85 迫る追っ手⑤
手渡された剣の鞘を払い、刀身を確かめる。
――いい剣。
ルウは多少なら目利きができる。実戦用のきちんとした剣だ。重量があるのは、怪力だからなのだろう。ケチをつけるとするなら、持ち手が滑りそうといったところだろうか。
ルウはハンカチを細く割いてつなぎ合わせ、持ち手にぐるぐるに巻き付けた。
面白くもなさそうに見守っているギブソンに、くすりと笑ってやる。
「頭が爬虫類の人には分からないと思いますが、人は身体が滅びなくても死ぬことがあるんですよ」
「たとえば?」
「命よりも大切なものをなくしたとき、とか」
「君にとっての大切なものって?」
ギブソンは茶番に付き合わされて退屈しているのか、あまりルウのいうことを聞いていないようだった。舐めきっている相手の目を盗み、ルウはじりじりと後ずさる。
「私が何より大切にしているのは――自由なんです」
ルウは崖のギリギリにまで足を踏み出した。
「私は誰かの言いなりになって生きるくらいなら、自由と心中します」
あと一歩、ほんの少しで落ちる、という場面になって、ようやくギブソンはルウのしようとしていることを察したようだった。
「さようなら」
宙に足を踏み出す。
ギブソンが何かを叫んだ。落下するときの逆巻く風の音で、ルウには何も聞こえなかった。
一瞬の落下を経て、木の枝が生い茂る森に突っ込む。枝が何本も何本もぶつかってきて、痛みで気が遠くなった。
◇◇◇
ディーンは岩山をさまよい歩いていた。聖騎士の同僚や、通りすがりの人々の目撃証言などから、ふたりがこの山に入ったことはつかめている。しかし歩き回っても歩き回っても影さえ見当たらなかった。
――足音がしたかと思えば恐ろしい速度で離れていく。魔獣を追ってるみたいだ。
しかし時折見つかる靴跡などから、間違いなく相手は人間がふたりだという確信があった。
やがてガサガサと高い位置の梢を鳴らしながら下草を踏み歩く音が遠くでかすかに聞こえ、人間だと直感する。
方角さえ分かれば、ディーンは走ることなど苦ではない。何時間でも山を動き回れる。梢の間によく光るい色の髪と肌の人間を発見して、ディーンは大声で呼ばわった。
「殿下!」
ギブソンはひとりだった。ディーンを見つけて、やや嬉しそうな笑みを見せる。
「ああ、ディーン、来ていたの。よかった。ちょっと行って、人を集めてきてくれないかな」
「ソーニー嬢はどこですか!?」
「崖から落ちた」
ディーンが絶句していると、ギブソンはいやに冷静に続けた。
「人のいいなりになるくらいなら自由と心中する、だそうだよ。もったいないね」
冷淡な口調に死を悼む様子はない。価値のある宝石を山でなくしてしまった……そんな程度の発言だ。
「死体を捜さないと。とりあえず崖の麓に人を集めるけど、途中の枝に引っかかってたら回収できないかも。崖から降りられる騎士がいればいいけど」
ディーンはハッとした。崖から降りられる騎士。それは自分だ。『才能』を以てすれば、ほとんど無傷で降りられるだろう。
そして、運良く枝に引っかかっていれば、ソーニー嬢ならまだ生きているかもしれない。何しろあの娘はふてぶてしく、殺しても死ななそうだった。ヤマネコのような身軽さを十全に発揮して、なんとか助かっているかもしれない。
ディーンは走り出した。
「どこに行くの!?」
ディーンはいくらもいかないうちに、開けた崖の上に出た。後ろから茂みを揺らして、ギブソンも戻ってきた。
「死体を捜索するにしろ、人数を集めないと。君まで遭難したらどうするの?」
ディーンは地べたにしゃがみ込む。ハンカチの切れ端が落ちて踏まれ、泥にまみれていた。模様は女性物だ。ならばきっとここが落下場所なのだろう。
ディーンは崖から身を躍らせた。
「どいつもこいつも、救いようがない……!」
ギブソンの苛立ったような叫び声を最後に、ディーンは崖を転がり落ちていった。
◇◇◇
「あいったたたた……」
ルウは剣の柄から両手でぶら下がりながら、思わず呻いた。背中が崖に擦れすぎて、大ダメージを負ったのだ。
高いところから飛び降りるコツはいくつかある。着地をうまくするのも方法のひとつだが、ある程度以上の高さになると使えない。
ルウは背中を崖にすりつけて、勢いを殺しながら、壁に剣をつっかえて落ちていったのだ。
剣が折れ飛ぶ前に崖のどこかに刺さるかどうかは賭けだったが、奇跡的に大きな岩の隙間にガッチリと突き刺さり、こうして宙にぶら下がったというわけなのだった。
「背中、いったぁ……」
服の下はすりおろした大根のようになっていることだろう。背骨がすり切れる前に助かって本当によかった。
それに、剣の柄にぶら下がっていられるのも時間のうちだ。体重を分散させなければ、徐々に傾いてきている現状、いずれは滑り落ちるだろう。
ルウは痛みを押し殺して、そろりそろりと足を動かし、なんとか引っかけられる岩に足を置いた。
次に、岩と岩の隙間に指をかける。
うまく引っかかり 、なんとか一歩分、下に降りることができた。
あとはこの繰り返しである。
――これはきっとギブソン殿下も真似できないでしょうねぇ。
ルウは日頃から家を抜け出し、街の壁をよじ登っていたので、壁のよじ登りは得意中の得意だった。小さいとっかかりがあれば指の力で登っていける。
足場、手をかける岩を吟味しながら、着実に。
気の遠くなるような時間をかけて、崖を降りていった。
半ばまで降りたあたりでだろうか。
急に頭上からすごい音がした。たくさんの枝を巻き込んでへし折りながら何かが落下していく。鳥でも落下したのかとやや焦りながら上を向くと、人間が大写しになった。
「わ、わあああああ!」
ルウにもぶつかる、と思うと、全身が冷たくなった。巻き込まれる。巻き込まれたら――真っ逆さまだ。
焦って横の小さな足がかりに飛び乗った、と思ったら滑った。
――しっ、死ぬ……っ!
中空で体勢を立て直そうともがいたが、努力も空しく、上から降ってくる人間と激しくぶつかった。
吹き飛ばされ、宙に投げ出されるすんでの所で、がばりと何物かに絡め取られる。
「やっ、やめて、死ぬ、死にたくないっ……!」
ルウの口から出た、生まれて初めてかもしれない命乞い。しかし無情にも溺れる者は藁にもすがり、ルウは落下する人物にしっかりとしがみつかれていた。
緩やかに傾斜する崖に身体がぶつかり、跳ね、またぶつかる。ゆるやかな傾斜をざりざりざりざりとすさまじい音をさせなかがら滑り落ちていった。途中で何度もぐるぐると回転するので、ルウの三半規管はめちゃくちゃになり、途中で気を失ったようになっていた。




