
わたしの胸はキュンともスンともなりはしないのに、彼は、一生片想いだったといいながらも、真実の愛だと断言できるほど、恋に身を焦がしていたのだ。これはずるいだろう。わたしが嫉妬してしまうのも仕方ない。
あれほど女遊びをしていた副官は真実の愛に出会えて、前世も今世も貞淑そのもの、男遊びの経験などまったくないと胸を張れるわたしには、運命的な出会いが未だにゼロ件なのだ。奇跡が起こる様子もない。
もしかしたら、前世の記憶を持っている時点で、今後の人生の奇跡まで使い果たしたのかもしれない。
でも、それなら、彼も同じ条件でないとおかしいのでは? ずるいのでは?
わたしの胸の奥に、めらっとどす黒い炎が宿った。
「殿下、わたしはこの際、王妃になるのもいいかと思っています」
彼が一番嫌がるだろうことをいってやると、予想通りに、アドニスは、唇をむぎゅと折り曲げた。
「その『面倒だから流されよう』という態度はどうかと思います。もう少し人生にやる気を出してくれませんか、自分の身を守るためにも」
「わたしの王妃としてのセールスポイントは、体力があることです」
「もう少し何とかならなかったんですか、セールスポイント」
「その他のことは殿下にお任せします」
「人生を投げてくるのやめてくださいよ。そういう態度を取っていると、寵愛して囲いますよ? 嫌でしょう、不自由なのは」
「……読書と食事が保障されるなら、それもそれでありですね」
「なしです!!」
「日がな一日中、ゴロゴロしながら、好きなだけ本を読める生活を保障してくれるのなら……」
「しません!! ……あなたね、平和な世界に生まれたからといって、気を抜きすぎです。そんな台詞を簡単に口にするものではありません。悪い人間はどこにでもいるんですよ」
「戦争になったら戦いますよ。いつでもご命令ください」
「両極端! もう少し中間を目指してください。というか、あなただって、昔は、平和になったらあれがしたいだとか、これがしたいだとか、いろいろ言っていましたよね? あの『平和になったらやりたいことリスト』は叶えたんですか?」
わたしはふっと、憂いに満ちた笑みを浮かべていった。
「殿下……、わたしは二度目の人生で、つくづくと実感しています」
「なにを?」
「忙しいときにあったやる気は、暇になるとなくなるものだと」
「悟った顔でいわないでください」
「平和になったらあれをしよう、これをしよう、という夢は確かにありました。でも、実際に、戦争のない、この穏やかな時代に生まれて思うことは、外出するのは面倒だな……という一点です」
「前世で二人生分、外に出てしまったんですか、あなたは?」
「自室にこもって読書にふけるのは最高ですね。わたしが王妃になったら、毎月厳選の一冊をプレゼントして差し上げます」
「ははっ、第二のセールスポイントができましたね。……って、そうじゃないんですよ……」
アドニスが恨みがましい眼でこちらを見る。
わたしと結婚してしまったら、彼が復讐を遂げることは不可能になるからだ。ざまあみろ。
「殿下、あいにくわたしは真実の愛とは無縁のようですが、殿下の気がすむなら、いつでも好きなだけ罵っていいんですよ」
「俺に変態の濡れ衣をきせるのはやめてくれませんか」
「わたしが殿下を赤毛の犬と罵っていたのは事実ですから。言葉だけの報復ならいつでも受けましょう」
「俺に喧嘩を売っていますね? 王妃としてのセールスポイントが二つしかないくせに」
「あぁ、でも、今の殿下は、赤毛の犬という感じがしませんね。髪が短いので」
「長さで犬度を測ってたんですか!?」
信じられない、といいながら、アドニスが自分の髪に触れる。
昔と同じ癖毛だけど、短いからか、昔のようにあちこち跳ねてはいない。単に、王太子の身の回りの世話をする人が、凄腕なだけかもしれないけれど。
「もう伸ばさないんですか?」
「伸ばしません。長いとうっとおしいんですよ」
「昔は一度も短くしなかったのに」
「あれは必要があって……」
殿下はそこまでいって、言葉を切った。いい過ぎたといわんばかりの顔だ。
わたしは、不思議に思ったけれど、すぐに察した。
「さては、殿下も、願掛けをしていたんですね? 流行っていましたよね、あの頃」
「……まぁ、そんなところです」
殿下の気まずそうな態度に、わたしはくすくすと笑う。
懐かしい。わたしも密かに、願掛けをしていた。
いや、厳密にいうと、願掛けとは違うのかもしれない。ただ、戦争が終わったら、絶対に実現させようと思っていた夢があったのだ。
─── 閣下、たまには一緒に花でも愛でませんか? 甘い菓子も用意しますから。……どこから手に入れるって? 俺には秘密のルートがあるんですよ。
そういって、熱心にわたしを誘ってくれたのは、あの副官だった。
最初は断ったけれど、最後には頷いた。あまりにしつこいから、というのは建前で、彼の提案がとても魅力的だったからだ。特に、甘い菓子の辺りが。
あの頃は、甘い物なんて手に入らなかった。飢えをしのぐのが精いっぱいだった。だけど、確かに副官は、物資調達の独自のルートを持っていて、それには何度も助けられていた。
尋ねたことは一度もなかったけれど、彼は恐らく、どこかの貴族の隠し子だった。
お偉方が、彼を副官にねじ込んできたのは、いずれわたしを始末して、その後釜に彼を据えるつもりだったからだろう。平民出の女に、いつまでも大きな顔をさせたくないという憎悪だけは、はっきりと感じ取れる人事だった。
わたしは、やられたらやり返すつもりだったけれど、実際には副官は、初日からまったく働かなかった。やる気がなく、サボり魔で、言い訳ばかりして、へらへらと笑っているだけの、どうしようもない男だった。
そこでわたしは、気持ちを切り替えた。
この男は警戒するべき相手ではなく、徹底的にしごき抜くべき新兵であると。
結果として、それが功を奏したのだろう。
わたしは、副官に大いに恨まれる反面、上司として認められる存在になれた。
わたしが死ぬ前の何年かは、名実ともに彼はわたしの右腕だった。
『たまには一緒に花でも愛でませんか? 甘い菓子も用意しますから』
平和になったら、必ず、叶えようと思っていた。
密かに心の支えにしていた。何なら、死ぬ直前にも、平和な世の中で、彼と花見がしたかったなあ、甘い菓子が食べたかったなあと思っていた気がする。これは決してわたしの食い意地が張っているわけではなく、死ぬ間際なんてそんなものなのだ。多分。
どうして前世の記憶なんてものがあるのかはわからないけれど、王宮に来るたびに夢が叶っているので、わたしはたいへんに満足である。