64 義理の妹にさようなら
◇◇◇
クリストファーは自室で書類をまとめていた。
ソーニー侯爵の廃嫡を申請するための書類だ。彼の不倫を裏付ける証拠は揃えてある。
それから、王妃がルウの母・シビュラ宛てに送った手紙も。
ルウへの虐待が行きすぎたときのために、うまく使おうと思って取っておいたが、必要がなくなったので、先日ルウに返却した。
シビュラは王の託宣を請け負うという立場からか、私的な手紙などは一切残さずに処分するようにしていた。情報の漏洩を警戒していたのだろう。だからあの手紙は、クリストファーが偶然手にした、王妃とシビュラの繋がりを示す唯一の証拠書類なのだった。
こうしたものを揃えるのはクリストファーの特技だった。
彼の『才能』は、『政務』なのだが、必要な証拠を揃えて適切な処理をする――という、漠然とした広範な作業全般に効果があった。欲しいと思ったときに天の配剤としかいいようのないお膳立てで必要分の証拠が揃うので、非常にスムーズにものごとが運ぶ。もっとも、政務から一歩離れるとたちまち効力を失うのだが。
ルウの監視がうまく行っていたのも、彼女がソーニー侯爵の跡取りで、生死が政治に直結するからだろうとクリストファーは思っている。
クリストファーは持ち前の『才能』をいかんなく発揮し、ソーニー侯爵の廃嫡の手はずを整えた。あとは王家の裁可を待って、クリストファーが継ぐだけだ。
――本当にこれでよかったのかなぁ。
クリストファーはまだ言い知れぬ罪悪感に悩んでいた。
実は、廃嫡自体はもっと早くからやろうと思えばできたことなのだ。
実行しなかったのは、臆病な性格のせいで、腰が引けてしまったのがひとつ。
クリストファーに目をかけてくれていたソーニー侯爵が悪い人のようには思えなかったというのがもうひとつ。
さらに、ルウが侯爵家の跡継ぎを望まなかったというのがあった。
これは以前に、ルウとの対話で確認できた。彼女はとにかく外の世界に出て行きたいと繰り返していた。面白おかしく自由にその日暮らしをするのが一番の望みで、クリストファーのように毎日書類の処理に追われる生活はしたくないと常々言っていた。
――別にルウが書類に目を通す必要はないんだよ。補佐の私に任せておけばいい。
そう諭したものの、ルウは断固として意見を変えなかった。
――嫌ですよ。どうせ貴族の世界にはお父様やゴディバおばさまみたいな人しかいないんでしょう? そんな人たちとニコニコパーティするだけの毎日なんて面白くなさそうです。
――パーティが嫌なら、いかなくてもいいよ。
クリストファーが言うと、ルウは目をぱちくりさせた。
――じゃあ、私は何をすればいいんですか?
――別に何も……いてくれればいいんだよ。家族ってそういうものだよね。
そのときのルウの冷たい目がいまだに忘れられない。
――お父様もゴディバおばさまも、私なんていなくなっちゃえっていつも思っているのに?
ルウには家族が必要だったし、その役割を少しでもしてあげられるのはクリストファーだけだった。
分かっていたのに、彼は結局、他人の家庭の事情に巻き込まれるのが嫌なのと、優柔不断で何も決められない性格とで、ルウとの関わりを減らし、侯爵のところで政務をするのに時間を費やした。
だからヘルーシアに『父の言いなりに姉を捨てたくせに』と言われたとき、動揺してしまったのだ。
――その通りだ。私もルウを見捨てた人間のひとりなのに、今更帰っておいでなんて、虫がよすぎる。
何もかも今更だ。
だからこれは、決断が遅かったクリストファーなりの罪滅ぼしだった。
せめて彼女が戻ってきたいと考えたときに、いつでも明け渡せるよう侯爵家を整えておこう――そう決めたのだった。
◇◇◇
ルウはクリストファーからもらった手紙を手に、首をひねっていた。
中身はなんてことのない近況報告だ。
王妃の息子たちの身の回りに起きたことを案じ、これは不吉な予兆ではないのかと心配するような文章が書いてあった。
母親は王家のアドバイザーとして、『神託』をしていたそうなので、これ自体は不思議でも何でもない。この何の変哲もない手紙に何の意味があるのだろうかと、考えてみたがやはり分からなかった。
――形見分けでしょうか? まあ、もらっておきますか。
ルウは気軽にそう考え、旅行鞄の隙間にでも挟んでおくことにした。
その後、ルウはいつものお針子通りでワッサたちを見つけて、声をかけた。
久しぶり、と言ったワッサが途中で顔をしかめる。
「あんた、魚の匂いは大分マシだけど、お酢くささは直らないんだね」
「ハンドクリームじゃごまかしきれませんか?」
「もう一声ほしいねぇ。ツンと来る感じがお酢なんだよ」
「どうしたものでしょうか」
「ねえ、ミョウバンはどう? あっちならそんなに匂わないよ」
別の主婦も声をかけてくれた。ルウはミョウバンが買える場所を聞いて、また後で行ってみることにした。
ルウは縫い物をしながら、回し読みで回ってくる新聞にざっと目を通した。
三面記事にふと見慣れたソーニー侯爵の名前を見つけて、ぎょっとする。
当主がクリストファーに交代したとあり、ルウは二度見してしまった。
ルウ・ソーニーの失踪絡みで病んでしまった侯爵が、当主の座を譲って隠居するのだというようなことが書いてあった。しかし、あの父に限ってルウのことで心を痛めるはずがないと、ルウは知っている。
――妹はどうなったんでしょうか? ゴディバおばさまは?
しかし新聞には載っていなかった。
――もう一回様子を見に行きましょうか……?
と、一応義理で思ったものの、ルウは気が進まなかった。この間もヘルーシアには可愛くないことをたくさん言われたばかりだ。
――何があったのか知りませんが、父のことならクリストファーがなんとかしますよね。
彼はずっと父に世話になっていたはずだから、悪いようにはしないだろう。もしもルウに用があるならまた会いに来るはずだ。
勝手に納得したルウは、きれいさっぱり忘れることにしたのだった。
――これでもう妹に勝手な噂を広められることもないでしょう。一件落着。
思い返せば妹にはいろんなことをされた。
持っていったお菓子は汚いからいらないと拒絶され、よかれと思って差し出した氷の飴には感謝されずにとにかく嫌われた。家庭教師をつけてもらえないのでダンスのステップが分からずに困っている姿をクスクス笑われ、ドレスが一着しかないルウの事情を知っているのに『あれがお気に入りなのよ』と笑われ、とにかく色んなことを笑われた。
――まったく可愛げのない子でしたが、二度と会えないと思うとちょっと寂しいですねぇ。
しかしルウはそんなことで涙を流すような繊細さなど持ち合わせてはいない。
むしろ悩み事がひとつ片付いたので、すっきり爽快な気持ちで、すいすいと調子よく縫い物を進めていったのだった。




