24.虚空の聖域
「っつつ……」
ルチヤは頭痛を堪えつつ上体を起こした。極寒の万年雪のただ中にいたはずが、無機質な雪花石膏の石材に囲まれている。そこかしこに小さな小窓が開いていて、外は明るい陽射しの場所なのだろうと推測できるが、全体的に光量が足りず、白い大理石が薄灰色の世界を創り出している。
辺りを見回しても、他の連中の姿が見当たらない。シルティは。ダートゥは。ヴィロークは。一緒にいるのが当たり前になっていた彼らが、彼女らがいない。一気に押し寄せてくる心細さを必死で押し隠し、ルチヤは二つの方向に開けている道を直感で選び、足を踏み出した。
石材の随所に古代文字が刻まれていて、片手をつくとひんやりとした感触が伝わってきた。そのうちに何者かの気配が伝わり身構えた。前方を何かが遮っている。
女性、のような気がした。気がしたというのは、上半身から腰、肘や膝はそう見えるということだ。手足の先ほど鱗や水かきなどに覆われ、大型の魚のような形状に変わっていっている。
今にも襲いかかられそうな気迫で睨まれ、ルチヤは刀を抜き身構えた。しかしその怪物はルチヤに近づくにつれすうっと全体が薄く見え、最後には見えなくなって潮の香りと微風だけがルチヤの身体を撫でていった。
「ルチヤ!」
聞き慣れた高い声がした。急いで通路の先を駆けめぐると、シルティがいつもの無事な姿でこちらに近寄ってくるところだった。それだけでルチヤの心は安堵した。
「他のみんなは?」
「わからないの。でも、あまり遠くにはいない気がする」
シルティと話すうちにまた他の気配を感じた。ルチヤが来た方ではない、もう一つの通路から足音が聞こえる。身構えるも現れた僧衣の人影を認め、ルチヤは安堵の溜息をついた。
「ダートゥ」
近寄って改めて確認すると、彼は無造作に指でルチヤの頬をつまんだ。
「ちょ、何すんのよ?!」
「……ちゃんと実体はあるな。先ほど、女形の怪物の姿が見えたんだが、あれは幻像だったようだ」
ダートゥのいた場所は袋小路で、こちら側に行くしかなかったという。
「ってことは……他に道はないのかしら?」
「待って、あたしのいた部屋の逆方向の通路が残ってることになる」
引き返すことになったが、無事な二人の仲間を見つけられてよかった。そうなると残りの一人が気になったわけだが、それは次の部屋であっさりと見つかった。
「おお、来た来た」
少々間延びした、緊迫感のない声が聞こえてきた。声の主は胡坐をかいて床に座り込み、棕櫚の葉のカードを並べてそれを睨んでいたところだった。
「ヴィローク、何やってんの」
「いやだからさ、どっちかに進もうかここに留まっていたほうがいいか、カードで決めようとしてたところ。それでお前らに会えたんだから、やっぱり正解だったってことかな」
相変わらずの占い狂いにルチヤは苦笑する。
「……多分、俺のいた部屋が〈地〉、シルティが〈水〉、ルチヤが〈火〉、そしてここが〈風〉だ。一直線になっている」
「ああ、そういうことか。各々近い属性に引き寄せられたわけだな。するってーとこの先が〈空〉……」
先に延びる道のほうへと足を進める。
「なんだろ……気分が悪い。すっごく、嫌な予感がする」
「大丈夫、シルティ?」
「気をつけて。たぶん手ごわい敵が、いる」
通路の先、開けたところは広場のようになっていて、吹き抜けの天井からも光や風が入り込んでいた。広場の隅を凝視すると、三つの影が浮かび上がる。うちの二つが何なのか、シルティはすぐに解ったようだった。
「ヴィヤーグラ、シャルドゥーラ!」
「……待て、様子がおかしい!」
駆け寄ろうとするシルティをダートゥが片手で制した。ルチヤも身構え剣を手にかける。嫌な予感は二頭の虎の間にいる、三つ目の影の存在だった。
腰ほどまでの高さで宙に浮いた、女性の姿の怪物。腕からは金茶色の翼が生え、腰のあたりから羽毛に覆われ、膝より下は鳥のかぎ爪になっていた。
――来たか。
女形の怪物がこちらに向き直ると、それに呼応するように二匹の虎が前を塞いだ。
「ヴィヤーグラ、シャルドゥーラ……あなた達、どうしちゃったの?!」
シルティが焦った声で問いただすも、二匹は動かない。彼女の“声”が届いていないようだった……
「やめて……あたしからこの仔たちを盗らないで! 」
何が起こっているのかルチヤにもわかりかけていた。二匹の獣に対する主導権を奪われてしまったようだ。小声でダートゥが脇から語りかけた。
「俺がやる。二匹を気絶させる方法がある。鳥女は任せた」
「……わかった。信じるわよ」
前へと進み出るダートゥの、斜め後ろについた。ヴィロークはその後ろで大きく弓弦を引き絞る。
「気休めにしかなんねぇかもしれんが……っ!」
ヴン……と空気が震えた直後、二匹の虎が硬直した。ダートゥは腰を低く落とし、金毛のヴィヤーグラの額に掌底をぶち当てる。“気”の籠ったその一撃に虎は唸りかけるも失神したようだった。
ルチヤは鳥女の怪物に疾風の斬撃を飛ばす。片翼を掠めたが怪物が態勢を崩した様子は見受けられなかった。
「シャーッ!!」
銀毛のシャルドゥーラがルチヤに襲いかかる。ウーツ鋼の刀剣で受けるも本気で踏み込めない状況にルチヤの胸中は焦った。が、獣の脇腹をダートゥが思いっきり蹴り上げ、のけぞる虎の顎に掌底を決めた。
二匹目が沈み込む間もなくルチヤは身を捻らせ、鳥女の怪物に剣で十字を斬る。その二撃は躱そうとした翼に直撃し、あたりに金茶色の羽根が散った。その中で鳥女の瞳が妖しく光る。
――見事だ。私のしもべとなるがいい……
「ルチヤ……!」
シルティが声を張り上げ、ルチヤははっと我に返った。相手に思考を絡めとられそうになっていたのだと気がつく。
「貴女は、ルチヤも奪う気なのね……許さない!!」
シルティの“気”が、怪物の“気”とぶつかり合うのをルチヤは感じた。
「大丈夫……よ。あたしは、あんたの傍にいる、から」
切れ切れになる意識の中で、かろうじてその言葉を絞り出した。鳥女の怪物に向き直る。怪物は音も立てず近寄ってきた。
――何故、その娘に従う? 我のほうが、強いというに。
「べ、つに、従うとか、そんなんじゃない。シルティは、あたしの家族よ。あたしは、あんたに従う義理がないだけ」
鳥の怪物は手のかぎ爪の先をゆっくりとルチヤへと向けた。そのままルチヤの喉元に、爪先を突きつける。
――その気持ち……最後まで背負えるか? 世界の破滅がやってくる、その時まで――
鋭い鉤爪がルチヤの喉元に食い込み、そこから血の滴が細い筋となって流れ落ちた。ルチヤは微動だにせず、ゆっくりと唇だけを動かした。
「……やってやるわよ、最後まで」
鳥の女は口元を歪め、薄く笑った……かと思いきや、すうっと姿が薄れていった。
――その覚悟、見届けた。汝にアーリア・サラスの導きが在らんことを。
ルチヤの目の前には、薄青く光る雫型の石が浮いていた。無言で手を伸ばすと、それはすうっとルチヤの手の中に収まった。
同時に、ゴゴ……ッという岩の擦れる音がして、広間の別の一画にあった両開きの扉がゆっくりと、開いていった。眩いばかりの光と冷たいが清々しい風が、一気に広間の中を満たす。
その扉の先には、風に揺れる緑の草や白い沙羅、曼珠沙華などの花々が。極楽のような庭園が広がっていた。




