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2.アーリア・サラス教

 ルチヤは声をかけてきた男と、その連れを値踏みするように見つめ返した。荷物からして川漁での仕事を終えた帰りだろうか、むき出しの腕や腹は筋肉質でよく鍛えられている。そして若い盛りの男衆にしばしば見られる、悪戯心をひそませた薄笑いを浮かべていた。

「姉ちゃん、さっきの踊りはよかったよ」

「それはどうも。そう思うんなら、もう少しお捻りを頂けるとこちらとしても嬉しいんですがね」

 シルティが見物料を回収している間におおむね把握していたが、この連中はさほど金を出してはいなかった。あてにはしていない望みを要求すると、若い男の薄笑いは苦笑いへと変わっていった。


「それはまあ、これからってことで了承してくれないかな――例えば、今日の夜とかに」

 きた、とルチヤは心の中で身構えた。舞いを生業にしているとこういう要求は必ずやってくるのだ。春を売る仕事。むしろこちらのほうが本業だという輩は決して少なくない。だがルチヤは数少ない、そうでない方の舞手であった。

「悪いが、あたしは芸を売るまでにしているんだ。それ以上は他をあたってくれないかな」

「そうかい、そいつは残念だ――じゃあ、他っていうと、そっちのお嬢さんかな。俺としちゃ、あんたみたいなほうが好みなんだがね」


 男の視線は荷をまとめていたシルティに向いていた。迂闊だった、とルチヤは今になって後悔する。つい最近までほんの子供だと、ルチヤ自身もしばしば軽んじていた問題だ。年のころ十三、四歳と見られる彼女は、そろそろそういった客をとることも珍しくない容姿にまで達していた。

 ルチヤ自身は十八、地域によってはトウの立った嫁き遅れとみなされることも多く、そういった要求を投げかけられることにも慣れていた。だが、妹のように共に日々を過ごしてきた少女の扱いは、ルチヤとしても図りかねていたのだ。


「この子の芸は歌だよ、それはさっき充分披露したと思ってるんだがね」

 シルティ本人に話を振ったら、了承してしまうかもしれない。身寄りのない孤児の彼女は、成りゆきで自分を拾ってくれたルチヤに恩を感じている一方で、それがルチヤの負担になっていないかを常に気にしている。だがルチヤとしては、自分が避けている道を彼女に歩ませることは見過ごしておけなかった。

「とにかく、今日のところは勘弁してくれないかな――まだ王都についたばかりなんだ。ここの流儀に慣れていないもんでね、また縁があったら、そのうちにね」

 こういう時、うまく話を切り上げられないのは自分の不足するところだと痛感する。この手の輩がこの程度の断りで諦めるほど、聞き分けがいい連中ではないのだ。


 案の定、男には行く手を遮るように回り込まれてしまった。

「王都に不慣れってんなら、俺が紹介してやるよ。今日の宿は決めてないのかい? だったら、お薦めの安くていい宿が――」

 しつこく食い下がってくる男をどう追い払おうか、頭を悩ませていたルチヤに別の声がかかった。

「そこの。表通りの客引きは、長引くほど話し込むのは控えるように、という触れが出ている。その辺にしておいたほうがいい」

 冷静な固い声。市場警備の役人かと思いきや、そちらを見たルチヤは意外に思った。声の主が武器一つ持たない、粗末な僧衣を纏った人物だったからだ。


 象牙色の髪に、日に焼けた褐色の肌。体格は中肉中背で、女性にしては長身のルチヤからみると、さほど威圧感をおぼえる印象はない。ただ鍛えられた筋肉質の身体は、僧衣を纏っていても隠しようがなく、絡んできた他の男衆を静かに圧倒していた。

 飾り気のない生成りの僧衣の上に、ひとつだけ目をひく装身具があった。首から下げた真鍮の細工物。それは黄金の羽根――アーリア・サラス教の聖印――を模していた。


 アーリア・サラス教。先ほどの『月の恋人(ウル・カーンタ)』の演目にも出ていた、太陽の精スーリヤ・アーリア・サラスを崇める宗教だ。アーリア・サラスはこの女神とも称されるスーリヤに与えられた尊称で『最も高貴なる天女』という意味を持つ。大陸を長く統治していたヴェダ王国の主教でもあり、ミトラ一世によって復興した、今の新ヴェダ王国でも主要な信仰となっている。

 その聖職者には一定の権限があり、今のように控えめな発言であってもその意思は尊重され、場を調停する役割を担っている。その彼が口を差し挟んだ意図は他の男たちにも伝わったらしく、彼らは困ったような迷惑そうな顔で僧衣の男に向き直った。


「いや、そんなにしつこくするつもりじゃなかったんですがね。ついつい、話が長引いてしまったってだけのことで。迷惑に思ったら申し訳ないですけど、このくらいは勘弁してくださいよ」

「済まない。どうも、そちらの婦人方が困っているように見えたのでな。こちらこそ、話を邪魔して悪かった」

 そう言いつつも僧衣の男は場を去る素振りを見せなかったので、居心地の悪さに最初に声をかけてきた男たちは、渋々その場を切り上げることにしたようだ。静かに安堵のため息を漏らしたルチヤは、僧衣の男に向き直る。

「助かったわ。都はまだ不慣れなことばかりなの。何か問題があったようなら遠慮なく言ってちょうだい」

「いや。別に通りでの興行が問題だったというわけではない。しかし今日の宿にも困っているとしたら、それは問題だが――」


 少し考え込む男の横で、ルチヤは再度困り果ててしまった。こう言っては何だが、しつこく絡んでくる連中を撃退した恩人が、実はもっと性質の悪い絡み屋だった、というケースも少なくはないのだ。横目で荷物をまとめていたシルティを伺い見たが、彼女はきょとんとした顔でこちらを見返したのみであった。先ほどの男衆の時とは違って緊張した様子は見られない。勘の鋭い彼女が警戒していないのは、それはそれでいいことなのだろうが……


「おい、何だあれ?!」

 先ほどの男らのひとりが叫んだのを機に、ルチヤは空を仰ぎ見た。黒い、雁や鳶にしてはやや大きい鳥の形をした影の群れが五、六羽と迫り来る。

怪鳥(カガマ)だ、隠れろ!!」

「おい、誰か衛視を呼んでくれ!」

 穏やかだった噴水広場の空気が、そこで一変した。

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