29.封印と解放の時
「ルチヤさん、最近元気ありませんねー」
すぐ傍のレッカの声が遠く聞こえる。何故だろう。
「もしかして、ダートゥさんに愛想つかされて料理作ってもらえなくなっちゃって落ち込んでます?」
「何でそうなるのあんたの発想は?!……まぁ、何だかね。いろいろ考えちゃうことがあるのよ」
季節は雨季にさしかかり、アヴァニの民の多くが不用意な旅をしない時期となっている。
だが、ルチヤらには関係なかった。これから赴こうとする地は、南部マディヤ高原のアーカルラ。最初にストゥーパの地の宝珠を見つけたところにある。その地下坑道の最深部より、魔帝ドゥルガーが封印されている地底世界、ムドラーへと足を踏み入れるのだ。
「何か忘れてないか、やり残したことがないか……みんな心配なのよ」
ヴィロークは占いのカードと睨みあいをすることが多くなり、シルティはこっそり獣や鳥を呼んでは、彼らの話に耳を傾けているようだった。ダートゥだけは相変わらず、ルチヤや皆の食事管理に余念がない。
「じゃあルチヤさん、気分転換というか現実逃避に舞を一曲! 十八番の『月の恋人』で」
「それが今いちばん無理なんだってば……」
本物の月の天女を前にして。悲しい過去を背負いつつ、その結末を締めくくるべき人物にこれから会いに行くのだ。こんな状態で踊る気にはなれない。
「ルチヤ。少しいいか」
珍しく、食事以外の用でダートゥに声をかけられた。ルチヤはレッカと別れてガーナ傭兵団の書庫を後にした。
「さっき言っていた『月の恋人』の舞台なんだが。この機会にやってみる気はないか」
「え……?」
本当に珍しかった。ダートゥがルチヤの踊りのほうに口を出すのは、これが初めてかもしれない。
「いや、その……何と言うのか、俺が見たいと思ってしまったんだ、何故か」
「ふぅん……」
何故か気まずい沈黙が続く。本当に、どう返していいのかわからない。
「赤蕪の、ヨーグルトサラダ」
「?」
「何か、急に食べたくなっちゃったの。作ってくれるんならいいよって思って」
「そうか……それでいいなら、お安い御用だ」
「違うの。安くないの。でもそうして欲しいの」
「……よくわからないが、いいんだな」
「うん。だって、見たいんでしょ? あたしはそれでいいの」
二人してわけのわからないやりとりを交わし、その晩の支度をはじめた。
月の乙女が愛した者は、理想の男性ではなかったかもしれない。
それでも彼女は、愛し続けることを誓ったのだろう。
自らを削る思いで、同胞らに止められながら、それでも止めなかった。
ルチヤはふと、思う。自分の母親は、こんな気持ちだったのだろうか。
シルティの親も、何か複雑な事情を抱えていたのだろうか。
ダートゥやヴィロークら、男達のほうはどう考えていたのだろうか。
気がつけば夢中で舞っていた。考えるより先に身体が動いていた。
「ルチヤさん、凄い、凄かったですよ!!」
レッカが興奮して抱き着いてきた。シルティが、泣きそうになるのを堪えて拍手している。
酒場のマスターも、女将のルルゥーパも。いつぞやに会った女兵士達やヨーディン団長らまでもが観衆に加わっていた。
「……ありがとう、みんな。ここで踊らせてもらえて、本当によかった」
気がつけば我が家のように過ごしていた『真珠の森の羚羊亭』。ガーナ傭兵団のみんな。
妹のように面倒を見てきたシルティは、そろそろ独り立ちの時を迎えようとしている。
これから行くところは、戻ってこれないかもしれない。それでも。
一緒に行ってくれる彼らも、ここで待っていてくれる人々も。
みんなのためになら、頑張れる気がする――
そう思わせてくれたのが、この夜だった。