11.北霊山中腹へ
「知り合いがルチヤさんの『月の恋人』、すっごく素敵だったって言ってましたよ! 何ていうのか『魔帝争乱記』や『英雄王の試練』とかって、戦いの話ばっかりじゃないですか。ロマンチックだし、あの男性の役のちょっと武骨過ぎないところとか、いいなぁーって。私もそういうの好きだから、気持ちすごくよくわかります!」
司書のレッカは単なる本の虫という人種ではなかったらしい。最近入手した文献を書庫に持ち込むたびに、それとなく世間話をする間柄になっていたのだが、過去もしくは空想の世界に入り浸るのが好きな人種のようだった。
「そこ、盛り上がってるところ悪いんだけどさ。ヨーディン団長からの召集がかかってるんだ」
「あ、そう。じゃあ行ってくるわ」
「はい、また来てくださいね、ルチヤさん」
最近馴染みになってきた四人連れで、最奥の団長室へと辿り着く。
「聞いているぞ、順調に探索に慣れてきているようだな」
「おかげ様でね」
「どころで最近暑くなってきたな、どうだ山登りしたい気分にならんか」
「?」
猛暑の地も多いアヴァニ全土のうち、避暑に適した場所は限られる。南部中央のマディヤ高原か、あるいは北部の山岳地帯、俗に北霊山と呼ばれるデウギリ山脈だ。一説には人との交流を断ったアプサラスが隠れ住んでいる地とも言われ、デウギリは”女神の住まう山”を意味すると言われている。
「そこに住んでる知り合いの聖仙がだな、何人か話を聞きに寄越せと言ってやがるんだ。だから行ってこい」
「……」
何というのか、随分と説明を端折られた気がするのだが、これはどう解釈すればいいのだろうか。
「えーと……、具体的には、まずその人の名前を聞きたいんだけど」
「プラーヴァクトル。聖仙の中じゃわりと有名なほうだ」
聖仙というのは、アプサラスの血が濃く、その力を俗世で利用されると危ういと判断した者が自ら北霊山に籠り、俗世との因縁を断ち切ったいわゆる隠者らだ。人とアプサラスの間をとり持つ存在として一目置かれ、時の為政者はしばしば助言を求めて北霊山に使いを出すことがある。
「そういうのって、これが初めてなの?」
「この傭兵団ができてからは、初めてだな。何しろ一年のうちで他の季節に行く気にならん場所だからな」
確かガーナ傭兵団が結成されたのは、五、六か月前とのことだ。それでは確かに初めてということになるだろう。
「山登りの準備ができたら、紹介状を渡すからそれ持って行ってこい。ダラダラしてると暑季が終わるからな。一年後まで世界が滅びない保証はないぞ」
「北霊山……かぁ……」
「浮かない顔だな、嬢ちゃんらは」
「うん、前にちょっと……ね」
ルチヤにとっては、見聞を広めに――言ってしまえば芸の肥やしになると考えて踏み込んだことのある地だ。雪の下や桜草、天上の華とも謳われる青い芥子。詩歌に名を連ねる美しい高地の草花を、ぜひに自分の眼で見て確かめたいと。
そこで出会ったのがシルティだった。一夜の宿にと留まった洞穴で見つけた。ぼろ布の上から鹿の毛皮を纏い、金と銀の二匹の虎に守られた年端もいかぬ幼い少女。首には二頭の母虎の、形見の牙を蔓草で繋げたものを提げていた。
警戒する少女を前にして、その時ルチヤはただ、一片の干し芋を差し出した。片言であったが北部の言葉がなんとか通じた。洞穴を発つ時に差し伸べた手を、彼女は握り返してきたのだった。
シルティのおぼろげな記憶によれば、両親とともに北霊山の聖仙のもとを訪ねようとしたところ、親とはぐれてしまったとのことだった。ルチヤは彼女を連れてそれらしき聖仙を訪ねたが、その隠者はシルティを占った後に首を振った。此処に留まる星のさだめを持っていない、流浪の運命を持たされていると。
それで彼女はルチヤとともに旅することを決めた。仙人も天人も、自分を助けてはくれないのだと思うほかなかった。そしてその時以来、北霊山を訪れる気になれなかったのだ。ルチヤもアプサラスの住まうとされる頂上付近、俗に”万年雪の領域”と呼ばれる場所にまでたどり着こうという意欲は無くしてしまっていた。
「大丈夫だって。聖仙の連中もそんな頂上に住んでるわけじゃない。団長の言ってたプラーヴァクトルって爺さんの庵も”万年雪の領域”よりずっと下のほうにあるって話だ。さっさと片づけて涼みに行こうぜ」
ヴィロークはいつも通り口数多く、そしてダートゥもいつも通り口数少なく旅の支度にとりかかった。
「寒い、寒い寒い!」
「ルチヤーそんなに言わないでよ、口に出すと余計寒くなる……」
毛皮の防寒具をしっかり揃えてすらこの有り様だ。麓に広がるアダシュタット平野の暑さが嘘のように退いていた。他の三人は無駄な体力を使わないよう、口数も少なかったがルチヤは我慢できずに文句をつけっ放しであった。それというのも……
「今回は寒冷地だから、ルチヤに食事制限をかける必要はない。それより心配なのは彼女のほうだな、小柄だといっそう熱を溜められずに身体が冷えやすくなるものだ。ほら、これを食べるといい」
ダートゥが皆に配ったのは生姜糖――角切りにした生姜を黍糖で煮込んだものだった。一口頬張るだけで体の中がカッと熱くなる。黍糖のコクのある甘さとよく合い、休憩時の疲労回復にはもってこいの一品だった。残った黍糖の汁を湯で割って薄めたものも、飲めば全身が温まる。
相変わらずダートゥの用意する食べ物は旨いし、健康的だ。ただ……
「ルチヤ、どうした?」
「んー……何だろ、何か物足りない感じがして」
「襲ってくる獣や魔物は基本的に火に弱いはずだから、魔力も”火の気質”を維持するのは大事だ。お前ならいつもの状態を維持していれば、問題ないはずなんだが」
「そういう……ことじゃなくてさ、何だろう、本当に……」
真正直に自分を心配してくるダートゥ本人には伝わらなかったようだが、シルティとヴィロークの二人は心当たりに思い至ったらしく、二人で目配せしたうえでニヤリと笑った。
「あれこれ口うるさく言ってくる奴がいないのが、寂しいんじゃねーのかなぁ」
「そこ、うるさいよ!」
図星の腹いせに、ルチヤは薪を乱暴に投げつけて火にくべた。