84 迫る追っ手④
「……なんで?」
ギブソンの返事が一瞬遅れたのを、ルウは聞き逃さなかった。
「いえ、私のお母様、王妃様とお友達だったそうなので、こんなことが知れたらきっと怒ると思うんですが」
もちろんルウの大嘘である。その場しのぎの、すきを見て逃げ出す方便だ。
母親の名前というのは大なり小なり影響力を持つものらしい。
ギブソンは思わず足を止めた。
ルウにはその一瞬で十分だった。
手首を捻り、ギブソンが掴んでいる手の指先――手をわっかにしている境目のところに、手首のくるぶしを向ける。そのまま、親指と人差し指の間をすり抜けるように、思いっきり引っ張った。
ギブソンの爪に引っかかれ、手首に怪我をしたが、軽傷だ。
ルウは迷わずギブソンの膝の裏に蹴りを入れた。
「うっ、わっ……!」
傾斜つきで足場が不安定な屋根の上で姿勢を崩され、ギブソンは盛大に転んだ。片足が瓦の薄い部分を突き破ってしまったのか、陥没し、足首が埋まっている。
ルウはこれ幸いとばかりに走り出した。
――こうなったらひたすら走り回ってやります。
こうして、鬼ごっこの第二部が開始されたのだった。
◇◇◇
ルウは疲労困憊で座り込んでいた。懐中時計を確認する。もう一時間は走り回っているだろうか。さすがのルウも体力が尽きてきた。
――私の足についてこれる人間なんて、いないはずなんですが……
ルウはとにかく走るのが速い。普通の人間ならものの一分で見失うくらい距離を空けられる。
今も、走りすぎて王都はとっくに抜けた。薬草採取のフィールドも越え、荒れた岩山に足を踏み入れている。足場の悪い場所なら身軽なルウの独壇場だと見込んだのだが、甘かった。
ギブソンが顔色一つ変えずについてくるのだ。
撒いたと思っても、いつの間にか接近されている。
――どうすりゃいいってんですか、これ……
今もかなり遠くの方で、かすかに砂利を踏みしめている音がする。神経を研ぎ澄ませてその音を拾いつつ、ルウはどうしようかひたすら考えていた。
走り回ったので、岩山の地理はだんだん分かってきた。細く切り出した人間用の道から外れると
大きな岩がゴロゴロしているが、踏んづけても土砂崩れしない程度には地盤が固い。ところどころに枯れた川があって、そこは比較的楽に行き来できるが、砂利が敷かれているので歩けば大きな音を立ててしまう。
頂上付近は切り立った崖になっていて、その下は森で覆われているため、様子が分からなかった。
――とにかく、やつが川の砂利をジャリジャリ言わせているうちに、川から遠ざかるよう真横のルートを……
そのとき、遠くから、ジャッ! と強く砂利を踏みにじった音がした。
派手な砂利の音を立ててすぐそばに何かが着地する。
ルウが振り向くと、そこに傲然と顎をあげてルウを見下ろす第三王子がいた。
「君、隠れるの上手だね。私はこう見えて目も耳も利くんだけど、全然捉えられないや。いったいどんな『才能』を隠しているんだか――」
ルウは全部聞く前に、目の前の岩を飛び越えた。ひらりと次の大岩に飛び乗り、岩の上を疾走する。
ギブソンは面倒くさそうに目を細めて、ルウの方を睨んでいる。その目は雄弁に『無駄なのに』と語っていた。
ルウは岩を飛び越え、山を駆け上がっていった。高い位置のルウはギブソンにも目視で確認できるらしく、ずっとあの竜のうろこのような目がルウを追っている。
ルウはとにかくギブソンを撒こうと、遠く遠くを目指していった。
やがて目の前が開けて、崖が眼前に広がる。
行き止まりにルウが立ち尽くしていると、後ろからゆっくりとギブソンが近づいてきた。
「鬼ごっこはおしまい?」
「そうですね。そろそろ終わりにしたいところです」
ルウは荒い息をなんとか整えようと深呼吸を繰り返しつつ、手近に落ちていた木の枝を拾った。
とたん、ギブソンがおかしそうに笑う。
「そんな棒きれでどうするつもり? まさかそれで私を倒すとでも?」
「言いますね。いつも私にしてやられてるくせに」
ギブソンは両手を広げてみせた。
「遊んでただけだよ。君が諦めて、自分から来てくれるのが一番だからね。何をしても私に敵わないと思い知ってもらいたかった」
今度はルウがおかしくて噴き出す番だった。
「裁縫と料理の下ごしらえとナイフと掃除と洗濯と、あとお茶を淹れるのは絶対私の方が上手です」
「いいね、ぜひやってもらおう」
お断りだ、という気持ちを込めて、手持ちの棒をギブソンに投げた。
彼は避けようともしなかった。こめかみに枝が当たり、ぽとりと落ちる。疎ましげに片手で汚れを払う仕草にも余裕が感じられた。
――頑丈……そして体力もある。ディーン様と同系統でしょうか? でも、異常に力が強いのは?
「ギブソン殿下はどうして私に拘るんですか? おとなしい女の子でも探した方が絶対幸せになれますけど」
「そんなんじゃないよ。君のことはもちろん可愛いと思ってるけどね」
ギブソンは勝ちを確信した目でルウを見下ろしている。
「王家の伝承を知っている? 始祖王はドラゴンの一族で、人間の娘に一目惚れをして結婚した」
子どもなら誰でも一度は絵本で読むおとぎ話。冷酷非情なドラゴンの心を動かした、美しいお姫様のお話だ。
王族は強大なドラゴンの血を引いているから、強大な能力を持っているのだと言う。
「あれが本当のことだとしたらどう思う? 私の才能――『ドラゴンの祝福』は、ほぼ無敵だよ。ただの人間に私は殺せない」
魔獣との間に子どもができることなどないので、ただの伝説だと思われてきた。
「そして私たちは、惚れ込んだ娘は決して逃がさない。これは私自身にもどうしようもないことなんだ。だから君は諦めてくれないかな? 君さえ納得すれば幸せにしてあげられるんだよ」
ルウは疲れ切った身体を震わせて少しだけ笑った。
「惚れ込んだ娘へのアプローチが崖っぷちに追い詰めることなんだとしたら、頭が爬虫類ってのは本当そうだなって思いますけどね」
ギブソンは怒るでもなく、ルウを観察するように見ている。油断しきっているのなら、ルウにもいくらか考えがある。
ルウは両手を突き出し、構えた。殴り合いを煽るため、拳を繰り出してみせる。
「勝負しましょうよ。それで私が負けたら大人しくしてあげます。勝ったら、もう私に近づいてこないでください」
「もうやめようよ。そんなにボロボロになって……また今度付き合ってあげるから、今日は帰ろう」
「いいえ、今すぐです。好きな娘のお願いごともきけないんですか? 殿下の言うことが本当なら、私には絶対に勝ち目なんてないんですよね?」
ギブソンは面倒くさそうにため息をつき、両手を広げた。
「これが最後だよ。ちょっと手荒になるけど、君が分からず屋だから、しょうがないね」
動こうとするのを手振りで制し、腰に下げている剣を指さす。
「ハンデぐらいください」
「いいけど、これで斬っても私は死なないよ」




