2.真実の愛
わたしが王太子の婚約者になって帰宅すると、お姉様二人とお兄様三人が、蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
「何を考えてらっしゃいますの、お父様! こんなぽやっとした子を王太子の婚約者にするなんて!」
「このマイペースな子に王妃なんて無理に決まっています! この間だって、図書室の隅で丸まって寝ていたじゃありませんか! 発見したクインの悲鳴が屋敷中に響き渡ったのを、もうお忘れですか!」
「そうですよ、父上。可愛いシルヴィは、よく食べよく動きよく眠り、それでいて読書にも励むという素晴らしい子ですが、王妃には向いておりませんでしょう」
「ハハッ、剣を振って、本を読んで、食べて眠るという、行動パターンが四つしかないこの妹を次期王妃にとは、父上もご冗談がお好きですねえ!?」
「いやいや、シルヴィの太刀筋は見事なものだと、あのアルド爺も褒めていたではないか! 俺は父上に賛成だ! いつかシルヴィが王妃になった暁には、俺を大将軍に任命してほしぶふッ! エミリア姉上、扇を投げつけるのはやめてくださぐぉっ、アリシア姉上、靴のヒールを突き刺さないで、いたっ、痛いです姉上!」
お父様は、婚約させるつもりで連れて行ったのではなかったと必死に弁解していた。
確かに王太子との見合い話ではあったけれど、王太子は今までどんな麗しい令嬢にも遠回しにお断りしていたのだという。だから、我が家に話が来たときも、このおっとりした末娘が見初められるなどあり得ないだろうと思っていたのだと。ちなみに、どうしてお姉様たちではなくわたしだったかというと、お姉様たちにはもう婚約者がいるからだ。
わたしは、お父様の背中を、そっとさすりながらいった。
「大丈夫です、お父様。きっとそのうち、殿下も目が覚めるでしょう」
「シルヴィ……! お前は我が家のお姫様だよ! 殿下だってメロメロになってしまうとも!」
なるはずがない。彼にあるのは、わたしへの復讐心である。
やっぱり、『発情期の赤毛の犬』は、ちょっといい過ぎだったのだろう。公爵家のご令嬢になった今だからわかる。『赤毛の犬』だけにしておくべきだった。
※
幸いなことに、復讐のためにわたしを婚約者にした王太子ことアドニスは、だんだんと、その困難さに気づいていったらしい。
婚約から半年後のことだ。いつものように、人払いをした庭園のテラス席で向き合うと、彼は悩み疲れたという顔で呟いた。
「俺は……、昔から、積極的な女性が好きなんですよね。自分から誘ってくれる子が好きですし、経験豊富な子も大好きです。遊び慣れた相手との、恋の駆け引きも、またいいものです……」
「あぁ……、昔はたいへんお盛んでしたものね」
「でも、逆に、その気のない女性に無理やり迫るというのは、本当に萎えるわけです」
「当たり前では?」
「だけど、俺は王太子ですし、子供を作らないといけないでしょう。つまり、結婚したら、あなたに無理強いしなくてはいけないのかと思うと……、今から吐き気がします……」
「やめればいいのでは?」
「そんなに簡単に諦められません! 何百年越しの復讐だと思っているんですか!」
「殿下……、ときには人を許すことも大切ですよ」
「俺のサボりを一度も許さなかった人にいわれたくないです」
サボりは許されないだろうと思ったけれど、わたしは賢く沈黙を保った。
困ったときには黙っておくといい。ちょっと頭が良さそうに見えるから。これはわたしの三番目のお兄様の教えである。
「あなたへの復讐はしたい。でも、後継ぎのために無理やり行為に及ぶなんて言うのは、俺の美意識に反します。だから、妥協点を考えました」
アドニスは、目を据わらせていった。
「誰でもいいから、真実の愛と呼べるほどの相手を見つけてください。そうしたら、俺は、あなたのことを『この発情期の栗毛の犬め!』と罵倒して、腹を抱えて笑って、それで昔を忘れて差し上げます。婚約は解消して、あなたの幸せな人生を祈ってあげましょう。俺に心から感謝してくださいね、シルヴィア」
わたしは、ぱちぱちと瞬いて、アドニスを見返した。
わたしの髪は栗色なので、罵倒返しをするなら、なるほど、栗毛の犬になるだろう。
それはいいのだけど、
「真実の愛……? というと、聖女の?」
「そうです。聖女のアレです」
聖女のアレ、というのは、建国の逸話だ。
※
今から千年より昔、闇より溢れ出た災厄の獣たちで、この世界は一度滅びかけたのだという。心ある者たちが立ち上がり、世界を救わんとしたが、災いは獰猛で、強大だった。
最後の騎士が、ついに膝をつき、首を落とされんとしたそのときだ。騎士の恋人が駆け寄った。彼女は騎士を抱きしめ、心から神へ祈った。
『この命を捧げます、だからどうか、彼の声に耳をお貸しください ─── 』
聖女の祈りは真実の愛だった。愛の女神は、彼女の愛を認め、騎士の願いを叶えた。そして騎士は、天より授かった力で世界を救った。
やがて、騎士もまた、戦いの負傷がもとで命を落としたが、騎士は最後まで人々に伝え続けていたという。
『どうか彼女に感謝を。女神は彼女の祈りを聞き届けました。彼女こそ、神に愛された聖女だったのです』
二人がこの世を去った後、聖女の妹は、二人の遺志を継いで、新たな国を興した。
初代女王である彼女は、聖王とも呼ばれる。彼女の手にもまた、聖女と同じ刻印があったからだ。花びらのような形をしたその印は、聖王の子にも受け継がれた。
王家の直系の者は、必ず、身体のどこかにその刻印をもって生まれる。それはごまかしようのない、聖女の血の証だという。
※
わたしは、三百年前も今も、信仰心が薄いので、その逸話を信じてはいなかった。
実際に、世界が滅ぶような戦争はあったのかもしれない。英雄もいたのかもしれない。だけど、神が奇跡の力を与えてくれたなんて言うのは、子供向けのおとぎ話だろう。
……ずっとそう思っていたのだけど、生まれ変わった副官、今や王太子殿下となったアドニスと出会って、一つだけ認識を改めた。
わたしは、つい、まじまじと、アドニスの右手を見つめる。
その手の甲には、花びらの印があった。
わたしの視線に気づいたアドニスは、手をひらひらと振ってみせていった。
「伝説を再現しろといっているのではありませんよ。そのくらい好きな相手を見つけてくださいという話です。恋に夢中になるあなたをみて、俺は心の底から馬鹿にして差し上げますから」
「なんと面倒なことを」
「俺がこれほど譲歩しているのに!? ふんっ、俺はべつに、権力を盾にして、力づくであなたを妻にしてしまってもいいんですよ?」
「そうなったら、そうなったで、そのとき考えましょう」
「駄目に決まっているでしょうが。なにをいっているんですか、あなたは。まったく……、あなたね、いくら今が平和な世の中だからって、ぼやっとしすぎですよ。力づくなんていう男は、首を落としてやるくらいがちょうどいいんですからね」
「殿下が普通に婚約解消してくださるのが、一番いいと思うのですが」
「俺に何の得もないでしょう、それ。俺はあなたの悔しがる顔が見たいんです。昔、さんざんしごき倒した副官に、嘲笑われる気持ちをぜひ味わってくださいね」