54 閑話・執事の回想
この話はプロローグに置いていたのですが、現在は別の物に差し替えています。
ハミルトンはウィラード邸の執事だ。使用人の数は少なく、それほど大きな家ではないが、年齢的に経験が浅いだろうと軽く見られがちなので、楽しいながらも厳しい毎日を過ごしている。
そのウィラード邸には現在、居候がいる。悪女と名高いご令嬢だ。
招かれざる女性はある日突然この屋敷に押しかけてきた。屋敷の主人にあたる聖騎士・ディーンの婚約者にしろとの無茶な要求をして、まんまと一室に居座ることに成功したのだ。とにかく悪い評判がつきまとう娘だったので、執事のハミルトンは警戒を怠らずにずっと彼女を観察していた。
そしてとうとう、尻尾を掴んだのである。
――あれは噂通りの悪女だ。
濃い化粧と型破りなドレス。底意地が悪く、ハミルトンにも巧妙な嫌がらせを仕掛けて、こざかしくずさんな隠蔽工作を試みる。淑女ぶっているのにふとした瞬間に唇からこぼれるアクセントは下町の無教養な娘のそれで、彼女が普段どんな人物と付き合っているのか容易に察せられた。
――この女がご主人様と婚約するだって? 冗談じゃない。
世間的には、ルウ・ソーニーは聖騎士ディーンの恋人だということになっている。しかし事実は大きく違い、彼らの間には何の関係もなかった。ディーンはその優れた外見、名誉、財産などから、たびたび女性たちから迷惑なアプローチを受けているのだが、ルウ・ソーニーも肩書きに目がくらんでディーンに取り入ろうとした女性のひとりだったのである。
ハミルトンはしっかりその証拠を目撃した。深夜に彼女の部屋の窓が開いているから、何かと思って見に行くと、煙のように消えていたのだ。部屋には脱ぎ捨てられたナイトウェアがあり、クローゼットからは彼女が唯一持っていたドレスと靴、アクセサリ一式が消えていた。
間違いない。彼女は部屋を抜け出したのだ。貴族令嬢が、供も連れずに、深夜、人目を忍んで!
どう考えてもまともではない。異常な男好きの噂は本当だったのだ。
なるほど確かに、ルウ・ソーニーは美しい娘である。
あの娘の、一見大人しそうで、それでいて危険な香りのする色仕掛けに、数多くの男が惑わされたというのもうなずける話ではある。彼女の中には間違いなく尖った何かがあるのに、巧妙に隠されていて真実に近づけない。幾重にも重ねられたヴェールや、焚きしめた香にたなびく薄い煙が目隠しとなって、その奥にたたずむ女性の本当の姿はまったく見えてこない。彼女が過ぎ去れば、ただ美しかったという、ぼんやりとした印象だけが残る。
そして彼の主人、ディーンもその毒牙にかかろうとしていた。
ディーンにはもうかなりの毒が回っているようだ。彼女の素行がどんなに悪くても目をつぶるつもりでいるため、ハミルトンの進言を受け付けない。いくら追い出すべきだと言っても『気に入らない相手だろうが、感情を殺して丁重にもてなすのがお前の仕事だ』と逆に説教をする始末。彼は聖騎士として真面目に勤めており、決して女性の誘惑にやられるような人間ではなかった。つけ込まれるような失態を起こしたのはこれが初めてのことだったのだ。まんまと手玉に取られ、惹かれていることも自覚できないでいる男に、どうやって太刀打ちができただろう。
頼りない主人のために、ハミルトンは一計を案じることにした。男好きの悪女に、ディーンよりもいい男を紹介し、自分から出て行かせるのだ。
適材適所というべきか、悪女には悪女なりの需要があり、まともな女性よりも魅力的だと感じる男も存在する。それ自体は否定すべき事柄でもない。ただ、ディーンには合わない相手だったのだ。誰かが引き離してやらなければいけない。
ハミルトンはさまざまな方面にかけあって、ようやく侍女の職を見つけ出した。
遊び人と噂されている第三王子のお付きだ。普通、王子にまっとうな若い侍女は付けないので、要するに愛人ということになる。夜遊び好きの悪女にはお似合いの職だろう。
ハミルトンは紹介状を持たせるタイミングを虎視眈々と狙っていたが、ある日とうとう彼女の悪事をディーンの目にもはっきりと分かるよう示すことに成功した。そこに便乗する形で、有無を言わさず突きつけた。
当人はあっさりと承諾して、紹介状を受け取った。美形で華やかな社交界を好む王子は、悪女のお眼鏡にかなったようだ。美しい瞳を無邪気に細め、赤く染めた爪の先で封筒を撫でるルウには心から失望した。
「泣けば少しはかわいげもあったのですが」
「私、向こうでも幸せにやるつもりですので」
ルウは旅行鞄を提げてにこにこしている。頭のてっぺんから爪先まで楽しそうなオーラがみなぎっていた。地味な衣服を身にまとっていても隠しきれない均整の取れたしなやかな腕で、大の大人でも持て余すような大型の鞄を軽々と持ち上げる姿からも、追放を少しも苦だと思っていないことは窺えた。
ハミルトンはカッとなった。
「二度とご主人様には近づかないでください」
「お世話になりました」
食えない返事を残し、ルウは軽やかな足取りで屋敷を去っていく。しゃりしゃりと小気味いい音を立てて砂利道を行く姿をぼんやりと眺めているうちに、ハミルトンは狐につままれたような気分になった。
――とんでもない悪女……の、はずだったのですが……
はたして本当にそうだったのだろうか。考えようとしても、ルウの印象はあいまいだ。
本当は、どんな娘だったのだろう。思考を巡らせる間にも、どんどん捉えどころがなくなって、しまいにどうでもよくなった。
唯一ハミルトンの中に残ったのは、これでよかったのだという思いだけ。
ようやく厄介払いができたとせいせいしていたハミルトンだったが――
「ソーニー嬢はどこに行った!?」
その日の夜、血相を変えた主人から詰め寄られて、状況が変わった。
主人のただごとではない様子に、ハミルトンはいくぶんか言い訳がましく返答する。
「第三王子と縁があったようで、そちらに住むといって、家をお出になりました」
彼が追い出したとは言えず、とっさに嘘までついた。ディーンが繊細で女性的な美貌を思い詰めたように歪ませていたので、自分のしでかしたことが急に恐ろしくなったのだ。
「聞いてないぞ!? なぜ引き留めなかった!?」
ハミルトンはうろたえた。虎の尾を踏んだと直感したのだ。
「しかし、ご主人様は彼女を持て余していたのでは……今朝のことだってご覧になったでしょう!? ご主人様の制服を台無しにしたのですよ! あれは本物の悪女です!」
何が不満だったのか知らないが、彼女は勝手にディーンの私物をめちゃくちゃにしたのだ。あの現場を見れば、ディーンもルウ・ソーニーの追放に納得するだろうと思っていた。自分から出ていったとなれば、なおさら。
「違う、誤解だったんだ!」
ディーンは大急ぎで羽織っている聖騎士の制服を脱ぎ、裏返してみせる。
「見ろ。ソーニー嬢が縫ったんだ」
裏地には無数の針の跡が残っていた。
これは今朝、ソーニー嬢が無断でやったものだ。糸をほどいて、もう一度縫い合わせてある。そのせいで、制服はだぼだぼのよれよれ。見るも無惨な姿に変わり果てていた。
ハミルトンは執事という職業柄、服には詳しい。主人の身だしなみを整えるのも彼の役目だからだ。だから今朝方、制服の変化にもいち早く気づいた。
――この服、なんだかやけにぐにゃぐにゃしているな。
着ていなくても直立しそうなほどかっちりと仕立てられているのが上等な服というものだ。特に騎士用の服は、身体にぴったりとフィットしてこそ貴族的な雰囲気が醸し出されるのに、これではまるでくたびれた農民の服ではないか!
聖騎士は全貴族、全国民にとっての憧れ。用意されている制服も、名誉に見合うだけの素晴らしいものだ。洗練されたフォルムは、これを着ているだけで『誰でも男前に見える』と言われるほど。美形で世間を騒がせた彼の主人に、この上なくふさわしい服だったのである。
ハミルトンは涙を抑えられなかった。
「格調高い服を、かように台無しにするとは、あの悪女め……!」
「違う! もっとよく見てくれ!」
主人は制服をもう一度着込んだ。
服は芯を抜かれたせいで、全体的にくたっとしている。腕や腰のシャープなラインが主人の怜悧な美貌を際立たせていたのに、もはや見る影もない。首回りを引き締めていた詰め襟も勝手に取り除かれていた。
三ランクぐらい貧相になっている。こんなにだらしない服を着ている貴族はいない。普通、貴族というものは、首にタイを絞め、糊のきいたシャツを着て、きっちりと採寸した服を着ている。どんなに狭小なカントリーの屋敷しか持ち合わせていない貴族だってそうしているのだ。制服は聖騎士の魂と言ってもよかった。
しかし主人は無残にも作り替えられた制服の両手を振り回して、子どものように浮かれていた。
「どれだけ動いても、服が引っかからないんだ! おかげで痛めていた肘を気にすることなく剣が振るえた!」
徒手空拳で、素振りをするディーン。
言われてみれば、服がまるで皮膚のようにぴったりと張り付いている。腕周りの縫製が非常にうまく行っていることが窺えた。振り回しても肩口が浮かず、引っ張られて袖口がむやみに動くこともない。
ハミルトンには信じられなかった。これは一流の仕立屋の仕事だ。何十年と修業した果てにようやくたどり着く職人芸の域。それをあの娘がやったというのだろうか。今朝、確かに彼女は針を刺していた。暗いワードローブで、孤独に。
「私の故障は、動きにくい服で無理に剣を振るい続けたせいだったんだよ。ソーニー嬢は気づいていたんだ」
ハミルトンはいよいよ青くなった。服の専門家を自負していたが、まったく思いもよらないことだったのだ。恥じ入ると同時に、今朝のやり取りを思い出す。
ワードローブに忍び込み、こっそりと針を刺している彼女を見つけたのはハミルトンだった。やましいところがないのなら、何もわざわざ忍び込む必要などない。それできっと、よからぬことを企んでいるのだろうと決めつけた。
そのときのルウ・ソーニーの目つき。
愛らしい風貌には不釣り合いなくらい妖艶に微笑みつつも、次の瞬間には笑みを消し、ハミルトンを非難するように冷たく睨み上げていた。
あれはハミルトンという人間を正確に理解していた目だ。
――仕立て直しをしたいと言っても、どうせ断るでしょう?
言葉もなく、心でそう反論していたに違いない。そして主人ごとまとめて見限ったのだ。
「ソーニー嬢に謝罪しなければ。しかし、第三王子のところか……」
うめくディーンの声は後悔に満ちていた。ハミルトンもまた、情けない思いでいっぱいだった。
ルウを取り戻そうにも、第三王子の部屋では、手が出せない。




