66 思い立ったが吉日です②
案内された部屋は公爵家らしく華美だった。大木から切り出したかのような分厚く継ぎ目のない一枚板のテーブルと緻密なブロケード張りのソファがあり、ホイットニーとルウを座らせると、公爵令嬢はなんのためらいもなく、ホイットニーの足元に跪いた。
――この人が膝をつくのなんて、神様か王族くらいのものでしょうに。
ご令嬢はホイットニーの手を見るなり、柳眉をひそめて苦悶の吐息を吐き出した。
彼女は無駄のない動作でキビキビと大箱を棚から持ってくると、薬の瓶を選び出し、小さなコットンのパフに取った。
それを爪の上に載せる。
「それ、リムーバーですか? リムーバーでは取れないって聞いてたんですが」
「いいえ、これはリムーバーよりももっと強い……ありていに言うと劇薬なの。きちんとした知識のある人にしか扱えないものなのよ」
「毒……?」
不安そうなホイットニーを見て、バチルダはかぶりを振った。
「わたくしは扱い方を心得ているから大丈夫。こう見えて『薬師』の『才能』持ちなの。ハンブルトン公爵家のバチルダの名は聞いたことがないかしら?」
「ネイルポリッシュの開発者で、薬局にたくさんの薬を卸しているやり手の令嬢」
ルウが記憶にあった知識を並べると、バチルダはうなずいた。
「そして、ネイルに毒を入れた犯人?」
「ごめんなさい……こんなことになるなんて」
苦しみを吐露するようにかすれた声で言い、目を潤ませるバチルダは、決して悪人には見えなかった。
――何か事情がありそう。
「この子、薬師ギルドの人のところにも行ったそうなんですよ。でもろくに治療してもらえずに追い返されたって」
「本当にごめんなさい、今わたくしは薬局に関わらせてもらえていないの」
「スポンサーで、開発者なのに?」
「……ハメられてしまったの」
そのひと言でルウは何となく色んなことが分かった気がした。
「噂で聞いたことがありますよ。非常にすばらしい薬師の才能を持ったご令嬢がいて、限られた貴族の間でだけ流行っていた化粧品を、一般にも『貴族御用達』のブランドをつけて販売し始めた――とか」
「そうよ。ワクワクするような夢のある商品を売りたい、それで皆を幸せにしたい――という甘い誘いに、わたくしはまんまと乗せられてしまったのね」
「ネイルポリッシュ、綺麗ですもんね。宝石みたいで。本物の宝石には手の届かない、一般家庭のお嬢さん方にとってはとても魅力的な商品だったと思います」
「わたくしもこの商品はとても気に入っているの」
「でも、じゃあ、どうして毒なんて入れたんですか?」
「誤解よ。わたくしは毒なんて入れていないわ。でも、怪我をした手では使って欲しくない商品だったの。見てちょうだい」
バチルダはネイルポリッシュを取り出して、貝殻の裏に塗りつけた。半透明の赤色をした塗料が二刷毛、三刷毛、薄く均一に塗り広げられる。
「このネイルはスライム素材を使っていて」
「毎度おなじみの」
「? ええ、とても用途が幅広くて有用な素材だわ。スライムはね、敵から攻撃を受けると硬くなる性質を持っているの。それを利用して、固まらせるのがこのネイル」
バチルダがコンコン、と貝殻を叩くと、塗料があっという間に硬化していった。
「そして、リムーバーは、スライムに『もう安全ですよ』という信号を送る液剤を塗ることで柔らかくしているの」
バチルダが目の粗い綿布にしみこませたリムーバーでこすると、赤い塗料は剥がれ落ちて、もとの白い輝きを取り戻した。
「でもね、爪に傷があると、まだ攻撃をされていると判断して、リムーバーでは取れなくなってしまうのよ」
バチルダがナイフを取り、貝殻の内側に大きくバツを書いた。石灰のような白い粉が削れて吹き出し、傍目にも分かるほど大きな溝が出来る。その上から赤いネイルを塗り、硬化させた。
今度はリムーバーでこすっても、塗料はまったく落ちなかった。
「へぇ、面白いですね」
ルウはスライムの性質など初めて知った。これも彼女が発見したのだろうか。
「だから本当は、爪に傷がある人や、爪が薄くなって弱っている人には使ってはいけないって但し書きをしてほしかったのに、薬師ギルドのギルド長は但し書きをしてくれなかったの……」
「それはひどいですね。公爵家の力で今からでも布告できないんですか?」
「薬の品質管理は薬師ギルドの管轄だから、公爵家が何を言ってもギルドが否定したら取り合ってもらえないわ。それで無差別に売って、問題が噴出したところで、私に罪を押しつけたのよ。今思えば、ギルド長の目的は最初から販売権を奪い取ることにあったのね。私はせっかく開発した薬の権利も、丸ごと放棄するように迫られているわ。そうすれば正しい布告を出すって脅されて……」
「うわあ、無慈悲……」
汚い手を使う大人もいたものだ。
お話をしている間に、ホイットニーのネイルポリッシュは全部取れたらしい。彼女はてきぱきと処置をして、最後に爪の表面を撫でた。
「はい、綺麗になったわ。あとはこの緑色の爪の治療だけれど、毎日この薬を塗って、よく清潔にするよう気をつけてちょうだい。そのうち綺麗な新しい爪に生え替わるはずだわ」
「ありがとうございます! 私、手が腐ったらどうしようかと……」
「本当にごめんなさい……」
「あっ、責めたわけじゃなくって、本当に治せてもらえてよかったなって……!」
治療が終わり、公爵令嬢が知的なまなざしをルウに向ける。
「ねえ、身勝手なことをお願いするけれど、あと三週間、いいえ、二週間ほどこの話は内密にしてもらえないかしら」
 




