83 迫る追っ手③
裏通りに積んである空の木箱の縁に慎重に足を乗せる。腐ってはいない。踏み抜く危険がないと見て、勢いをつけて頭上の屋根の縁に飛びついた。
上半身の力だけで屋根によじ登る。
下から足を引っ張られそうになる寸前で、どうにか乗り切った。
「殿下に言っておいてください!」
下でうろたえている聖騎士に声をかける。
「私に用があるのなら――」
ルウは怒鳴り立てながら、一瞬考えた。何を言い残していこうか? できれば第三王子を攪乱して、もう仕立屋なんか調べても何もでてこないだろうと思わせるようなひと言を、今すぐひねり出さなければ。
“ルウちゃん、いいことを教えてあげるわ。”
記憶の中の母が唇に人差し指を当てながら言う。
“男の人にしつこくされて困ったときは、その人のお母さんの名前を出すといいわ。たいてい正気に戻るでしょうから”
ルウは演劇に向いていると褒められた大声を張り上げた。
「王妃様に居場所を聞いてください! 王妃様は何でもご存じなので!」
もちろんルウは王妃と面識なんてない。しかし繋がっていると思わせておくのはウソだとバレるまでなら有効だろう。
そしてルウはさっさと屋根づたいに逃げ出した。
――ここは私の庭みたいなもんですよ。王子だかなんだか知りませんが、絶対逃げ切ってみせます。
以前は辻馬車に乗り込むところを捕捉されて御用になった。おそらく交通系統と主要な道路は見張られていることだろう。
ならばこの近辺に潜伏するしかない。ではどうやって?
屋根を飛び回って、煙突を目安に場所のアタリをつける。ひときわ高い煙突はパン焼き用の窯のものだ。その屋根を飛び越えて、住宅街の小さな煙突に身を隠しながらひょいひょい飛んでいった。
本格的な冬の到来を前にして、煤払いに明け暮れて手も足も真っ黒な煙突掃除人たちの姿がちらほら垣間見えた。
ルウは行き先を考えつつ、真後ろを確認して、ぎょっとした。
白いジャケットを着た男が屋根の上を歩いている。その足取りは危なっかしく、下ばかり見ているので、ルウに気づいた様子はない。
――ヤバい!
「ちょっとお借りしますね!」
手近な煙突の中に入ると、すぐ横で休憩していた掃除夫は驚いて腰を抜かしそうになっていた。
「な……なんだおめえ!?」
困惑している掃除夫に、「しぃっ」と身振りで示す。
「すみません、追われてるんです。匿ってください」
掃除夫は真っ黒な顔をぐいっと手ぬぐいでふいて、呆れたような顔つきになった。
「なんだいおめえ、泥棒か」
「違います。変な男に付きまとわれてるんです。ほら!」
ルウが煙突の死角を指さすと、掃除夫はそちらを覗くなり、眉をひそめた。
「なんだいありゃ……掃除夫じゃねえだろうし」
真っ白な服を着たキラキラの王子様が屋根の上を闊歩していれば、それは怪しく見えることだろう。警備兵ならばともかく、あんな人間が泥棒を捕まえにくるとは思えない。
ルウははしごを伝って奥深くにもぐった。
いくらもしないうちに、頭上から男性の声がふってくる。
「こんにちは、ちょっとお尋ねしたいんですが」
掃除夫が「はあ」と困惑した返事を返す。
「この辺を、黒い髪した女の子が走っていきませんでしたか? 屋根の上を飛び回っていたので、きっと目立っていたと思うんですが」
「いんや……見てないねえ。あちゃあ、あんまり煙突に近づくんじゃないよ、兄ちゃん。真っ白なおべべが煤けちまう」
ギブソンはお礼を言って、離れていった。カンカンカン、と屋根瓦を踏む足音が遠ざかっていく。
「もう行ったぞ」
「ありがとうございました」
ルウはそっと煙突から顔を出す。遠くの方に、ちらりとだけ真っ白な服が見えた。あれだけ目立つ服ならば、そうそう接近されることもないだろう。
そろそろと煙突を這い出たら、掃除夫が顔をしかめた。
「あーあー、服が真っ黒じゃねえか。帰ったらスライムホワイトEXでよく洗うこったね」
「煤煙の汚れに強いって言う噂の洗剤ですね!」
「おうとも。煤と煙の汚れは普通の洗剤じゃまず落ちねえ。油に溶けた煤ってのぁ、要するに油性インクと同じってこったからな。でもあの洗剤なら」
「驚きの白さになるんですね! どうもありがとうございます!」
掃除夫によくお礼を言い、別れることにした。
手近な煙突に身を隠しながら、白い服が見える方とは反対を目指していく。
時折振り返って確認したが、白い服は順調に遠ざかっていた。
――このままなら撒けそう……っと!?
ルウは煙突の影から飛び出してきた人物に、あやうく大声を上げるところだった。
「見つけた。捜しちゃったよ」
ギブソンは上着を脱いで、カラーシャツ一枚になっている。白い服は囮にして、本人は別行動をしていたのだろう。簡単な陽動に引っかかってしまって、ルウはちょっと悔しくなった。
「あちこち煤けてるね。煙突の中にでも隠れていたの? しょうがないなぁ」
ギブソンがあまりおかしくなさそうに空笑いをした。なんとなく目が怖いのもあって、異常な雰囲気を醸している。
「それじゃ、帰ろうか」
ルウは取り合うつもりがなかった。ギブソンは素早く動けないともう分かっている。ルウは脱兎のごとく走り出した。
「おっと、そう何度も同じ手は食わないよ」
ギブソンはルウの腕をひっつかみ、後ろに捻り上げた。
「ちょっとっ……!」
身体をねじって外そうとしたが、思いのほか力が強い。ぐぐぐ、と限界までのけぞってみたが、がっちりホールドされていて外れなかった。
――いったいですね、もう!
人間とは思えない力で掴まれているため、あちこち痛くてたまらないが、弱みをさらすのが嫌で黙っておいた。
諦めて、話で油断を誘うことにする。
「殿下も服が真っ黒になりましたけど、いいんですか?」
「新しく作らせればいいだけだからね。君の替えはきかないけど」
「うまいこと言ったつもりですか? 寒いですが」
「あはは、厳しいねえ」
ルウはギブソンに引っ張られて、屋根の上を歩かされることになった。はしごがかけてある屋根まであと数軒。この間にどうにかしなければならない。
「ところで殿下、王妃様はこのことをご存じなんですか?」




