86 思わぬ介入①
気がつくと、地面の上に横たわっていた。
誰かがルウの肩を叩いている。
「ソーニー嬢、無事か!?」
その声は今にも泣き出しそうだった。ルウはうるさそうに叩く手を払う。
「もう……すぐに大声で怒鳴る……」
砂利が頬に刺さって痛い。
うつ伏せから起きたら、はらりと服がはだけて落ちた。
とっさに胸元を押さえてことなきを得たが、状況が分からず、ぺたぺたと自分の身体を触る。おそらく背中の服が切り取られて、何か薬のようなものを塗られた。信じられないことだが、奇跡的に治っている。痛みはなく、体調も万全だった。
真後ろに身体をねじる。
ディーンが真っ青な顔でルウを見守っていた。彼の方が瀕死なのではないかと思うほど苦しそうな顔をしている。
「平気か?」
「綺麗さっぱり治りました……何ですか、これ?」
ふとルウはディーンに目を留めた。あちこちにひっかけたのか、服がボロボロになっている。
「このぐらいどうということはない。あなたが無事で本当に良かった……」
――よくは覚えていませんが……
どうやら助けてもらったようだ。
「ありがとうございます。来てくれるなんて思いませんでした」
――しかも治してもらいました。
服はダメになってしまったが、些細な問題だ。全身どこもなんともない。普通の傷薬ではないだろう。
「何の薬なんですか、これ?」
「魔獣由来の治療薬で、非常に希少種のスライムから作られているという触れ込みだったんだが、ちゃんと効いてくれてよかった」
「結局スライム」
「侮ってはいかん。薬草だけを食べさせて育てたスライムだぞ」
一般的な傷薬に使う薬草一枚がいくらかと、スライムが食べるであろう量をざっと想像して、ルウは震え上がった。宝石より高くつくかもしれないではないか!
「そっ、そんなものを私に使ったんですか!? 馬鹿なんですか!?」
ルウにしてはちょっと深手を負ったが、命に別状はなかった。自力で崖を這い降りられていたのだから、ほぼ健康体だ。消毒薬でも塗っておけばいいぐらいの軽傷だ。
「もったいなさすぎる……!」
嘆くルウに、ディーンは今にも死にそうな顔をいくらか和らげた。
「他になかったんだ。私はほとんど薬を必要としないし、お守り代わりに持っていただけで……使う当てもなかったから、いいんだよ」
ディーンに「無事でよかった」と、今にも泣きそうな声で言われてしまっては、助けてもらった立場のルウはそれ以上文句も言えず、「ありがとうございます」と頭を下げることになったのだった。
――ディーン様が追ってきたのなら、第三王子も来るかもしれませんね。
こうしてはいられない。まだへたり込んだままのディーンに、ちょっと無理して手を差し伸べる。
「早くここを離れましょう。おなかすいたし、ふかふかのふとんで寝たいので」
ルウは魚とポテトを半分しか食べてないのだ。今度クリストファーに会ったら絶対にあとの半分を取り返してやる。
ルウたちはしばらく人里のありそうな方角を目指して進んだ。
長時間にわたるギブソンとの追いかけっこのせいで体力はなくなっていたが、とにかく食べるものほしさに歩き続けた。しかしやせ我慢にも限界が来て、ルウはついにその場にうずくまって、立てなくなってしまった。
「やはり私が背負っていこう」
とディーンが言い出したのはこれが初めてではなかったが、ルウは頑なに首を振った。
「ディーン様は雑なので嫌です! 絶対アザとかできる!」
「分かった、分かったから。気をつける。暴れないでくれ」
ルウは結局捕まってしまい、背負われることになった。
――ううう、歩幅が大きいから揺れるうぅぅぅっ……!
ルウは歯を食いしばって耐えた。これ以上醜態を晒したくなかったのだ。猫は怪我を隠したがると言うが、ルウにはその気持ちが分かる。だって弱みなど見せたら餌食にされるではないか。ディーンは人をからかうようなタイプではないので今のところ笑い物にはしてこないが、それでもルウは居心地の悪い思いをしたのだった。
◇◇◇
小さな小屋を発見したのは三十分ほども歩いたあとだった。まだ辺りは明るいが、じきに夜が来る。
小屋の主は一人暮らしの炭焼き人か、薬師か……いずれにしろ、山仕事をしているらしき女性だった。
「あなたたち、あの崖の上から落ちてきたの?」
恰幅のいい初老の女性はふたりの姿を見るなり、驚いて家に入れてくれた。
「すごいわね、よく生きてたわ」
温めたパンとシチューをご馳走になったところで、ルウは心付けを差し出す。
「本当にありがとうございました。少ないですけどこれ取っておいてください。またお礼をたくさんもって来ますので、今日のところはこれで……」
「あらあらあら、ありがとうねえ。月に一回くらい崖から落ちてきてくれないかしら」
ルウは面白い女性によくよく頭を下げてから、部屋の隅で寝泊まりさせてもらった。
ディーンは歩哨を買って出たので、玄関の外に立っていてもらった。本当にそれでいいのかとルウは思わないでもなかったが、本人が進んでやりたいというのなら仕方ない。
外が明るくなるのを待って、睡眠もそこそこに出発した。
追っ手も見当たらず、天気もいい。心身ともに健康で、さしあたっての危険はなくなった。
――何かあったらディーン様を囮にして逃げるって手もできましたし。
彼は崖から落ちても無傷だということが昨日分かってしまった。これなら聖騎士数十名に囲まれたとしても、置き去りにしてルウだけ逃げれば大丈夫だろう。なんと役立つ囮なのだろうか。ルウはここに来て初めてディーンを頼もしく感じるようになっていた。
浮かれ気分でディーンに話しかける。
「それにしても、昨日は来てくれてありがとうございます」
「いいんだ。無事でよかった」
とディーンが真剣に言うので、ルウは考えてしまった。
「そうですねえ。この後、なんとかして国外に逃げられれば、ひとまず安心なんですが」
公爵令嬢からの依頼はまだあと四、五回こなさなければならない。彼女ならルウが生きていても黙っていてくれるだろうが、その間に王子に死の偽装がバレたら一巻の終わりである。
ディーンが立ち止まって、ルウを見る。その目には強い憤りが現れていた。
「なぜあなたが逃げなければならない? いくら王子でも、このような仕打ち、到底許されるものではない」
「じゃあディーン様がそう言って説得してきてください。聞いてもらえるわけないと思いますけどね」
「いいだろう」
「そう、長いものには巻かれて――え?」
ルウも思わずディーンを真正面から見上げてしまった。服はボロボロでも、朝の清浄な光が似合う高潔な雰囲気はいささかも崩れていない。
ルウは自分の失言を悟って大いに慌てた。
「ちょっ、冗談でもやめてください! 私はこんな国に未練なんかないですんで、穏便に出られればそれでオッケーなんですよ! でもディーン様は聖騎士でしょう? 無職になっちゃいますよ!」
「そうだろうな。上が白だと言えば白だ。うちはそういう組織なんだ」
「じゃあやめましょう、そうしましょう。ここの王家はなんか危ないんですって」
ルウはもうこの際だからと、知っていることを話してしまうことにした。
「なんでも、うちの実母が死んだのも、王家のせいらしいんですよ。秘密を知ったせいだとかなんとか。ディーン様も逆らったりしたら危ないですよ」
「そうか。なら、私も手遅れだろうな」
ルウが聞き返すより早く、ディーンが続きを喋る。
「……君を捜している最中、オハルという女性から、伝言を託された。王家の秘密だそうだ」
思わず手で顔を覆ってしまった。
「……何か余計なことを聞かされたんですか?」
 




