65 思い立ったが吉日です①
◇◇◇
ルウはディナーの仕込みを終え、その日一日のバイトをすべて終えた。
――今日もよく働きました。
魚のにおいが染みついてドロドロの手袋やエプロン類一式をランドリーボックスに投げ入れたあと、手洗い場で、買ったばかりのミョウバン石を手指にすり込み、水ですすいだ。
――うーん、取れてるんでしょうか。鼻が慣れてしまったので分かりませんね。
悩みつつ荷物を取りに着替え部屋へと戻ると、先にあがったホイットニーがいた。
「あ……ルウちゃん」
びくりとした彼女が、さっと手袋をつける。
「わ、それ、貴族っぽくておしゃれですね」
「う、うん……」
ルウも着替えようと思って荷物に手を伸ばしたら、ホイットニーから声がかかった。
「あれ、ルウちゃんの爪……」
「あ、これ? いいでしょう。爪用の塗料なんですよ」
ホイットニーはなんだか辛そうな顔をしている。
「……何かありました?」
ルウが二の腕に触れると、彼女はそっと手袋を脱いだ。
「私も、ネイルを塗ってるんだけど……」
爪の先がつややかに光を弾き、緑色に光る。
「緑のネイルですか? 珍しい――」
「違うの、これ、本当は透明だったのに、緑になってきちゃったの……」
ルウは薬局の店員が言っていたことを思い出した。
――毒が混ざっているという噂で……実際に、爪が緑色になってしまったお客様がご来店なさったことがございます。
「毒入りのネイルっていううわさの? 大変じゃないですか!」
「う、うん……それで、リムーバーではがそうとしたんだけど、取れなくって……ねえ、ルウちゃん、どうしよう、私、このまま手が腐っちゃったら」
「お店に行きましょう! なんとかして解毒剤をもらわないと!」
「もう行ったの……でも、お店ではどうしようもないって……しまいにお店の偉い人が出てきて、このお店はハンブルトン公爵の後援で成り立っているから、どこに訴えても無駄だって……」
「なんてひどい」
薬局の店員は、『毒を混ぜたのは名前も出せないような人』と言っていた。となれば、ハンブルトン公爵が関わっている可能性はかなり高い。
公爵だか何だか知らないが、ルウだって侯爵令嬢だったのだ。貴族の名前を出されたくらいで怯えるルウではない。
ルウは素早く着替えると、ホイットニーに言う。
「行きましょう。直接文句を言うんです」
「え!? で、でも……!」
「大丈夫ですよ。私、こう見えて強いので。危なくなったらちゃんとホイットニーさんを連れて逃げますんで、安心してください」
しぶるホイットニーをあの手この手で説得し、ルウは夜道をてくてくとハンブルトン公爵の屋敷まで進むことにしたのだった。
「ルウちゃん、道分かるの?」
「いえ。でも、聞けば分かりますよ」
ルウは適当な辻馬車を捕まえ、『ハンブルトン公爵の家はどちらか』と聞く。すると馭者は淀みない手つきで『セントラル通りに出てアッカーマン家の家を右に曲がって三番目、船の紋章』と教えてくれた。
チップを渡して、成り行きを見守っていたホイットニーににこりとする。
「貴族の家ならたいてい馭者が知っていますよ」
「そ、そうなんだ……ルウちゃん詳しいんだね」
「あちこちでバイトしてるので」
適当なルウの嘘に、ホイットニーは納得してくれた。
――船の紋章……あったわ。
そこは立派な門構えの美しい城館だった。よく手入れの行き届いた左右対称の庭の奥に、大きすぎるほどの玄関ポーチ、とんがり屋根の装飾が美しいクリーム色の大きな建物。
見るなり、ホイットニーはまた怯えだした。
「ほ、ほんとにこんな立派なお屋敷に行くの……? 怒られない……?」
「だーいじょうぶですよ」
ルウはホイットニーをひょいっと抱き上げた。
「えっ、えっ!?」
「いざとなったらこうやって抱きかかえて逃げるので」
すとん、と地面に降ろすと、ホイットニーは真っ赤になっていた。
「お、重くなかった……?」
「ぜーんぜん! 私、百キロの麻袋だって抱えて走れますよ」
「ルウちゃんって何でもできるよね……」
すごいなぁ、と言ってくれるホイットニーに微笑みを返して、ルウは門番に近づいていった。
「こんばんは。ちょっとお話があるのですが」
ルウたちを交互に見ながら、門番は傲慢な態度で言う。
「物乞いならよそを当たってください。そちらに教会があるので――」
「こちらの薬局で買った爪用の顔料について、少々申し上げたいことがございます」
ルウは下町訛りから一変して、わざと最上級の貴族のアクセントで言った。
門番の顔色が変わる。彼も日常的に貴族の言葉遣いを聞いているのだから、ルウが本物だとすぐに分かったことだろう。
そばにいたホイットニーの手を突き出した。
「ほらご覧になって、顔料を使用したら、緑色になってしまったそうですの。でも、こちらの哀れなお嬢さんが薬局の方に事情をご説明しても、追い返されてしまって。公爵閣下が後援だとうかがいましたので、わたくしが、お小言を申し上げに参りました」
ルウが真っ正直に言うと、門番は露骨に慌てだした。
「失礼ですが、いったいどちらの――」
「お話になりませんわね。いいからハンブルトン公爵を呼んでちょうだい。ネイルのことだと言って飛んでこないようであれば、無責任な方だと見做して、わたくしもお付き合いを考え直しますわ」
ルウの高圧的な態度に、門番は『どこの高位貴族だろう』と悩んでいるようで、『お待ちください』といって、奥に引っ込んでいった。
「……ルウちゃんって、もしかして、本当に貴族?」
「なんで貴族のお嬢様が調理場で野菜切ってるんですか?」
「そ……そうだよね。でも、びっくりしちゃって」
ホイットニーはきつねにつままれたような顔で、ルウをじっと見ていた。事情を説明しようか一瞬迷ったが、巻き込まない方がいいとすぐに思い直した。
――だいたい、私が貴族だったからってホイットニーさんの人生には何の関わりもありませんしね。
余計なことは言わないに限る。
やがて門番が消えていった勝手口から、ショールを被り、人目を憚る様子の女性が出てきた。闇夜に掲げた明かりから見える顔は、まだ若い。ルウと同い年か、少し下くらいの少女だ。
「こちらにいらして。治療をするわ」
凜とした声と身振りに、美しい高位貴族のアクセント。隠そうとしても分かる高貴なオーラ。ルウもピンときた。彼女とは、夜会で顔を合わせたことがある。ハンブルトン公爵が目に入れても痛くないほど可愛がっている一人娘。




